悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2019/12/03

お弁当に箸が入っていないといったような不運が続く一日を過ごす。
ネットで星座占いをみていたせいかもしれない。
占いの内容など、ほとんどおぼえていないし、そもそも流し読みをしたので読んですらいないかもしれない。
それでも占いを読んでために一日を占い的に解釈する。あるいは占い的な気分が先にあったからこそネットでたまたま目にした占いの記事をタップしたのかもしれない。
客観的な事実として、他の日と比較したときに不運な出来事が多かった可能性もあるけど、もう占いを見てしまったので関係ないと思うことも占いに絡めとられていると言えるのではないか。

 

この話を読んでどこかで聞いたことのある話だと思った人は、わたしの口から直接その話を聞いたことがあったのかもしれないし、別の小説に別の形で現れた人とそっくりであることに気がついたのかもしれない。何度も話していれば手垢がついてしまうが、それはそれでちょうど骨董品が収集家の手の垢で磨かれていくのと同じでいいのではないかと思う。
多和田葉子『雲をつかむ話』

この文章は〈それにしても体験話というものが何度も繰り返し話しているうちに嘘になって熟していくのはなぜだろう。〉と続く。芸人のエピソードトークが洗練されていくとともに浮世離れした感じもしてしまうことを思い出す。話しなれた話は、上手に話せてしまうことに問題があるのかもしれない。しかし、ここでは〈別の小説に別の形で現れた人とそっくりであることに〉というところに興味をひかれた。
いろんな人が同じ話をしていくうちに誰の話かわからなくなってしまう、ということを想像する。古典落語はそういうものかもしれない。同じ話をいろんな人がすることでうまれる陰影。この題目といえばこの人、というのはあるかもしれないけど、ただその人の話だけがあるわけではない。いまだに私の名前にばかりこだわってしまうわたしたちには関係ない話かもしれないけど。
芸人ばかり思い浮かべるのはアンタッチャブルが復活したせいだと思う。2004年のM-1を見返していたら柴田の舌の巻き方が思っていた以上で驚く。