悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

様子を見る


会社ではめんどうなことを「様子を見る」という場所に押し込んでいる。会社だけではない。いろんなことを「様子を見る」にしている。

様子を見つつ、サボって野球の動画を見る。
マリーンズの佐々木投手。あまりにもよくわからないので笑ってしまう。すごくダイナミックなフォームですごく速い球を投げる。バッターはびっくりしているようですらある。

少年野球でいちばんダメ出しされるのは見逃し三振だと以前に聞いたことがある。「様子を見る」とは来た球を見逃すことかもしれない、とふと思った。

人生で何度かバッターボックスに立ったことがある。比喩ではない。来た球を見るなんてことはまったく困難なことに思えた。
野球には「外角」とか「内角」とか、バッターの立ち位置から投げられたボールのコースを表現する言葉がある。
ピッチャーはその外角とか内角を一球ごとに微調整して投げてきて、バッターは来るたびに微妙にコースが変わるボールを見極めてバットを振るわけだけど、こうして言葉にしてみたときの、なんとなくそういうものだろうという感覚と、実際にバッターボックスに立ったときの感覚はまったくかけ離れている。

とにかく来た球を引っ叩こうとバットを振ると「ボール球に手を出すな」などと言われてしまう。
野球には「ストライク」と「ボール」という言葉がある。ピッチャーの投げた球があらかじめ定められたコースを通過すれば「ストライク」、そこから外れれば「ボール」となる。「ボール」が4回続くと一塁に進める。それはつまりヒットを打ったのと同じになる。だから「ボール」は振らないほうがいい。それに、「ボール」は比較的打ちづらいところのコースにたいして与えられた名前だから、いずれにしろ「ボール」を振ることは野球の基礎的にNGなのだ。「ボール球に手を出すな」とはそこから生じる。

ところが、この「ストライク」と「ボール」もまったく見分けがつかない。すべては「来た球」として一様であり、それらに違いがあることなど素人にはまったくわからない。

だからこそ、来た球に戸惑い、ただ見逃すより他ない。

つまり、私にとって「様子を見る」とは会社においてもこのような意味だということだ。
しばらく様子を見ます、などと何かを理解したような顔で同僚や上司に言っているけど、実はなにが起きてるかよくわかっていない。

この茫然とした様子見こそが、私が多くのことを眺めるときの基本的なスタンスなのでないか。
観察ではなく、動き出せないからただ見逃すしかない。そのような「見る」。
ただ、バッターボックスと違い、見逃しても誰もストライクやボールの判定をしてはくれない。ある日突然「アウト」と告げられるという説もある。

そういえば、レイモンド・カーヴァーに親しみを感じるのは、彼の文章からはこうした戸惑いを感じるからかもしれない。レイモンド ・カーヴァーの描写には呆然とした「見る」が含まれていると感じる。
チェーホフは呆然とした人々を描いたが、カーヴァーは視点そのものが呆然としている。なんていうふうに、言うことができるだろうか。

youtubeで素晴らしい投手の素晴らしいシーンを繰り返し閲覧し、そこに映るなにも理解していないかのようにボールを見送る、本人もまた一流の選手であるにもかかわらずそうしたことは結局相対的であり超一流と対峙したときにはそれなりに私とも似たような戸惑いをみせる、バッターたちに親しみを感じながら。