悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

フクロウをみた

辺鄙なところで育った。
明け方になると、鳥の鳴き声で目が覚めた。
持久走がある日はとても嫌でいつもより早く目が覚めてしまった。耳を澄ませても鳥の声がしない。雨が降っているからに違いない、と期待して雨戸を開けると晴れているということが何度もあった。
雨戸を閉めた暗い寝室で鳥の声に耳を澄ましているにだんだんと声の差異に気づくようになったあたりから、鳥に興味を持ち出して、野鳥の会に入っていたおじさんに色々教えてもらったことがのちのち鳥類研究の道に進んだきっかけと、などとはならなかった。

むしろ、最近まで、明け方にホウホウと鳴く鳥をフクロウだと思っていた。
フクロウのことを立派で恭しい存在だと思っていたので、辺鄙ながらも、家の裏手にフクロウがいる山があることを嬉しく思っていた。
しかし、明け方にホウホウと鳴くのは、フクロウではなく山鳩だった。
母が教えてくれたのだった。
鳥の鳴き声とか、花とか虫とか、名前を知ってる人は尊敬する。
教えてくれると嬉しい。

前の職場の人は、訊けばぽんぽん教えてくれた。教えてくれるのは、いいけれど、しばらくすると、「あの木の名前わかるか」と前に訊ねた木を指差し、答えられないと怒られた。
そういうとき、小林勝行の「108bars」の〈おぼえる、おぼえる〉という言葉がよぎる。
大学のときの先生は、街路樹を指差して、いろいろ名前を教えてくれたけど、「でも確実にそうとはいえない」となどと学者らしい誠実さ(?)をみせた。

持久走の前日には、雨が降りますようにと神様に祈った。
だからこそ、明け方に鳥の鳴き声が聞こえないことを、なにかの兆しに感じたのだ。
そうだ。私は小さいころ、寝る前に神様に祈るタイプだった。
世界平和について祈ったこともある。
その善良さをひっそり抱えて生きてきたわけだ。私の羞恥心は、私が悪いやつであるということよりも、この根本にあるのんきな善良さのせいかもしれない。

雨が降りますように。
好きな人と両想いでなくてもいいので、高校に受かりますように。
多くの場合、雨は降らなかったけど、高校には受かった。
ああ、どうせなら、もうちょっと良い高校を受験すれば良かった。
ああ、どうせなら、高校なんて受からなくても良いから両想いになれれば良かった。
小学生のころ、桃太郎でゲームのコントローラーを買ったら、レシートに当たりと書いてあって、無料になったことがある。
ああ、どうせなら、プレステ2にしておけば良かったと思った。
桃太郎って、あった。
中古のゲーム屋さん。
TSUTAYAとかブックオフのパキッとした照明が私のことをひょろひょろと育ててきたのだと思っていたけど、桃太郎だってよく行ったのに、あまり思い出さない。

神様に祈るとして、雨が降りますようには、まあいいとして、Aは諦めますからBをくださいというのは、ずいぶん不遜じゃないだろうか。

翌日、風邪をひいて休めるように、布団をはぎ、お腹を出して寝たこともあった。
神様に祈るより、実際的ではないか。
風邪をひいたと嘘をつけば良いものの、わざわざちゃんと風邪をひこうと努力するあたり、小心者の狡さが出ていて、あまり思い出したくない。
「先生、気持ち悪くて吐いちゃったんで帰っていいですか」と言ったときも、誰も見てというのに、わざわざ事前にトイレで吐いてからにするのだった。

明け方に鳴いていたのは山鳩だったけけど、フクロウを見たことがある。
家の前の電信柱に鳥がとまっていた。もう、暗い時間で、横にいた父が「フクロウだ」と言ったのだけど、はっきりとは見えなかった。たしかに鳥であることは間違いなかった。いつのまにか、妹も横にいて、キャーキャー言っていた。母も呼んでこようと父が家の中に戻っていく。暗がりでじっとしている鳥をずっと眺めていると、だんだん本当にそこに鳥がいるのだろうかという気持ちになってくる。その間にもあたりはどんどん暗くなっていくから、余計に、見えずらく、鳥なのか、どうかももはやはっきりしない。
しかし、鳥は不意に音もなく飛び立ち少し離れた電信柱にとまった。
こちらからはさらに遠く、もう、まったくどうか見分けることはできない。
あ、いま、飛んだ。
と妹が言い、フクロウは飛ぶときとても静かだとどこかで聞いたことを思い出したのだった。
たしかにさきほど静かに飛んだのではなかった。何の音もしなかったようだった。ほんの一瞬前のことを思い出すと、鳥が羽を広げわずかな距離を移動していく、夜空を背景に黒く曖昧な姿は、とても長い時間であったように思い返されるのだ。

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