悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

2018/10/28


昨日は久しぶりに福生へ行く。イケてる店員がはいていたイケてるパンツを買う。タイ料理を食べる。バッティングセンターへも行く。マシーンから飛んでくるボールは毎回、上下左右ちょっとずつ違うところへたどり着くのに、バットを振る位置を変えている意識がなくても当たるのは不思議だ。自転車に乗るとき意識しなくても、目線の方向へと勝手に進んでいくときと同じようような不思議さがある。

 


文章を書きたいという気持ちもあるいっぽうで頭をつかうのは面倒だ。本を読むほうが楽に思う。まさか、本を読むことが頭を使わないということではないだろうから、せいかくには文字列に視線をはわせること、とでも言ったほうがいいかもしれない。たしかに視線をはわせるというか、文字に沿って目線が流れていくことに心地よさを感じている。


北村太郎『ぼくの現代詩入門』は、〈1 現代詩とは何か〉〈2 若い荒地の詩〉〈3 若い現代の詩〉〈4 詩の作り方のヒント〉の四章立て。若い現代の詩といっても、1982年にでた本なので、取りあげられるのは荒川洋治平出隆といった面々でわたしなんかからすると若くないような気がするのでおかしい。


〈4 詩の作り方のヒント〉より

人生経験が浅いよりも深いほうが詩を書くうえに役立つにきまっています。第一、推敲するってこと自体、人生経験を深める行為なんですよ。それ、どういうことかというと、手っとり早くいえば推敲って、自己批評でしょ? どこまでも冷静に、全身全霊で自分に迫るってことでしょ? これ以上に意味のある人生経験なんて、ほとんどないじゃないですか。


人生経験が浅いことを気にしているので嬉しくなるようなことだ。あるいは、人生において語るにたりる経験を得ることの難しさと同じくらい、推敲そして自己批評は難しいことなのか。

 


2018/10/29

書物を朗読する時には二行を同時に読むことはできない 。行を下から上へ読むこともできない 。出来るのは 、繰り返し読むことだけである 。読んでいるのが自分なのか他人なのか分からなくなるまで 、繰り返し読む 。

多和田葉子『飛魂』の一節。自分なのか他人なのか分からなくなるまで、というのが良い。誰か別の人の考えを知って、みずからを客観的にみるだとか、そんなことはどうでもよくて、誰か別の人そのものになりたいのだ。そんな読書を待望している。書くこともそうあれ。

 


2018/10/31


仕事は、うまくいっていない気がする。
人とのつながりをもとめている。ないわけではないはずなのに。ナイーブすぎる。肉体とあまりに離れたところで書いているからなのかもしれない。

 

清潔なシャツ

永遠の夏の川辺は今年も訪れず、夜はすっかり肌寒くなってきた。冬の空気は密度が薄いようで清潔に思える。わたしにとって清潔さとは数が少ないことなのだと気づく。清潔であることは良いことなのだろうか。わたしは好きだ。例えば清潔なシャツはどうだろう。


〈お気に入りのシャツに袖通して〉(I Gotta Go/SALU)。
〈ベランダには枯れた花/そばにおいでよ新しいシャツもあるけれど〉(シャツを洗えば/くるりユーミン)。

 

セーラム・アラスカ・メンソールのこと

冬で思いだす。むかしセーラム・アラスカ・メンソールというタバコがあった。ちっともタバコの味がしなくてメンソールがキツい。パッケージが真っ白で冬になると吸いたくなるのだけど、寒い日に吸うと胸がスースーして胸の中が外に開かれるみたいになる。


まだセーラム・アラスカ・メンソールがコンビニで売っていたころ、遠い北極圏の街から引っ越してきたシロクマがセーラム・アラスカ・メンソールを吸って故郷を懐かしく思うという小説を書いたことがある。いまでは小説なんてちっとも書かなくなったけど、このブログも嘘ばかり書いているのだから小説みたいなものだろうきっと。いや、小説にはホントのことが書いてあるんだってさ。シロクマが耳打ちしたことを覚えている。シロクマは故郷に戻ってもこちらのことを思い出せるようにと、こちらで覚えたセーラム・アラスカ・メンソールをカートンで買って帰っていくのだけど、北極圏の街でシロクマはタバコ吸ったりしないのだし、あまっているようなら譲ってほしい。