悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2021/02/14

このところ、暖かい日も増えてきてうれしい。
線路沿いでは梅が咲いていた。

Sはぜんぜん本を読まないけど読みたい人で、たびたび本を読めないと嘆いている。いったいなにをもって読めないなどと言っているのかと聞くと、文字を追いながらぜんぜん違うことを考えてしまい、内容がわからないまま何ページも進んでしまうと言うので驚いた。
読書はたいていそういうものだと思っていた。
Sは私がこそこそと本など読んでいるのを見て、さぞ立派なことをしているに違いないと思い込んでいるふしがあるので、私もぜんぜん違うことを考えながらただただページをめくっているよと言ってしまうと幻滅されてしまうのではないかと思い、黙っていようかとも思ったが、むしろ立派に思われる方がプレッシャーを感じてしまうので、そう伝えると、ふうん、とか、はあ、とかいう返事で、Sはすでに別のことに気をとられているようだった。

一昨日、宇佐見りんの『推し、燃ゆ』を読んだ。
〈氷水を用意してあぐらをかき、乳白色に濁ったボタンを手垢のついたリモコンのなかに押し込むと、外が明るいせいで余計見づらくなっている薄型のテレビに映像が映る〉という部分で、リモコンについてるボタンはリモコンの一部なのではないだろうかと、やはり妙な気持ちにとらわれてしまい、それからは、ぼんやりとした違和感に引きづられて何ページもめくってしまった。
ただテレビをつけるだけの動作なのになんだかまどろっこしい書き方を感じもする。
たしかにボタンは「おす」もので、おすことは全体とひとつになるものかもしれないし、あるいはこのまどろっこしい距離こそが、推すもの推されるものの距離なのかもしれないなどとささいな文章をきっかけにして、もう一歩粘り強く文章を読み直したりしたら、かっこいい良いのに、などと思う。
いや、すごく面白かったのだけど。

だいぶ前のこと。詩人の吉増剛造小津安二郎の何かの映画について、ある一場面、路地みたいなところをスクリーンに映し出し、この映画はこの場面を中心にしているというような話をしていて、すごくかっこいいと思った記憶がある。
どういった経緯で私が吉増剛造のそんな講義を受けたのかはまったく記憶にないので夢かもしれない。テレビとは思えないけど、youtubeかもしれない。とはいえ、これは、夢であったほうが面白いと思う。
とにかく、なにかささいなきっかけを作品の最初に置いて、大きいものへとたどっていくのはイケてる。ほんの小さな入口からはじまり、細い細い道を長く長くたどり、やがてたどりつく広い場所。

昨年、ご多分にもれず、ミーハーな私は藤井二冠の試合をよく観た。
将棋は駒の動かし方くらいしか知らないけど、解説の人たちがたのしいおしゃべりをしていて、何の気なしに観始めたのに丸一日経ったしまったことがよくあった。
藤井二冠が渡辺名人と試合を見ていたときのこと、解説の人が、渡辺名人は細い攻めをつないでいくのが上手い、とかそんなようなを言っていた。細いというのは、少ない駒で攻めていくようなことなのだろう。詳しい意味はよくわからないけど、この「細い攻めをつないでいく」という言い方を良いと思ったことを思い出した。
私も細い何か繋いでいきたい。ではその結果としてどこへたどりつきたいのだろうかと考えるけど、いつも考えている間にいつの間にか行き詰ってしまう。