悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記3/24

3/24

体調が悪いと弱気になる。
弱気なときのほうがまわりにやさしくなれるというか、怒ったりいらだったりすることにも体力がいるのだなと思う。自分のことで手一杯でまわりにたいする反応が鈍くなっているということか。でもそれではわたしがいだく反応の多くがいやりいらだちばかりのようにもきこえる。
弱気なときは繋げる必要のない関係を繋げようとしたりしてしまい、良くない。


笙野頼子『レストレス・ドリーム』を読んだ。
なにかわけのわからないものについて書かれているけど、概念や抽象的なものではない空想やそれこそ夢についての文書をぼんやりした頭で読むことは嫌いではない。
悪夢のなかで戦い続けるという変な話。主人公を攻撃してくる相手らは言葉を用いてくる。主人公はその言葉をずらしたりすることで応戦する。そのとき用いられる言葉は男や女に関わることだったりする。
ちょうど読んでいた千田有紀『女性学/男性学』のなかに出てきた〈わたしたちは言語の世界に生まれ落ちるという意味では、社会に決定されているのですが、言葉を引用して使う際に、意味をずらしたり、撹乱したりすることができます。まったく既存の社会(=言語)から自由にではありませんが、言葉を使う行為者となることによって、言葉の意味を少しづつ変えたり、亀裂を入れたりすることができます。〉という一節を思い起こしたりした。

上記の部分や〈私〉と〈跳蛇〉の関係(〈私〉はワープロの内部で文書を書いたりしており、書かれたものの内側にいる〈私〉ということなのかもしれない)などは、ちょっと判別のつかない部分もあって、一番印象に残ったのは主人公の見る夢は共有される夢だということ。
〈そしてまたその夢は共同夢である。私ひとりだけで見ているわけではない。パソコン通信を利用して多人数で行うゲームのように、そこへ何人もの人間が出入りしている。彼らもそれぞれにその夢に影響を与える。夢への働き掛けは同時に複数の人間によって行われて、それぞれが他人のした事に足をすくわれたり助けられたりする。相互作用で悪夢に影響も与える。だが、だからといって夢に客観性があるかというとそうでもない。〉「レストレス・ドリーム」

彼ら〈夢見人〉は作中には姿をみせない。話は主人公である〈私〉と夢のなかでの名前である〈跳蛇〉だけの孤独な戦いのようである。というか読んでいる最中、共同夢ということや他の夢見人のことをわたしは忘れていて(まったく言及されないわけではない)連作短編の最終作である四作目の「レストレス・エンド」の一節を読んで思い出したのだ。

〈少しずつ戦って夢を変えて来た。武器を買い、ゾンビとの路上戦を重ね、大寺院を探索し、行動範囲を拡げ‥‥それに呼応してスプラッタシティも少しづつだが、変わったのだ。無論、他の夢人達もこの悪意にダメージを与え続けたはずだ。が、結局彼とは少しも関わりあいになれなかった。〉

同じ境遇に置かれた者たちが、手を差し伸べあって助け合うことができるとは限らないけど、その存在を信じることによって感じ合うようなことはあるかもしれない。小説を読んだり書いたりすることはそのようなものに近いかもしれないとも思う。
この小説の中で他の夢見人たちは現れないわけだけど、小説というものがそもそもそのようなものであるならば、登場する必要はないわけだとも言える。