悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

散歩

道を歩いていると、木があった。

梅だろうか(梅の枝はぐんぐん伸びるので、ばりばり剪定しなくてはならない)。

私の身長よりも低くて、枯れているのか丸裸だった。幹から何本か枝が伸びていてそのなかの一本の先端に手袋がささっていた。ささっていたというより、枝が手袋をはめているようだった。

手袋は片方だけだった。

伊集院光がラジオで片方だけ落ちている手袋の話というのをいつかしていたことがあったと思う。だから気づいたのかもしれない。ささっていた手袋もかつては地面に落ちていたのだろう。それを誰かが拾って木にはめさせたのだ。思えば、この冬のあいだ何度かそのようなものを見た。

ガードレールのポールや、道端の棒状のものに手袋がささっている。さしていく人の心理はわかるようだ。たいていはボロボロで、車や自転車が何度も通り、雨が降ったり人が踏んだりして、仮に持ち主が見つけても知らんぷりしてしまうようなものばかりなのだけど、なかには意図して置かれたかのように綺麗な状態で落ちているものがある。片方だけだし猫ばばしようと思う人もいないだろう。きっと持ち主は落としたばかりなのだ。探しにくるかもしれない。でも探しに来る前に誰かが踏んづけてしまうかもしれないし、カラスなんかが持ち去ってしまうことも考えられる。ならば、目立つところに置いておいてあげようと思い手袋を手にとる。さてどこに置こう。そのとき、棒状のものがあったとしたら誰しもそこに手袋をはめてあげるに違いない。手は手袋をはめるためにあるわけではないが、手袋は手にはまるためにある。はまるべき手はないけれど、代わりにはなるかもしれない。

ささやかな親切心と、棒状のものをみつけたときの、「これだ!」感とで拾った人はとても暖かい気持ちで立ち去ったことだろう。探しにきた人も誰かが目立つように木にさしておいてくれたのだ思って暖かい気持ちになるかもしれない。手袋はまだ木にささっている。

読書/日記

その日

仕事。死ぬほど退屈。ちょっと死んだ気がする。右手の薬指だけ、というのではなく、からだが5パーセント透けるみたいな。

「群像特別編集 大江健三郎」によると、「日常生活の冒険」は1963年2月から1964年2月まで文学界に連載だった。「個人的な体験」は64年の8月に書き下ろしで出版されているので、同じ頃に書いていたのだろうか。ちなみに「群像特別編集 大江健三郎」は写真がいっぱい載っていて面白い。作家の写真といえば昨年でた小谷野敦さんの「文豪の女遍歴」も作家の「よく出回ってる写真」とは違うものが載っていて面白い。

その日

仕事。
ふらふらと新宿へ行く。なにをするわけでもない。いや、嘘だ。語るすべを持たない。
「日常生活の冒険」を読み終える。

その日

休み。
大学の友人から連絡がくる。誰かが結婚したらしい。結婚式に来ないかと嘘か本当かわからない誘い。お互い冗談を言っているのか本当のことを言っているのかわからない。お互いいろいろと変わったということか。


中江俊夫「語彙集」を少し読む。単語や、簡単な言葉が頻繁な行替えでテンポよく進んでいく。語彙集第一章。韻を踏んだり、意味のつながりで行替えを行なったり。行と行(そもそも行とは、という疑問も浮かばないでもない。)のつながりがわからないものもあって、そこにごつごつとしたリズムのようなものを感じたけど、第二章では音感でのつながりが第一章と比べると鮮明で親父ギャグのようですらあり、スムーズ。単純な楽しさを感じる。

その日

仕事。
仮に今の仕事をやめて、もっと優秀な人になりきわめて有意義でやりがいに満ちた仕事をはじめたとしても、今の仕事のような本当は誰にも必要のない惰性で存在している仕事は山ほどありなくなりはしないし、なくなったら困る人間も山ほどいるのだ!

中江俊夫「語彙集」を少し読む。形式、というか自ら定めた押韻などのルールが、語り的なだらしなさから文章を遠ざけている。単調なような繰り返される「似た」ことばのなかで、かすかにずれることが、いや、ずれなくともただ羅列されることによって、多くのことがとても価値の低いもの、あるいは偽物のように感じて、切ない。

このパートでは天気の話がまったくないことに気づいた。こういうときはくるりの東京を聴こう。一緒に聴いてくれたら嬉しい。春が来ていることに喜びをおぼえるためには春が来ていることに気づかなければならない。それはふと目をふせたときにあるそれだ。

ことばはホウキ星/井坂洋子

その日

井坂洋子の「ことばはホウキ星」を読んだ。詩の入門書らしい。ささいな出来事から詩作品につなげていって門外漢でも楽しく読めた。吉岡実の「静物」についてなど、簡単に書いているけど、とても納得。

印象的な部分をいくつか引いてみたい。一つ目は中島みゆきについての章。中島みゆきとか桑田佳祐とか、詩人以外もとりあげているところも楽しいし身近なところ。中島みゆきの「蕎麦屋」をとりあげて、

(……)めげてる「あたし」を一生懸命笑わせようとしたり慰めようとしたて道化役をかってでている「おまえ」は、「あたし」に叶わぬ恋をしている人になる。\そして、この人が、いちばん可哀想、ということになる。

中島みゆきの詞には、自分が道化になる、その悲しみ笑いの詞も多いのですけれど、その痛みを知っているだけに、自分のために道化役を買ってくれる人に残酷にできない。
 ふつうは、こうじゃありません。フラれてあり、傷つけられたり、バカにされたりという痛みばかり後生大事に抱えこんで、自分がフッたり傷つけたり、バカにしたりということには鈍感です。
 フラれた心は歌になりますが、フッた心は歌になり得ない。フッた心には感情の渦巻きがないから。
 でも、「ゴメンネ」と言いながら、フッた人の心中を察しながら離れていった場合は歌になるんですね。

わたしは友達がいないとか傷ついたとかそんなことばかりブーブー言ってばかりの人間からすると身につまされてしまう(現状のことは自分自身のせいだとかいうのはまた別の話として)。誰かの悲しみみたいのは気づきたい。気づいたとしても気づくことしかできないのは悲しいことだけども。

もう一つ。

 ことばはホウキ星、いつだってことば使いの魔女でいるために、詩想をかき集める一本のホウキがあるといいですね。あなたにも、また。そして、書いた詩の数々が、自分への励ましのためにそこにうまれたのだ、と考えることができるでしょうか。のちに読み返してみて励まされるというのではなく、書きつつ、未来からの励ましを受けるということ。

「書きつつ、未来からの励まし」というのはいいな、と思う。わたしたちのような14歳の自分を救わねばならないという命題を背負ってしまったやつらは、過去への励ましでもあってほしいと思う。未来にしろ過去にしろ、いま書くことが時間の広がりをもっていく、しかもそれが励ましとなることは希望だろう。

夢/棒を飛ぶやつ

竹がある。2m弱くらいの長さに切ってあって、二本ある。端っこを右手で握る。左手でもう一本の端っこも握る。反対側の端っこを別の人が同じように握る。二人は担架を持っているような格好になる。腰をかがめるなり、しゃがむなりして、二本の竹が地面に触れるくらいの高さになる。竹の棒を握った右手と左手をくっつけたり離したりする。二人は動きをそろえる。平行の二本の竹の棒が平行のままくっついたり離れたりする。どうせだからリズムに合わせる。そこに三人目がやってきて、二本の竹の棒が離れたときに、二本の間にちょんと片足で入る。すぐさま二本の竹の棒はくっつので、足を入れた間はなくなってしまう。間がなくなる前にジャンプして、今度はくっついた二本の竹の棒をまたぐように両足で着地する。三人目はリズムに合わせてくっついたり離れたりする竹に足をとられないようぴょんぴょんする。足が竹にひっかからなければいい。ひっかかったらダメ。こんな遊びをしたことがあった。名前は覚えていない。


お笑いコンビのジャルジャルに野球部のコントがある。片方が野球部員で片方が新入部員。野球部員の方が初心者である新入部員に野球を教えようとするのだけど、ぜんぜん教えられないという内容。なぜ教えられないかというと、新入部員には野球のイメージがまったくないのだ。野球といえば球場の雰囲気とかバッターとかピッチャーとか思い出すけど、新入部員はそういった野球についてのイメージがまったくないから、野球部員から「かまえてみて」と言われてもバッターの構えのイメージがわからないからぜんぜんできない。そもそもバッドをどういう風に持つのかということもわからない。なんでジャルジャルのコントの話を書いたのかもわからない。でも、ジャルジャルって好きよ。一つのアイデアで強引に一つのコントにしちゃうって感じ。コントの最初にバッとアイデアが出て、いくらか展開していきそうに思うけどぜんぜん展開しない。作品をたくさんつくろうとするとこうなるのかしらと邪推しちゃうけど、なんかミニマルでカッコいい。そう、なんかミニマルな感じ。二人の恰好も、似たような恰好してるけど袖の長さが違ったりするところも反復とそのズレを感じる。あ、てかそもそも名前がジャルジャルって時点で繰り返すことへの執着があらぁねきっと。

読書/日記

日常生活の冒険 (新潮文庫)

その日

仕事。
仕事が終わってから、都内に遊びに出掛けた。とはいってもなにかをしたわけではなく、ただラーメンを食べて、喫茶店で本を読んだ。週末の街はたくさん人がいた。なかには自分みたいによくわからない感情を抱えた人もいたのだろうけど、見つけることはできなかった。いつかお前の肩をつかんでやるから、そのときは一緒に駅前で火を焚いて裸躍りをしてやろう。

喫茶店では大江健三郎の「日常生活の冒険」を読んだ。アルコールや太ること、眼の負傷、さらには脅迫者などその後も繰り返し書かれるモチーフが出てくる。その後も、といま書いたけどこの本が大江健三郎バイオグラフィーのなかで実はどこに位置付けられるのかわからない。「個人的な体験」より前だと想像したけどはたしてどうか。後できちんと調べておこう、と書きながら思った。(何も調べてから書けばいいのに、いままさに書いている風を装うのはインチキだしこのかっこ書きも同じことだよな。。。※無限に繰り返す)。

犀吉にはやはりギー兄さんや伊丹十三の影を見てしまう。犀吉のガールフレンドが犀吉との関係の悲劇的な結末が決定的になったように思える場面で主人公が彼女に求婚し、僕はガールフレンドを犀吉は妹のようだと形容していたことを思う。しかし、大江健三郎本人をモデルにしたような主人公にはきちんと婚約者がいて、その辺りの変な感じは大江健三郎の好きなところだ。

その日

休み。暖かい日。
いとこの子どもと遊ぶ。
図書館に予約しておいた中江俊夫の「語彙集」という本が届いてたので受け取りにいく。あまりの大きさにびっくりした。この本は第二回の高見順賞を受賞しているのだけど次々回に受賞しているのが谷川俊太郎の「定義」で似たようなタイトルだなと思った。中身は知らない。そういえば大江健三郎にも「定義集」という本がある。いや、逆で、大江健三郎の「定義集」を念頭においていたから「語彙集」と「定義」を似ていると思ったのかもしれない。
「ロシアの革命」を読み終える。
井坂洋子「ことばはホウキ星」少し読む。

鎌倉

2月にKと鎌倉へ行った。新宿から湘南新宿線に乗って鎌倉駅へ。乗り換えはせずに済んだ。休日の鎌倉は人がいっぱいいた。江ノ電に乗って一駅ごとに降りてはお店に入ってビールを飲みつつ、江の島からロマンスカーで新宿まで帰ってくるのがとても良いと思うけど、江ノ電も人がいっぱい。とてもじゃないが乗る気にはなれない。鎌倉に来るのは休日ばかりなのでいつもこうなる。仕方なく歩き回る。鎌倉駅を中心として、山の方へ行くか、海の方へ行くか。今回は海の方。前回も海の方、だったので次回はぜひとも山の方にしよう。Kがいろいろと雑誌やらなにやらで下調べをしている場合は、とりあえず行ってみる。ごはんを食べる所なんかは、せっかく調べてきても休日は人がいっぱい。並ぶかどうか迷う。一度並んでみて、やっぱり別のところにしようと列を離れて、やっぱり並ぼうと列に戻ろうとすると、最初に並んだときよりも人が増えていて、結局あきらめる。小町通は避けて、反対側をぶらぶらしてどうにか昼食にありつく。意外とおしかったりするとうれしい。

お昼を食べてもまだ一時過ぎくらいで、どうしようかということで山の方か海の方かという話になる。で、海の方へ。あみだくじみたいにいい加減に路地を曲がっても、海に向かっているつもりになって歩いていくとなんとなく海に着く。海までの道は、人がたくさん歩いているし、車もたくさん通るから、ふらふらおしゃべりなどして歩いていると危ない。危ないから避けるように、大きい道をそれて、小さい道へ入っていく。線路を電車が通る。坊やが不思議そうな顔して窓からこちらを見ていた。車内も混んでいて、坊やはお父さんに抱きかかえられているのか、宙に浮いているみたいだった。細い道へ行くと、住宅が増えて観光地っぽい感じが薄くなる。ちょっと静かで生活感がある。ここを歩いている観光客はわれわれだけじゃないのかしらなどと思っていると、ひょこっと観光客風の人が現れる。鎌倉駅周辺なんてたいして広い範囲ではないのだから、観光客がいない場所などないのだ。さっと人力車が通りかかる。ということはこのあたりにも名所のようなものがあるのかもしれないとKが言った。人力車をひいている男の人は真っ黒に日焼けしてたくましかった。座席には誰も乗っていなかった。ならば名所はないだろう、どこかに向かっているのかあるいはどこかから帰る途中なのだろう。そのときはKに対して何も言わなかったが後々そう思った。

由比ヶ浜は風がとても強かった。波が高い。サーフィンをしている人がいる。浜辺にはあまり人がいなかった。なんといっても風が強い。波打ち際のカップルが自撮棒で写真を撮ろうとしているのだが、打ち寄せてくる波と風のせいで悪戦苦闘している。可笑しいので近づいていくと、二人が持っていたのは自撮棒ではなくて串に刺さった鳥のからあげだった。宙に向かって鳥のからあげを振っている。ますます可笑しいので声をかけようと思ったがKがなにか言うので、振り向くとなにかが顔の横を通りすぎていった。びっくりした。カップルの悲鳴がきこえた。見ると、とんびがからあげを盗ってしまったのだ。カップルは笑っている。はじめからとんびを誘っていたから変な動きをしていたのだ。私が悲鳴として聞いたのは歓声だった。

そういえば、次は「青い花」の聖地巡礼のようなこともしたいなと思った。

青い花(1)

青い花(1)

読書/日記

その日

仕事。
「空中の茱萸」(荒川洋治)を読む。
読んだそのばからもう忘れた。かといって読み返したりしない。いったいなにをしているのだろう。

詩人たちはたいへんむずかしい詩を書いていても内心は、「いつか理解されるもの」としてみる。だからだめなのです。現代詩は、「壁」の、浜田さんのような人を相手に、話をしていく。ヴァレリーの詩論を語る。朔太郎を語る。吉岡実を語る。それでなくてはならないのです。でも彼はそんな話を聞いてくれない。聞こうともしないでしょう。でも「話を聞いてもくれない」とは、なんとすばらしい、詩にとっての環境であるでしょう。夢のような、きれいな夜に入りましょう。
(完成交響曲

ふむふむと読むわけだけど、荒川洋治が詩の作者として、詩の世界に向けて書かれているような文章を良くも悪くも門外漢が、あまり得心するのもどうかと、思いもする。
「完成交響曲」は岡本さんと浜田さんのテレビでの対談を荒川さんが観ていろいろ思ったりするような詩なのだけど、対談そのものに対する荒川さんの考えと、荒川さんの詩に対する考えとが、どちらかがどちらかをダシにするようなものではなくて、二つのものがぶつかって別のものになっていくような広がりというか強さのようなものが……


その日

仕事。
仕事の休憩時間に スマホkindleで「世界の歴史22<ロシアの革命>」をちびちび、ほんとうにちびちびと読んでいる。この本は、1828年から始まっているので、1917年までは一世紀近くのあいだがある。だからぼくがどんなにちびちび読もうとも実際の出来事よりかははるかに速い。時代の大きな転換点のことだから、いろんな人がいろんなことをしているので、登場人物がとても多い。ちびちび読んでいてもちっとも覚えられない。

ロシアの革命への歴史は、インテリが大衆とどう接するかという試行錯誤の歴史で、たしか松尾匡さんの「新しい左翼入門」のなかで日本の戦前の左翼を、大衆に対する二種類の接し方に大別していたこと思い出したのだけど、どうだったか。メモをとっていたような気がするから見直そう。

その日

休み。
髪を切りに行った。美容室は苦手だ。人と喋ったあとは疲労を感じる。人、というよりぼくを客としてとても懇切丁寧に接する人と会うと疲れる。この人は客である自分に対してとても親切にしてくれるけど、本当はぼくみたいなショボいやつが客に来ても困るだろうし、そのことに気づいてるのにしれっと客のふりをしているわけにもいかないから、なるべく良い客のフリをしなければならない、などと思う。たぶん見当はずれな想像を巡らせているのだろうけど、その場に立つと背中が汗だらけになって余裕なんてない。美容室とか洋服屋とか、あと後輩とかも苦手だ。

ロシア革命はいよいよ二月革命で、ブルジョワ勢力と、プロレタリア勢力とで権力の掌握しあいが行われている。
松尾匡さんの本についてはメモなどなかった。こういうことがあるのでメモはとるべきだ。

空中の茱萸

空中の茱萸