悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日


休み。
天気が良かったので外で本を読んだ。
いとこのこどもがきて遊ぶ。
貞久秀紀『雲の行方』と『具現』を読む。

回り道とか寄り道というような文章がある。たとえば最近読んでいる後藤明生の文章は寄り道のように感じる。本筋があって、話がだんだんと横道にそれていくような感じ。寄り道自体が目的になっているように感じたとしても、それはあくまで寄り道である限りにおいて終着点へと向かっていく文章として読める。しかし『雲の行方』は寄り道ではなくて、道のないところを一歩ずつ歩んでいくように読めた。いやむしろその場所で足踏みをしているようですらあった。あとがきでも同じようなことを書いていた。足踏みというか行ったり来たりの感覚は断片形式と関係があるように思える。


その日


仕事。
とても疲れた。
現代詩文庫『谷川俊太郎詩集』を少し読む。
津野海太郎『歩くひとりもの』も少し読む。
『歩くひとりもの』は最近読んでいる坪内祐三『古くさいぞ私は』のなかに出てきたので図書館で借りてきた。
ところでこの日記のようなものは毎日書いているのだけど坪内祐三の『古くさいぞ私は』について一言も書いていないのはどういうわけなのだろうか。ブログとして更新する際には、すべての日を〈その日〉としているが下書きには日付を入れているし、下書きは保存している。見返して見ても、『古くさいぞ私は』については一言も触れていない。もちろん書いていないことはたくさんあるのだけども、読書日記というていで書いていて、それはないだろうと私に思う。


その日


仕事。
とてもとても疲れた。
谷川俊太郎詩集』を読む。『旅』はとても好きだ。わたしは書いたりする人ではないのに、書くことについて書かれた詩に感動するのはなぜなのだろう。あるいはエッセイ『世界へ!』もまた詩を書くことについてのものだが、これも感動などするのはなぜだろう。後者についてはこの文章を書いて以降の作者の歩みを思うと、とても力強く感じ、それが原因なのかもなどと思うけれども、前者についてはなんとも言えない。

今日は日が出ていて、暖かいようにも感じたし、寒いようにも感じた。過ごしやすい一日だったと言えるかもしれない。
天気のことを思い出し、記録するとき晴れや雨と書き込むわけだけど、なんとも言えない日もあるのだろう。もちろん晴れとはどのような状態を指し曇りとはどのような状態を指すといった定義は存在する。とはいえわたしが天気について記録するとき、空の状態だけではなく、風や気温、あるいは屋内にいたか屋外にいたかで天気を思い出したときの印象そのものも変わる。主観ということか。天気は主観ではないだろう。気象、というと科学的な感じがする。自然主義

駅のホームにわたしはいる。乗り換えを間違えてしまい長い時間電車を待っている。ホームには屋根があって影をつくっている。しかし壁はないので風が吹き込む。退屈と後悔の時間に吹く風は冷たい。線路側の道を歩く犬の毛並みは陽を浴びて輝いているのに。わたしは寒い。

天気が客観的な事実として、晴れや曇り、あるいは気温が何度であるとか、風速がいくらであるとか、定められていることは、ホームで電車を待つときどうしようもなく寒がってしまうわたしにとって、希望なのだと思いたい。
今日のお昼。後藤明生の『小説--いかに読み、いかに書くか』を読んでいて、田山花袋の『蒲団』における描写について書いた文章を思い出す。