悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

2018-11-29

池袋の三省堂のアウトレットコーナーで草森紳一『本の読み方』を購入。同コーナーではじめて本を買ったと思う。

文庫コーナーにはリブロについての文庫本が平積みされていた。わたしの知っているリブロはもう別に求心力のあるころではなかったと思う。一階に河出文庫を中心に思想系の本が並んでいる一角があり、ふうんと思った。大島渚の『新宿泥棒日記』を観に行ったとき、上映前だか後だかに宮沢章夫トークがあって、新宿泥棒日記が撮られた当時の新宿紀伊国屋はホントにすごくて少しまえの池袋リブロや青山ブックセンターよりもっとすごかったパワーがあったというようなことを話していたのだけど、どちらもあまりぴんとこなかった。ところで、『新宿泥棒日記』の横尾忠則はオードリー若林の顔はよく似ている。


『本の読み方』には本を読んでいる人の写真が載っている。
人が本を読んでいる風景というのは良い。憧れる。
本を読む趣味を共有する友達がいないからかもしれない。
思わず話しかけたくなっちゃう。もちろん、そんなことしないけど。
記憶を探ってみても、本を読んでいる人の姿はなかなか思い当たらない。以前ブログに2回くらい身の廻りにいた読者家について書いたけれども、本当に少ない。


ネットで知り合った人とはじめて実際に会ったときのこと。本を読みながら待っているね、と言われた。目印としての本ということらしい。黒澤明の映画にもなった『デルスウ・ウザーラ』で、なぜかといえば、わたしが訳者である長谷川四郎が好きだったからだ。待ち合わせ場所に行ってみると、たしかに『デルスウ・ウザーラ』を読んでいる人がいた。読んでいるというか、じっさいはちっとも読んでいるようすではなかった。タイトルが見えやすいよう配慮してか本はめいっぱいに開かれ、地面と垂直になるようにたてて持たれている。顔のまえでちょうど顔だけ隠れるような感じの持ち方。読んでいる、というより表紙をこちらに向けて掲げているというほうがしっくりくる。
もちろんその人は『デルスウ・ウザーラ』を読んでなんかいなかった。観光バスのガイドさんが駅前で持っている旗のように『デルスウ・ウザーラ』を掲げていたのだ。こういう本の使い方もあるのか、とは思わなかった。
たぶん今だに読んじゃいないだろうし、わたしも読んだことがない。
わたしには読書のある風景はあまりなくて、せいぜいこのような本のある風景といった感じなのだけど、だったらいっそのこと妄想で理想的な読書のある風景を思い浮かべてみるのもいいかもしれない。
『現代詩文庫4 北川透詩集』(思潮社)を少し読む。中川成美「何がセクシャリティに起こったか?」(『語りかける記憶 文学とジェンダースタディーズ』小沢書店)も読む。

 


2018/12/02

昨日と一昨日は日記を書かなかった。
昨日は読書会。次回は再来週。読書会自体は軌道に乗ってきた感じがするので、良かった。
本日は休み。
ボクシングの試合をテレビで観る。本を読む。
リディア・デイヴィスサミュエル・ジョンソンは怒っている』、小谷野敦「潤一郎の片思い」を読む。


サミュエル・ジョンソンは怒っている』は短い文章がたくさん収録されている不思議なあじわいの小説。断片形式という感じ。
いろんな意味を勘ぐりたくなるほんの一行のものもあれば、掌編のようなものもある。日常でのささやかな心のうつろいみたいなものが描かれていたりもする。「不貞」という一編は女が夫以外の男を空想することについて書かれた2ページほどのごく短い文章なのだけど、時間のうつろいがあってそのなかで変化していく女の男との関わりかたがとてもよい。「〈古女房〉と〈仏頂面〉」という一編。これもとても好き。古女房と仏頂面。二人の噛み合っているのかいないのかよくわからない生活が、日常のささやかなできごとと二人がそれに対して抱く感想から描かれるのだけど、愛らしい。

〈古女房〉には〈古女房〉の気に入りの肘掛け椅子があり、〈仏頂面〉には〈仏頂面〉の気に入りの肘掛け椅子がある。〈仏頂面〉が家にいないと〈古女房〉はたまに彼の椅子に座り、彼が読んでいるものを手に取って読んでみる。

全体的にひとごとっぽいというか視点人物との距離感がとても好み。登場人物の内面も描かれるのだけどそれはとてもさっぱりとしていて、ユーモアを感じる。
「潤一郎の片思い」もさっぱりとした感じで書かれている。谷崎潤一郎夏目漱石にたいして抱いていた感情を、後年谷崎が大江健三郎から向けられた文章を読み、自分もこうなふうだったんだろうか、と理解する話でとても短いのだけど、あんまりにもさっぱり書かれているので逆にあんまりにもたくさんのものを行間から感じてしまい、とても好き。

 


2018/12/03

曇っていた。少し雨が降っていたかもしれない。一日の天気といってもずいぶんいい加減なものだな、と思う。雨が降った時間もあれば曇っていた時間もあるし、晴れている時間もあったりする日もあるだろう。
〈平成30年12月3日16時46分 熊谷地方気象台発表〉の天気概況によると〈埼玉県は、曇りで雨の降っている所があります。〉となるらしい。
曇っていたところにいた人は曇っていたと思うし、雨が降っていたところにいる人は雨が降っていたと思うのだ。
その境目はあいまいで、◯市の人は曇りで△市の人は雨、というふうにはならない。だいいちその日の天気がどんなふうだったか、覚えている人はどれくらいいるのだろうか。
わたしがその日の天気を日記に記す。強く印象に残らない一日の天気を記したとして、限りないその他の強く印象に残らない一日との違いなどわからないはずだ。〈晴れ〉と記したその一日の日記を読み返すとき、読み返すたびに、読み返したときのわたしが抱く〈晴れ〉のイメージでもってその日の〈晴れ〉を思い浮かべる。

天気のことを書きたいけれど、書き方がさっぱりわからない。

桃色の雨が降ったりすれば、〈桃色の雨が降った〉と書くだろうし、きっととても有意義な日記になると思うのに。