悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

別々の場所から来て、別々の場所にいて、別々の場所へ行く

電話

さみしい人たちよ

電話してください。たぶん

そこからふたりの話ははじまって

文学以外の球をつくることでしょう

「さみしい人たちへの球破壊」岡田隆彦

大学生のころ、スカイプで人と話した。見ず知らずの人ともよく話した。暇だったし休みの日にわざわざ遊びに行くような相手もいなかったので、ある時期は本当にずっと誰かしらと話していた。次第に仲の良い人もできて、数人でオフ会もした。とはいえ、ぼくたちはその頃、猛烈に暇で寂しくして仕方のない時期が重なっただけで、他にお互いを必要とする理由もなかったせいか一人二人と忙しくなるにつれ、関係も薄れていった。
危機的なまでに退屈で、期待に満ちた午後に取り残されてしまったぼくらはほんの短い挨拶を交わした。

 


暇な時間


すごく暇な時間というのがある。疎外によって生まれた時間とでも言えばいいだろうか。自分が当然こうであるに違いないと思い描いていた時間が訪れなかったことによって生まれた時間。
ぽっかりと開いてしまった退屈な時間。淋しい時間と言ってもいいかもしれない。
そんな時間が訪れることがある。
ぼくにとって大学生活はそのような時間だった。
あるいは、今でもそうかもしれない。自分に与えられてしかるべきだと慢心した態度をいつまでも抱いたまま待っている。
同じよう時間にいた人がたまたまばったりと会う。すれ違う。
別の場所にいて、向かっている方向も別々だ。

 


敷居の住人


敷居の住人』という漫画がある。中学生から高校生にかけての青春の話。
主人公の男の子は、ゲームセンターで女の子と知り合う。
よくある話かもしれない。けれど、このシチュエーションにすごく憧れた。
これは男女じゃなくてもいい。ゲームセンターという場所に憧れがあった。ゲームセンターには独特の倦怠感とでも呼ぶべき空気感がある。と思った。それも平日の昼間が良い。
今でも、ゲームセンターを見かけると中に入る。ちなみにゲームはまったくやらない。たまに変わった人をみかける。明らかにゲームセンターにただゲームをしにきているのとは違う人だ。退屈の影をおれは感じる。
けれどおれは冷やかしだ。おれの行動のほとんどすべては冷やかしなのかもしれない。
おれの孤独を誰かに投影する。誰かが孤独をおれに投影する。しかし。

 


思い出すこと


記憶はいい加減だし、思い出す行為自体が思い出を改ざんするかもしれない。わたしが陽明門の前に立ち、あの人に写真を撮ってもらったとき、カメラを構えるあの人の姿をはっきり覚えている。覚えているのに、そのことを思い出すとき、あの人と陽明門の前に行ったあの日の一連の出来事(電車に乗ったこととか、日差しが地面に反射していたこととか、外国人の観光客に道を聞かれたこととか、木の皮に足を滑らせてあの人が転んだこととか)の中の一断片として蘇ってくるのだ。
あの人が初めて自分のカメラを買って、わたしが初めてカメラに映ったことをわたしはあの時から今に至るまで特権的な出来事だと思っているし、それは両者の思惑や経験、共有したものしなかったもの、すべて通り抜けてレンズ越しに視線が合っただろう瞬間が特権的だったということなのであり文脈を飛び越えたのだと。