悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記4/1

4/1

〈そして、僕が十六年前と同様、自己弁明のためにルソーと彼の『告白』という先例を引くのも、以前ほどの自信があってのことではないことを断っておかなければならない。なぜならば、不正をきわめてはいるが−−少なくとももっとも醜悪ないくつかの面においては−−間違いなく修正可能なこの世界、つまり僕たちが生きているこの世界に生きる人間は、誰一人として、逃亡や告白という手段を用いることで責任を果たしたと称するわけにはゆかない、現在の僕はこう確信しているからである。〉ミシェル・レリス『幻のアフリカ』

ちょろちょろと『幻のアフリカ』を寝る前なんかに読んでいる。いまだその分厚さに慣れずどういうふうに持ったらいいのかわからなくて途方にくれている。

それでも引用した序文がよく、期待がある。〈逃亡や告白という手段を用いることで責任を果たしたと称するわけにはゆかない〉。

『幻のアフリカ』を読んでいこうと思いつつもなぜか小島信夫『私の作家遍歴』も読み始めてしまい、こういうのはあまりよくない。

経験的に、興味があっちこっちに行ってしまい、しかもそれを動かすのが謎の焦燥感であるとき、精神状態はあまり良くない場合が多い。
比較的、余暇は本を読んで過ごすことが多く、読書の仕方で体調というか気分を知るきっかけになっているかもしれない。こういう気分のときに読む本はたいていちっとも頭に入らないし、面白く感じないことが多い。いっそのこと本を読んだりするのはやめて違うことをするほうが良いのかもしれない。だいいち読書はそれほど好きではない。好きだと思うこともあるけれど、やっぱりさほど好きではないような気がする。習慣であり、なにもそうしようと思ってしていることではない。

バーベキューがしたい。上流の、涼しい木陰があって、ちょうど川がカーブになっているところがいい。緩やかな流れで少し深い。気の合う仲間と集まって楽しむ。
しかし、この場合、楽しむというのはどうしたらいいのだろう。そもそも気の合う仲間とは。緊張して呼吸が浅くならない関係とは。まったく想像ができず途方にくれてしまう。一度ならずバーベキューに行ったこともあるけれど、ものすごく苦痛に感じた。

したいことができるとは限らない。選択肢というのはさほど多くない気もする。なにかを選び取ることは難しいし、ほとんどの場合できない。
なので、選ばされたことをしなくてはならない、ならないというか他にすることはないし、義務や強制ではなく、ただそうなってしまっている。

とかなんとか言ってみても、『私の作家遍歴』は面白いのでそちらへ気が向いていきそう。まだはじめのほう。語り手は進んでいく方向を示唆しつつも、あまり強く舵をとらない。話は小泉八雲を中心に進んでいく。
〈今回は、腹をきめて、どうせのこと、ヘルン先生にしばらく控えて貰うことにしてもう少し羽根をのばしてみることにする。こうした迂路はやがて裏からヘルン先生に迫る路でもあるのだから、しばらく御許し願いたい。〉(日本のもう一つの顔)
などと横道にそれることを宣言したりする箇所があるけれど、このあたりはまだ装いとして安心して読んでいられる。あまり切迫するようなものはない。
語り手と語る対象との距離が縮こまっていくようなところのほうがスリリングな感じがして面白い。どこか良い箇所がないかと思ったけれどすぐに見つからなかったので引用なし。

明日もどうせ辛いけど乗り切りましょう。そのためには良い睡眠を。