悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

ことばはホウキ星/井坂洋子

その日

井坂洋子の「ことばはホウキ星」を読んだ。詩の入門書らしい。ささいな出来事から詩作品につなげていって門外漢でも楽しく読めた。吉岡実の「静物」についてなど、簡単に書いているけど、とても納得。

印象的な部分をいくつか引いてみたい。一つ目は中島みゆきについての章。中島みゆきとか桑田佳祐とか、詩人以外もとりあげているところも楽しいし身近なところ。中島みゆきの「蕎麦屋」をとりあげて、

(……)めげてる「あたし」を一生懸命笑わせようとしたり慰めようとしたて道化役をかってでている「おまえ」は、「あたし」に叶わぬ恋をしている人になる。\そして、この人が、いちばん可哀想、ということになる。

中島みゆきの詞には、自分が道化になる、その悲しみ笑いの詞も多いのですけれど、その痛みを知っているだけに、自分のために道化役を買ってくれる人に残酷にできない。
 ふつうは、こうじゃありません。フラれてあり、傷つけられたり、バカにされたりという痛みばかり後生大事に抱えこんで、自分がフッたり傷つけたり、バカにしたりということには鈍感です。
 フラれた心は歌になりますが、フッた心は歌になり得ない。フッた心には感情の渦巻きがないから。
 でも、「ゴメンネ」と言いながら、フッた人の心中を察しながら離れていった場合は歌になるんですね。

わたしは友達がいないとか傷ついたとかそんなことばかりブーブー言ってばかりの人間からすると身につまされてしまう(現状のことは自分自身のせいだとかいうのはまた別の話として)。誰かの悲しみみたいのは気づきたい。気づいたとしても気づくことしかできないのは悲しいことだけども。

もう一つ。

 ことばはホウキ星、いつだってことば使いの魔女でいるために、詩想をかき集める一本のホウキがあるといいですね。あなたにも、また。そして、書いた詩の数々が、自分への励ましのためにそこにうまれたのだ、と考えることができるでしょうか。のちに読み返してみて励まされるというのではなく、書きつつ、未来からの励ましを受けるということ。

「書きつつ、未来からの励まし」というのはいいな、と思う。わたしたちのような14歳の自分を救わねばならないという命題を背負ってしまったやつらは、過去への励ましでもあってほしいと思う。未来にしろ過去にしろ、いま書くことが時間の広がりをもっていく、しかもそれが励ましとなることは希望だろう。