悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2021/08/22

この話をするためにはまずその前提の誤解を解かなくてはと思っているうちに話はどんどん進んでいき、進めば進むほど誤解は絡まりあって、もはや意思の疎通など不可能ではないかと絶望していると、相手はいつのまにか満足した様子で、じゃあまかせたよなどと言っている。
私はなにかを任されたまま途方に暮れる。
手がいっぱいなどと言うので、私はまかされたものを両手にかかえているのかもしれない。
背負うとも言うので、まかされたものは上半身におおいかぶさるのかもしれない。
すべてのスポーツの基礎は下半身にある、つまりは足腰の強さなのだと、世界のホームラン王こと王貞治は言ったそうだが、仕事もまたそうだとすれば、上半身でばかり取り組むから途方にくれてしまうのではないか。刑事ドラマでも、事件は足で解決するのだと言うではないか。
文学にしたって、村上春樹がマラソンをするのもつまりは上半身偏重に対する批判的な視座からである。
そのことはレイモンド・カーヴァーが、何から影響を受けたかと聞かれて、自分の子どもたちであると、つまりは長篇小説を書くゆとりのない生活が自分を短篇作家にしたのだと書いたのと正しく通じている。
下半身について、私的な性にかんする下世話な喩えとして用いられることがあるだろう。
しかしそれは根本的な罠だ。
村山春樹が下半身偏重だという文章を読み、たしかに村山春樹はセックスのことばかり書く作家だと思った人は例外なくその罠に囚われている。
つまり下部構造こそが重要だと、いや、そうではなく、再生産がプライベートに押し付けられていることの謂いであると、いや、なんだか、ジョークにしたってめちゃくちゃだ。
しかし、とにかく、いずれにしろ、私に出来るのだろうかと、無能を嘆きつつ、抱えた仕事を前に途方に暮れても、言葉にすることはいつだって背負わされた荷をおろすことで、それはきっと根本的な抵抗なのだと言い張って、寝る。おやすみ。