悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

私にとって歩くこと

歩くことが好きだ。
ただ、それはすごく消極的な形での好きかもしれない。
積極的な、自らの未踏の地へと赴いて目を凝らしては街中を闊歩していくようなことは、べつに嫌いではないしむしろそれだって好きなのだとはいえ、頻繁にしていることではない。

散歩という言葉も苦手かもしれない。
自由という言葉が苦手なのと似ている。
それらの言葉に途方もない期待と羨望を負わせてしまっているために、口に出すことをためらってしまう。
都内を気ままに歩いてみようと思っても、休日の午後の短さを頭のすみにとどめたまま、山手線の引力からまったく抜け出せずに気付けば線路に沿って歩いてしまう。そのような自分にがっかりしてしまう。

それでも、歩くことは好きで、私にとって歩くことはしだいに散歩とは明瞭に乖離し、その輪郭をとらえはじめている。

思えば、中学生のころ、小学生まではあった通学班というのがなくなり、友達のいなかった私はひとりで歩いて学校へ通っていたのだけど、うっかり口にしたことで嫌われたのではないかと何をしても不安になっていた学校や、家にいる時間よりも、それは穏やかな時間だった。
自転車で通った高校時代も電車に乗った大学時代も同じで、通学する移動の時間は、傍目には「移動」でみたされており、その影に隠れた気ままな瞬間があったのだと思う。

いまはやはり徒歩で会社に向かっているわけだけど、あいかわらず仕事のことも家事のことも考えずに気ままな時間を過ごしている。宙ぶらりんな時間。周りの人たちよりもほんのわずかに遅いペースをきざむ歩き方で私は弛緩している。

しかし、こんなことは趣味とは言わないだろう。仕事や家事などに圧迫され撤退しつづけるなかで見出された、かろうじて一息つける時間だ。

そういえば、趣味というのは無限に凝っていってしまう側にあると思う。生活はそれを押しとどめる。決まりきった道を歩くことは生活の側にあるだろう。
では、決まりきった生活の中にある気ままな時間はなんと呼ぶのだろうか。私は、ためしに慰めと呼んでいる。しかし、あまりしっくりとはきていない。