悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

二人乗りの自転車に乗る、深刻な話をする

去年のいまごろのこと、私たちは昭和記念公園に遊びに行った。
休日だったのでたくさんの人がいた。
私たちは自転車で園内をまわることにした。普通のママチャリと二人乗りの自転車とを貸し出しており、私たちは二人乗りの自転車をレンタルした。
漕ぎ始めるとふらふらするので大人げなく騒いでしまったが、一生懸命漕いでいると次第にスピードが出て安定した。

園内には起伏があり、日頃ほとんど自転車に乗らない私たちにとってはよい運動だった。私たち以外にもたくさんの人たちが自転車を漕いでいて、坂をのぼったりくだったりしていた。
そして、私たちはたいへん深刻な話をすることになった。どういう流れであったのかは覚えていない。ちょっと視界に入ったものから連想して、ぽろっと口に出てしまったのだろう。迂闊になってしまう良い陽気だった。

深刻な話というのは、将来とか人生とか、考え出せばきりがないし満足する結果なんて決して出ないのにも関わらず、私たちが私たちであるためには話し合わなくてはいけないようなことだ。

しばらく漕ぎ続け、ときとぎ自転車を停めてあたりをぶらぶら歩く。ぶよぶとした大きなバルーンみたいな遊具の上にぎっしりと集まった子供たちが気ままにぴょんぴょんと飛び跳ねるのをみたり、小さい池でボートに乗ったりした。自転車を降りているとき、私たちは飛び跳ねる子供たち、ボートに乗る人たちの印象やお昼に食べたいものについて話した。
そして自転車に乗ると十分なスピードが出るまでは重たいペダルを漕ぎ、ふらふらとゆっくり、深刻な話を再開した。

私たちはこれまでよりもうまく話すことができた。
これまで深刻な話は深夜のダイニングテーブルで向かい合ってするものだと思っていた。まさか二人乗りの自転車ですることになるとは思わなかった。
なんというか、人と真剣に話すときはお互いの表情なんかをよく見て、テレビとかそういう気が散るようなものは消してしなくてはいけないと思い込んでいたのだ。
しかしどうだろう。その時私たちはひょっとしたら目を見ることによっては出ない言葉もあるのかもしれないと思ったのではないか。
言葉だけが存在しているかのような生硬さを自転車の漕ぐことでいくらかやわらかいものにかわるというか。

勢いよく下り坂をくだるとき相手の声は聴きとりづらくなり、必死に上り坂をのぼるとき荒くなった呼吸で言葉はうまく発せられない。それでもペダルを漕ぐ足の動きに励まされて会話は続き、互いがいまどんな顔をしているのかわからないまま、何かを感じ取るために耳をすませる。その時耳は体全体であり、私たちの声は肌が感じる温度、自転車の振動、木々のざわめきや人々の喧噪との混ざりあいのなかでむしろ鮮明にメッセージを届けているようだった。
たっぷりと自転車を漕ぎ、私たちはそれなりに満足した気分で帰路についた。しかし、なにかが解決したわけではなかった。

物事には解決する必要のないこともあるのかもしれない。私たちが深刻に話したことがそのようなことなのかはわからない。もしかしたら私たちは取返しのつかない判断ミスをおかしてしまった可能性だってある。
ただ、私たちはある晴れた五月の日に二人乗りの自転車に乗り深刻な話をしたのだ。