悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2022/05/31

静かな午後には、水の中にいるようだと思うことがある。

古いビルの一室にある事務所はコンクリートがむき出しになっていて、私以外には誰もいなかった。
室内はほの暗いブルーの色合いを湛えていた。曇っているためか。窓は灰色だった。
ちらちらと窓を眩しく感じた。窓を開けたら雪が積もっていてもおかしくないと思った。それは室内は冷房がついていて暑く感じなかったからかもしれない。
室内は涼しかった。
私は水の中にいるような気がしていた。
この室内は水の中にあり、白っぽく光る窓が水面だと想像してみると、なんだか良い気分になる。
ああ、いまは水の中にいるようだと思う。
昼間の明かりが消えた室内で一人になるとき、私はなぜかそのように考える。
電気のついていない室内は、白と黒と灰色があり、それらはほんのり青色をおびている。その青色こそが水中らしさ、というか水そのものかもしれない。秘められた色合いが滲みだし、空間をおおう。
コピー機が小さいな明かりをともしている。
電子機器の微かな作動音は、水槽のポンプに似ている。
水中は静かでゆっくりとしている。
静かでゆっくりとした時間を私はたぶん良いものだと考えている。
なにか、不意にあらわれるそうした時間に与える名前のひとつとして水中にいるようだと思うのかもしれない。
なぜなら静かでゆっくりとした時間は重要なもので、決して取り逃がしたくはないからだ。
言葉があいまいなものであるのは、時間を先取りしないためかもしれない。
あらかじめ、水中を期待することなく日々を過ごすために、あいまいな言葉をひそめている。
全体がスローになるのを感じる。
私以外は限りなく静止しており、私もまたそれらのバランスを崩すことなく、ゆっくりと歩くことができる。