正確さとは別方向へのメモ
本を読むこと
本を読んでいるときに、本を読んでいないときがある。目線は文字を追っているのに、別のことを考えているような。そんなときは、読んでいる本に重要性を感じていたならば、目線を戻して再度読むだろうし、場合によってはそのまま読み進めるだろう。
歩いているとき(もちろん歩いているとは家を出て会社まで向かう道中をさすのではない。もしその道中で昨晩夢に出てきた○○が前を通り過ぎ、思わず後をつけ気づくと迷子になっていた。)、多くのことに気をとられてしまいただ歩く喜びに満ち溢れているわけでもない。
野球場でわたしたちは野球を楽しむだろう。スタンドからの野球はストライクゾーンが9分割されない。野球場へ行くことは偏執さとは反対のことなのかもしれない。
祖父はいつも本を読んでいた。鬼平犯科帳やそんなようなものを、いつも読んでいた。誰とも本の話をしなかった。誰かと触れ合うために本を読むとはどういうことだろうか。祖父の本を読む姿を、いったい何人の人が見ただろう。わたしと、あと三人くらいじゃないだろうか。
おとといの会話から
あまりの真面目さに辟易する。丁寧に本なんか読みやがって。
街へ行くし本も抱えていく。
万引きを自慢するなバカ。
「正確なあらすじをかきたまえ」。
千枚通しでページに穴をあけ一本の糸を通す作業を夜通しする。
喫茶店で隣の人の声に耳を澄ましても、正確な聞き取りを求めたりしない。それでもその会話が何かの慰めになることはある。
誰かに何かを言う必要があるのか。ないのか、そんなことを考える必要なんてない。
引用
<美術系の人が本業以外の余暇に凧を作ったりパラパラマンガを描いたりするように、小説家が(余暇に)文章を書くにはどうすればいいか。美術系、音楽系の人たちのよろこび=手なぐさみ=気晴らし。>カフカ式練習/保坂和志
〈星座なんて知らないほうが空は不思議にみえる〉気まぐれな朝/森は生きている
退屈について
退屈で退屈で仕方ないから本を読んだ。今でも退屈で退屈で仕方ないから本を読んでいる。机に向かって読んだりしない。メモをとったりしない。読み終わった後に人として成長したり、思慮深くなったりしない。帰り道に落ちていた石ころを家まで蹴って歩いたみたいに本を読んでいる。