悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記5/28~6/3

5/28

仕事。
あんまりにもやる気がでない。
文章を書くのも気が乗らない。
何日か前にTwitterで溶けているドラえもんの画像が話題になっているのを見たけど、溶けてしまうのは良い、溶けてしまいたい。
溶けてしまうというは、境界がなくなってしまうということで、境界はわたしと世界との境界だったりするわけだけど、つまりわたしは世界に対して明確に境界を持つわたしであるとわたし自身を認めているということなのだろうか。

自分で自分を何者かであると、名乗るような人にたいして懐疑的な気持ちを持っていて、何者かであるということは常に他人からそう呼ばれるものでしかないのではないかと思っていたのだけど、もしかしたらそれだって、他人から何者かであることを強いられてきた人たちのことを忘れてしまっているわけではないにしろわたし自身そのような立場ではないことに無自覚なのでだけなのかもしれない。

今日はあまり陽が出ていなかったから、終日、嫌な気分だったのかも。
「もうすっかり毎日暑いですね。いやになっちゃいますよ。でも今日は陽が出てないから、その分まだ過ごしやすいですね。」などと話したりもしたわけだけど。

5/30

昨晩はひさしぶりに立川で飲む。
帰りの電車で松浦理英子『セバスチャン』を読み始めたら、なかなか夢中になって読み終えてしまった。

ふと、工也が小児麻痺で跛である、などということはすべてでっち上げではないか、あの歩き方も演技ではないか、という疑惑が頭に浮かんだ。そして自分の心の動きが不快になりドアを閉めた。跛の者は自分の跛について、貧しい者は自分の貧しさについて語ることができるからいい。麻希子は工也の不具に嫉妬していたのである。

わたしはわたしが抱く多くの感情にやましさをおぼえる。
やまさしさは人に極端な言動を起こさせるのではないか、とちかごろよく思う。
もはや知らん顔はできないやまさしさには、どのように触れて解剖すれば良いのだろうか。


5/31

もう5月が終わってしまう。
仕事。

 

6/2

休み。
曇っていた?
ちょっと寒かったかもしれない。暑くはなかった。半袖に着替えたら寒いような気がしてシャツを着て、外に出たら暑いような気もしたけど、すぐに家に戻ったらちょうど良かった。家の中のほうが涼しかったのかもしれない。
しれないしれない、と書いているのは、ぼんやり過ごしすぎてしまってあんまり覚えていないせい。
ソファに寝転んで本を読むことが多いのだけど、ちかごろソファで昼寝をすることが多くソファに寝転ぶと自動的に眠たくなってしまう。
多和田葉子『球形時間』を読む。
ナミコという登場人物が出てくる。主人公らの同級生。近傍でちょこちょこ出てきては不穏な雰囲気を醸しているのだけど、とてもおそろしい。ナミコは潔癖症かつ誇大妄想気味で、不潔と思う人にたいして異様な攻撃性をみせる。
ナミコは鼻が良い。鼻が良いからくさいものに耐えられない。


6/3

仕事。
テニスを観ていてあまり本は読まなかった。
テニスは長い試合だと4時間も5時間もやるスポーツで、しかも試合中にコーチからアドバイスをもらったりすることができないらしい。とてもハードだ。
〈コートでは誰でもひとりひとりきり〉というのは本当なのだ。

本日は、パスカルキニャールの『辺境の館』というのを少し読んだ。仕事中は『球形時間』をもう一度読もうかと思っていたけど、なんとなく読み始めてしまった。
〈また、グルゼット氏は酒を好み、釣りを好んでいた。こうして齢を重ね、何人かの貴族に音楽を教えるかたわら、テージョ川で投網を楽しんだ。そして、陽を浴びながら酒を飲むのだった。〉
こういう書き方は好き。
なにが、どういう風に、というのはよくわからない。この一文の置かれ方にも好む理由があるかもしれない。

日記5/20~27

5/20

夜中にたくさん雨が降ると、目が覚めてしまうことが多い。目が覚めてしまったら睡眠不足のまま仕事へ行かなくてはならなくて、そうなるといつもの倍は疲れてしまうし家に帰ったら眠気でぼんやりしてしまうだろうから、本も読めずに一日の余暇を無駄にしてしまうのではないかと不安になって眠れなくなってきたので、今日はなにも書かずに寝てしまおうと思ったけれど、その気分だけ書いておく。
よく眠れますように、と願掛け。

 

5/22

仕事の一日。
先月末あたりから読書メーターを再開して、昔の感想などを見返していたらあまりに恥ずかしくなってたくさん削除してしまった。
そういう自意識って嫌よねーと思う。

 

5/23

休み。
良い天気。
ソファで昼寝。目が覚めたら肌寒くて上着を羽織り外に出てみるとちっとも涼しくなかった。
ちかごろ、休みの日に昼寝をするのがすっかり習慣になってしまっている。
それだけ外に出かけていないということでもある。
出かけていないので今月はいろいろ 
本を読んだりしている。
本当は人と遊んだりしたいのだけどあまり遊んだりしないので、本を読んでいるというところがあるかもしれない。

 

5/25

仕事。
ほんとうに暑い。
職場では昨日から冷房がつきはじめた。
夏バテ?
まだ夏ではないけど、ぐったりする。
フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』を読む。
すごく良い。ただ一回通読しただけではわけがわからない。

 

5/27

ブログを書く気にならない。
暑いせいかもしれない。
仕事中にいろいろと他人のブログを読んだりした。やっぱりブログを読むのは好きだと思う。

『ペドロ・パラモ』を読む。やっぱり良い。
〈おれ〉と名乗る語り手が父を探しにいく。会話や不意に差し込まれる別人物の語りが繰り返され、〈おれ〉から離れていく。
わたしはわたしがいなくなってしまいえばいいと思っているからなのか、〈おれはもやもやとしたものの中に溶け込んでいった〉というような方向に惹かれる。その一方で断片によって成り立っているこの小説は、時系列が複雑に入り組んでおり、そのことは構成する主体を意識させるものでもあるかもしれないなどとも思う。断片集という形式が孕んでいる矛盾が好きかもしれない。

日記5/14~19

5/14

風邪を引いたよう。
目覚めると喉が痛くて、声を出すのが億劫。
ただ、人気のないところでこっそり歌を歌ってみると、しわがれていてカッコいいんじゃないだろか、と思う。
そういえば、自分の声が嫌いなのだった。まあ他にも嫌いなところはたくさんあるのだけど。近頃は見ず知らずの人と話す機会がないのですっかり忘れていた。

多和田葉子『尼僧とキューピッドの弓』は二部にわかれている。第一部は尼僧院長が駆け落ちしてしまった修道院に訪れた語り手によって修道院での出来事が書かれる。第二部になると、おそらく語り手によって書かれた小説(つまり第一部の文章)を駆け落ちした尼僧院長が読み、自身の来歴を語るという形式になっている。駆け落ちした尼僧院長は、


5/16

風邪がひどくて駄目。
あるいは飲んだ薬がよくなかったのかもしれない。
昨日は一日手足がだるくて、それが熱のせいなのか薬のせいなのか判別つかず。
ニコルソン・ベイカー『室温』を読む。良かった。こういう小説を肯定感のあるものとして読んでいるということは、自分が思っているよりはるかに体調は良いのかもしれない。

 

5/17

体調は良くなってきたような気もするけど、やる気が出ない。
高橋源一郎柴田元幸の『小説の読み方、書き方、訳し方』でブコウスキーがそれほどスラングを使っていないという話になり、柴田元幸が〈スラングというのは仲間内の通り言葉で、特的の小さな閉じた共同体のなかでしか使わないものですよね。ブコウスキーはどこの共同体にも属さないからスラングは使わない。友だちいないと
スラングって要らないんですよね(笑)〉と言っていた。
わたしも友だちがいないからスラングを知らない。

 

5/19

早起きしてボクシングを観る。
井上選手は次戦がドネア選手に決まる。西岡選手がドネア選手と試合をしたのがもう7年も前だということに驚く。

早起きしたせいで昼間はうとうとしてしまう。
フリオ・コルタサル『八面体』を読んだりする。
短編集で面白いものも、あったけど難しいものもあった。わたしが小説を読むとき、語り手に安全なものを勝手に前提としてしまっているせいかもしれない。

日記5/11~13

5/11

連休が明けだったせいかとてもつらい一週間だった。
暑いし、なにもやる気がでない。
まあ時間が経てばどうせ良い気分にもなるだろうから、ぼんやりやり過ごせばいいだろうか。
あんまり良い具合に晴れていると、あてつけのようで嫌な気持ちにすらなったりもする。

田中英光オリンポスの果実」はアメリカへ向かう船上が物語前半の舞台となる。恋する語り手は、海も空も恋しいあの人と重なってしまい美しく見える。
辛いことのようにも、すばらしいことのようにも思える。風景だってわたしたちの気分によって姿が変わったりするのかもしれない。そのように考える立場はあるだろう。わたしはそんなふうに世界がただわたしの見えるものとしてしか存在しないような気分になることもあるし、そうではないような気分にもなる、わたしの見えないところにも存在するもののことを思って嬉しくなったりもする。

 

5/12

たまには日記とは別の文章を書いてみようと、仕事中にちょこちょこためた文章を読み返したりしてみたけれどあまり気持ちがのらない。

休み。
ハンモックで終日うとうとしていた。
うとうとしながら、本を読んだりする。
文章を目で追いながら眠いな寝ちゃおうかなと思いつつもページをめくったりしていてもやっぱり眠たくて寝てしまう。

寝てしまっているということに気づく。ふっと意識が落ちてしまったのは一瞬ですぐに目が覚める。はっ。寝てしまった、と思ったりする。寝てしまわずに本を読もうと文章を追う。追うけれどまぶたが重く、視界がぼやける。寝てしまっていると気づく。何度か繰り返すうちに寝ていることに気づくことはなくなる。眠いような気はするけれど、文章を追えている。追えているという安心感と眠りに落ちていく気持ち良さが両立しているかのような素晴らしい時間、つまり夢を見ている時間。
やがて目がさめると小一時間経ってしまっている。それは、まあ、仕方のないことだし、眠いのを我慢してまで読むような読書は、わたしにはないのだから、構わないのだけど、夢の中で読んでいた文章はたしかに間違いなく読んでいたはずで理解を出来ているというはっきりとした感覚もあるにもかかわらず、内容をすっかり忘れてしまっていることが気になる。ちょっとくらい覚えていてもいいような気もするのだけど。

 

5/13

人の目を気にしすぎるところがあるので気にしないようにはしたいと、思っているのはもう何年も前からのことなのに、うまくいかない。

多和田葉子『尼僧とキューピッドの矢』を読み始める。すごく好きな気がする。
修道院に住む尼僧たちの話。尼僧に好奇心を抱いた語り手がそこを訪れるところからはじまる。語り手は、尼僧たちにあだ名という呼び名を出会ってすぐに思いつき、心の中でそう呼ぼうと決める。可笑しい。第一印象か。ぱっと思いつく。こっそり呼び名を勝手にあたえる。その印象は間違っていたりする。ぱっとつけた名前が間違っていることによって、登場人物たちが生き生きとしているようですらある。おしゃべりも楽しい。語り手がある登場人物に話した話が、別の登場人物によって語られたりするので、語り手の知らないところでも尼僧たちはおしゃべりをしているのかもしれない。噂話や勝手に名前をつけることは下世話なことかもしれない。下世話なことの楽しさみたいなものもあるように思う。

多和田葉子の朗読を勧めてくれた人と仲違いしてしまったことを思い出し、わたしは人とまったくうまく付き合えないのだと、嫌な気分になったりもする。『雪の練習生』を勧めてくれた人とも仲違いをしてしまったのだった。

日記5/7~10

5/7

連休明け、想像した以上に辛い。ただ幸いなことにいい加減な職場のため、ぼんやりしたままやらなければならない仕事を先延ばしにしていたら、時間が経ってしまっていた。
仕事中に田中英光オリンポスの果実」をちょこっと読んだりもする。独特な語り口でおもしろい。読んだのは西村賢太の解説が載っている中公文庫版だったのだけど、これも良い。田中英光を熱心に読んでいたときのことは小説にもなっているらしい。

それにしても、今日は寒かった。今日から肌着の種類を変えたせいかも。曇ったり雨が降ったりしていたし、風も吹いていた。
そのことは誰にも話さなかった。そういうことはとても多い。誰にも話さなかったことばかりある。恥ずかしいからとか、疚しいから話さなかったというわけではなく、さして重要ではないと思ったから話さなかったのであって、そういったことはすぐに忘れてしまう。
日記を書くとき、さして重要ではない一日のうち、比較的重要そうなことを書いているのだと、たぶん、思うのだけど、重要でないわたしの生活のうちで重要なことを掬い上げようという志向があるのだとすれば、わたしがわたしの生活を重要でないというときのその「重要でない」という言葉は否定的なニュアンスを帯びるかもしれない。

なにを書いているのかよくわからなくなってきてしまったけど、ミシェル・レリスとは違ってその日の日記はその日に書く派であるわたしにとって、内容はさておき、これくらいの量を書けば十分満足するし、明日も早いので寝ます。

良い睡眠。良い睡眠。

 

5/8

晴れ。
ゴールデンウィーク前にクリーンニングに出していた服が破けていたことに気づく。袋から出してしまっていたし、クリーニングのタグも外してしまっていたのでどうだろうかと思いつつ、電話をしてみると店舗にもってこいと言われたので仕事が終わってから持っていくと、クリーニングに出した時点ですでに破けていたという。特に破けていたという証拠があったわけではないのだけど、逆に反論するに足るものもなかったので、仕方ないと帰宅。
お風呂に入っていたときにはもうすっかり忘れていた。忘れてしまっていたことを思い出し、そんなすぐに忘れてしまうようなことにとらわれていらいらしたことを後悔する。


5/9

〈だが、不思議なもので、ある考え方が完璧に正しく真っ当だと頭でわかっていても、必ずしもそれを心から信じて実行に移すわけではない。だから私はあいかわらず自分の気分が世界の中心だと思っていて、そのせいでたびたび真夜中の居間の窓辺に独り立つことになる。ちがうのは、今の私はこう考えられることだ。−−いまに私も、自分の気分なんか世界の中心ではなくなると思える日がくるのだ、と。これは大きな慰めだ。〉
リディア・デイヴィス「自分の気分」(岸本佐知子訳)

〈大きな慰め〉
晴れ。
いそがしい一日。

 

5/10

従兄弟の子どもが遊びにくる。久しぶり。
ちょっと会わないとすぐに大きくなる。
気取った素ぶりでわたしが話しかけてもぷいっとしていたけど、しばらくすると飛んだり跳ねたりご機嫌な様子。
従兄弟の子くらいしか子どもと接することがないのだけど、会うたびに、全能感といえばいいのか無敵な振る舞いに羨ましくなる。

長谷川四郎『中国服のブレヒト』を少し読む。ブレヒト墨子を読む本。

日記5/3~5/6

5/3

驚くほどだらだらしている。
エミリー・ブロンテ嵐が丘』(河島弘美訳 新潮文庫)を読む。
ヒースクリフとキャシーの関係において、子ども時代の豊かな時間はそれを支える大事なものなのだろう、〈それでも二人にとっては、朝から荒野に逃げ出して行って一日じゅう遊んでいるのが何よりの楽しみで、あとで罰をうけることくらい何でもありませんでした。〉というその時間は、語り手に嵐が丘とスラッシュロックでの物語を語ってきかせるネリーの目から逃れていたと思うと、ネリーも読者も二人の時間には触れ得ないようだし、だからこそその時間を思い浮かべると、感動がある。

嵐が丘』つながりで志村貴子青い花』をぱらぱら読む。良い。最終巻は最終巻だけ読んでも泣けてくる。志村貴子で一番凄いと思うのは『放浪息子』だと思うけど、一番好きなのは『青い花』だなと思う。

 

5/5

ここしばらく日記を書くモチベーションがない。GWでだらけすぎかもしれない。とはいえ、日記を書くモチベーションというのも変で、無理して書くようなものでもない気もする。

良い天気なので楽しまなくてはという強迫観念に苛まれ、街に出て、古本屋などへ行く。

茶店がどこも満席で困ったなと、うろうろしているとビルの二階に喫茶店のようなものを見つけたので、入ると蕎麦の写真が出ており間違えて蕎麦屋に入ってしまったのだろうかと思う。内装は喫茶店のようなので、喫茶店だけど蕎麦もだしているのかもしれない。コーヒーを注文すると蕎麦は頼まないのかと聞かれたので、コーヒーも出している蕎麦屋なのかもしれない。他に客はいなかった。タバコを吸えますかとたずねると、蕎麦を食べている客がいなければ良いという。吸ってもいいがあまり好ましくはない、という感じだと受け取る。気が引けたけど、ためしに一本火をつけてみても店主はとくに気にしている風ではなくカウンターの奥で携帯をいじっていたのでもう一本急いで吸った。買った本でも読もうかと思ったものの、別の客が来て蕎麦を食べはじめてしまったら蕎麦も食べすに本を読むなんて図々しいやつだと思われるのではないだろうか、とまだ誰もいないのに不安で仕方なくなり、少しぼんやりして出る。他に客がおらず涼しくて居心地は良かった。店を出るときに今度はぜひ蕎麦も食べていってくださいと言われる。やはり蕎麦屋がメインなのかもしれない。お店の人も感じの良い人だった。

 

5/6

連休が終わってしまうという恐怖で、なにも手につかず一日ぼんやりする。
それでもいくらか本を読んだりする。

ミシェル・レリス『幻のアフリカ』より

七月十二日
朝、恐ろしい憂鬱。泣き出したいほど。それから、事務の仕事と、数日来放ってあったこの日記をつけるのに精を出して、やっと救い。

とある。
ページを戻ると七月十一日も十日の分も文章があるので、遡って書いているよう。それとも、このアフリカでの記録とは別に日記をつけているのだろうか。
日記はいつ書いているかという分類の仕方もできる。
その日に書いているのか、あるいは翌朝、もしくは一週間まとめて、とか。

『世界泥棒』で文藝賞を受賞した桜井晴也さんが書いていたブログは日記形式で、ある時期はおそらく一週間分まとめて書いていたのだと思う。平日はみな、会社に行った、と一言あるだけで、週末になると読んだ本の感想などを載せていた。生活をしながら本を読む人、という感じがして好きだった。生活しながら本を読む、本を読みながら生活をする。本を読むことは生活?

日記4/24~5/1

4/24

この前のこと。
電線に止まっていた鳥が数羽飛び立ち、飛び立たなかった鳥もいた。
飛び立った鳥を目で追おうとしたが、鳥らは同じ方向へ飛んでいくようでいても、そうではなく、数羽の鳥をひと固まりとして認識していたわたしの目は散らばっていく鳥らを不自然なもののように写し、ほどなく鳥らがおのおの一羽ずつの鳥であることを思い出す。どれか一羽を追うことに興味を感じず電線に目を戻せば何羽かの鳥がいて飛び立たなかったものがいたことに気がついたのだ。
飛び立たなかった鳥らは、飛び立たなかったという選択をしたようには見えず、飛び立っていった鳥など初めからいなかったかのように澄まして見えた。あまりに澄ました様子なので、次第にわたしが飛び立たなかった鳥だと思ったことは誤りではないかと思えてきた。

津島佑子『黙市』を少し読んだりする。明日は休みなので、油断していたらソファで寝ていた。

 

4/25

〈誰にも言えない猫との付き合いに気持を奪われている子ども。〉(黙市/津島佑子

会社の近くに野良猫がいる。誰にも言えない猫との付き合いに気持を奪われている様子の女の人を見かけるのだけど、それはそういう素ぶりなのかもと思っている。子どもではなくなってしまったから。いや、わたしは気持を奪われている振りをしてしまう。だからきっとその人もそうなのだと、思っているのかもしれない。対象と、視るという行為、の間にわたしという自意識が邪魔をする。

津島佑子の『黙市』はとても面白かった。11の短編は似たような状況が描かれるのだけど、それぞれ違った感じの良い文章があったりした。場所の書き方がとても好み。「島」の空き地も、「黙市」の六義園も、沼も浴室も良かった。


4/29

土曜日の夜からSと旅行へ行く。
旅行は数えるほどしか行ったことがないけれど、行くたびにやたらと歩いてしまう。今回もよく歩く。
あまり本など読まず、風景をみたりしてとても良い日を過ごすはすが、待ち時間や移動時間にぼやぼや本を読んだりする。
性格に難があるせいか友達がまったくいないわたしと唯一遊んでくれるSには感謝している。

 

4/30

なにもせず一日過ぎる。嘘。
小宮豊隆夏目漱石 中』を読んだりする。
「再び神経衰弱」の章は漱石がロンドンから帰ったあとのころについて書いていて、妻鏡子の文章を引用しつつ鏡子を批判する。弟子小宮対妻鏡子という感じでおかしい。どこかで鏡子と弟子らの軋轢について、文章を読んだ気がするけどどかだったか。
鏡子が、漱石の行動をなんでも「頭が悪くなった」せいだとするのも異常だけど、小宮の夫婦感のようなものも今からみればなかなか異常。

 

5/1

ネットをみてもテレビをみても、改元の話題ばかりで、辟易する。
ぼんやり本を読んだり、映画を観たりして一日過ごす。
『悪いやつら』と『タクシー運転手』を観る。
『悪いやつら』のハ・ジョンウ演じるチェ・ヒョンべはヤクザの親分で、大叔父であるチェ・ミンシクと手を組み勢力を拡大する。チェ・ミンシクは巧みな話術でさまざまな危機を乗り越えるのだけど、ミンシクの話術に翻弄されるヒョンべが異様に頭の悪い感じで、おかしい。『悪いやつら』の登場人物はみな他人を出し抜こうと知恵を働かせるなかヒョンべはどちらかといえば硬派なヤクザ、知能派というよりは武闘派で、ちょっとトロンとした目が頭の悪いよくいえばピュアな感じのキャラクターと相まって怖かった。

まだ何日か休みがあるので出歩いたりしたいところ。