悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

7/22

ジェイン・オースティ『高慢と偏見』(中野康司訳)を読んだ。

末娘のリディアの駆け落ち騒動からの展開はもうたまらないという感じで、ハッピーエンドの予感で満ちている。
姉妹物?といえば『細雪』が思いうかぶのだけど、『細雪』は衣服の描写がとても目立ったのに比べて『高慢と偏見』はほとんどなかったんじゃないだろうか。さんざん食事をしているのに、食べ物の描写もない。服の描写にかんしてはいえば、物語序盤、ベネット家が、ビングリーと出会ったディナーから帰宅したのにちベネット夫人がベネット氏に服の話を始めると、すかさず〈服の話はやめてくれとベネット氏は言った〉のだから仕方がない。ベネット夫人は、人が喋ってほしくないことをべらべら喋り、家族が顔を覆ってしまうようなまったく空気の読めない喜劇的な人物なのだけど、服のことはベネット氏に従ったようで以後ほとんどしない。

 

ソウル・スクリーム、魂の叫び。生から死進む道、私はいったいなにに出会ってきたのだろうか。

 


7/23

 

iphoneを購入して、家に届く。こんなことでも嬉しい。
設定やらで、時間が経ってしまい本は読めず。
『安東次男 渋沢孝輔 現代詩論Ⅱ』(晶文社)を少しだけ読む。

 

 

7/24

過去になく仕事が忙しい。しばらく続きそうだ。
前日と同じ本を少し読む。

そういえば、『高慢と偏見』について、ダーシー氏がエリザベスに好意を抱き始め二人が再開する場面は
体調を悪くしビングリー氏の家に宿泊していた姉を見舞うためにエリザベスが徒歩で訪問するというものなのだけど、エリザベスの服装が話題になる。

 

 

7/27

 

多和田葉子『かかとを失くして』を読んだ。
「書類結婚」のために知らない街へとやってきた「私」の話。かかとがないということについて、作中でもそれとなく触れらている。「私」はいろんな人のかかとが気になる。それは、自らが子供にかかとがないと言われたためだろうか。かかとが気になるのは女の人のようだ。女の人はかかとがあったりなかったりするのか。かかとがないということはどういうことなのだろうか、と思ってみると爪先立ちしているのと同じような感じなのかもしれない。つんのめったような、前かがみのような、前へと足を進めるしかないような。たしかに作中の「私」はひたすらに前へ前へと進んでいくようだ。そもそも文章とはそういうものなのかもしれない。うねうねと思いがけない理屈を結ぶ文章は躓きそうになりながら踏み出す一歩一歩のようで読んでいて、楽しい。以下適当に、線を引いた箇所。楽しかった箇所だと思う。

 

この日は主婦らしくうちへ帰ってからいわゆる掃除をしようと思ったが 、このように広いうちを掃除するには奥の部屋から始めるのか 、玄関から始めるのか 、窓を拭いてから床を磨くのかその逆か 、誰も教えてくれる人もなく 、曖昧な調子で台所から始めたのはいいが 、床は拭いてもきれいにならず 、と言って初めから拭くほど汚い訳でもなく 、廊下もまた光ってはいないが私がモップで行き来しても 、それで光る様子もなく 、張り合いのない仕事に肩ばかり凝ってきて 、テ ーブルクロスを洗濯してみたが退屈で 、いったい何を解消しようとして家事をしているのか 、自分でもはっきりせず 、結局汚いのはこの家の中では自分の肉体だけではないか 、私こそ毎晩知らない男を訪問して汚いのではないか 、と思いお風呂に入ることにした 。

 

掃除をしようと思ったが、風呂に入ることにした。というだけの話なのだけど、けっこう長めの一文で、読んでいるとおかしな気分になりつつも間違っている気にはならない。

他にも。

 

台所へ行くと卵をゆでる鍋の中に郵便葉書が一枚入っていて 、どうやら病院の予約確認らしく 、日付は今日で 、しかも行くのは私だった 。夫が予約手続きをしてくれたに違いなく 、調子の悪いところはどこもなかったが 、夫の思いやりがありがたく 、自分では気がついていなくても気候が変わったのだから病気になっているのかもしれず 、今日は学校へ行く気にはなれないので都合もよく 、天気は 、と窓から外を見ると 、曇り空が重くたれこめ 、格好の病院日和だった 。

 

〈気候が変わったのだから〉というところに飛躍があるようにも感じるけど、たしかに気候が変わって体調が悪くなることはあるのだからおかしくないといえばおかしくない。