悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

道具に馴染む

道具に馴染む
昨年末、パイロットの万年筆をもらった。
金ペンの入門的な一本だという。入門といっても、自分ではなかなか手がでない。
それはMニブで、同じMでもステンレスのものとは書き味がまったくちがう。どちらが良いというわけではないのだけど、まったくちがっている。
嬉しくて、くれた人の前で、さそっくインクをいれて書いてみた。ところが慣れない書き味のため緊張した字になってしまい、私たちは戸惑った。たまたま広げたノートの6mm罫線は小さすぎたし、なんだか気詰まりな雰囲気になってしまった。

万年筆の世界には、使えば使うほど手に馴染むというある種の信仰のようなものがあるらしい。手ぐせで、ペン先が変化するということのようなのだけど、実際のところはよく知らない。
自分自身によく馴染んだ道具というものには憧れがある。
使い込んで、まるで身体の延長のようになるもの。
料理人の包丁とかミュージシャンの楽器とか。
費やした時間と情熱に、ものそのものが応えてくれるという。
いぜんバイトをしていた植木屋で、はさみの研ぎ方を教えてもらったので、実践して見てもらったところ、最終的には使う人の好みだからとつっけんどんに言われて感動したことがある。

とはいえ、日々ささやかな不安に苛まれる私にとっては、そもそも、道具がよく馴染むというその身体そのものが曖昧だ。
だから、道具とはむしろ私に身体を与えてくれるものなのではないかと、もらった万年筆で書きながら、しだいにその書き味が楽しくなりながら、思った。

道具が私に馴染むのではなく、私が道具に馴染んでいる。
きっとどんな道具であれ、使っていれば私の身体は馴染んでいく。
精巧な工業製品よりも、私の身体はやわらかい。

ところが、ほとんどの場合、私は最初に手にしたときの違和感で、それを手放してしまう。使いにくいな、と思ってしまう。
しかし、手放さずにしばらく付き合いたくなるモノもなかにはある。時間のなかでつくりあげられた価値だろうか。それは権威といってもいいかもしれない。

権威という言葉はネガティブなもののようで、どきどきしてしまう。
しかし、その胸の高鳴りが権威への嫌悪感なのか馴致されることへの悦びなのか、わからなくなり、私はますますあいまいになっていくようである。