悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

犬のたのしみ

幼いころ、私は外野手だったことがある。
広々とした外野をたった三人で守ることの不安を知っているということだ。
後ろに逸らしてはいけないという緊張を抱きながら、右中間を抜けようとするボールを追いかける。
追いかける、という表現は内野手より、外野手にこそふさわしい。目でみて、推測し、微調整しつつ目線を切り、全力で走り、追いかける。
不安と共に、そのことには喜びもある。
広いグラウンドで、ボールを追いかけて走る。まるで犬のようだが、犬もこのように喜びを感じていたら、嬉しいと思った。あるいは、ボールを追いかける私は、野原を駆ける犬のように美しくあるだろうかと思った。
たしかに、グラウンドを駆ける外野手たちは美しい。
バッターの打ち上げたボールが、地面につくまえに捕球する。息をのんで見守る瞬間。錯覚の永遠。言葉では捉えることのできない永遠ではなく、外野手のお尻を描いた「ヤクルト・スワローズ詩集」はただしい。
数字と内面だけが支配しているかのようなプロ野球の世界もまた、それはただただテレビ中継のせいなのであり、球場で見る、フィールドに点在する野手たちの姿は、内面などないかのように、遠く小さい。その美しさとユーモアを、ほんのごくわずかであれ、幼いころの私もたたえていたかもしれないということは生きることの慰めのひとつになるだろうか。