悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

本の読み方のいろいろ


本の読み方は人それぞれとは言うものの、あんがいぼくは生真面目に本と向かい合っているようだ。

本を開いて一行目から、せっせと順々に読んで行く。筋や登場人物だって覚えようとする。調子の良い時は線だって引くし、メモだってしちゃう。

 

あるいはモノとしての本に愛着を持って、表紙を撫でてうっとりすることだってある。

けれども、生真面目さに辟易することもあって、自由とは? などと思い巡らすこともあるのだ。

 

そんなわけで、津野海太郎の『歩くひとりものの』に出てくる本の読み方には驚いた。

 

『歩くひとりもの』はエッセイ集。

歩くこと、家庭を持たないひとりものであること、そして老いることなどが主な話題で、ささやかだけどもユーモアもあって楽しい一冊。

 

『赤いタータンチェック』という一篇。著者は自分が50歳を過ぎても学生のころと同じタータンチェックを着ていることを思う。

 

若いあいだは、世の中には老人というものがいて、かれらはかならず老人のように考え老人のようにふるまうのだ、と信じてなんの疑念も抱かなかった。

 

しかし、そうでもないらしいと著者は思う。その証拠として自分の赤いタータンチェックである。年齢など意識せずにずっと若いころと同じ格好なのだ。

 

著者はこのことをミラン・クンデラの『不滅』に出てくる〈たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識していないし、たいての時間は無年齢者である〉という一節から思い至るのだけど、最後が凄い。

〈私はクンデラの小説から「無年齢者」ということばを一つひろっただけで満足してしまった。残りのページはまだ読んでいない。したがって私にとっての『不滅』は、この冒頭の場面でおしまい。私は実用主義的な小説読者なのである。〉

冒頭しか読んでいないというのだ。


そういえば、以前、宮崎駿が映画を見る時、とても気に入るシーンがあると、満足してしまい席を立ってしまうというようなことを鈴木敏夫が語っていた記憶がある。大学のクラスメイトに話したら、宮崎駿はクリエイターだからいいんであってぼくらはそんな見方しない、と言っていたけど、宮崎駿実用主義者なのかもしれない。
ぼくは律儀に最初から最後まで読むし、立派な感想など言わなければならないと強迫的に思ってしまうので、思わず膝をたたき、クンデラの登場人物よりもよっぽどユーモラスだとさえ思った。

 

次はもっとすごい。その名もずばり『本を破る』という一篇。著者はパソコン関係の雑誌を何冊かまとめ買いする。

 

本屋をでると手近な喫茶店にはいって、広告ページのほとんどと、たぶん読まないであろう記事のいくつかをビリビリ破りとる。このごろの雑誌は広告主の木をひくためもあってか、むやみに上質の紙をつかっているから、それだけで重さが半分くらいになる。

 

雑誌なら、と思わなくもないけど、著者はふつうの本もびりびりやる。
次の『再編集のたのしみ』という一篇では、その行為を再編集として意味を与えていたりもする。

もちろん人によってこの行為に良し悪し思うだろう。少なくともぼくには及びつかなった本の読み方だった。とても明るいものに思えた。

 

おそらくびりびりやってしまえば、本そのものを愛する人から顰蹙を買うだろうし、最初にあげた読み方では、『不滅』について論じたりすることはできないだろう。けれども、そもそも読書とはだれかと仲良くなるためのものでもないのだろうし、読んだ本について論じる必要だってこれっぽっちもないのだ。
ぼくがこれらの方法を真似するかどうかはわからないけども、本の読み方についての見方が少しほぐれた。

 

 

歩くひとりもの (ちくま文庫)

歩くひとりもの (ちくま文庫)