悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

その日


西尾勝彦の詩集『歩きながらはじまること』を少しづつ読んでいる。
やさしいことばで書かれていて、筋もあるのでわたしでも楽しい。


「ならまちの古本屋」という作品は古本屋に行ったことが、行分けで書かれている。淡々として、古本屋の場所が語られ店主と酒を飲んだことが続く。
店を出る場面でふと〈少し浮遊しつつ/ぼくは店を出る〉とある。浮遊したようにではなく〈浮遊しつつ〉だ。何がということは書かれていない。体がかな、と思う。心が浮遊するというのはあるかもしれない。浮足立つとか。ふわふわした気分。けれども心とも体とも書かれてはいないのであって、やっぱりただ〈少し浮遊しつつ〉だ。良い。好き。そのあとは〈ぼくは店を出る/最近/この店で本をかっていないなあ と思う〉となって、もう浮遊とは関係ない。一瞬だ。ささやかだけど目立つ。飛躍というのだろうか。それこそ浮遊か。


プレゼントを買いに百貨店へ行く。そもそもプレゼントを買いに百貨店へ行くのがダメなのかもしれない。二時間ほど悩む。同じフロアを二時間もウロウロしていると、店員からあの人はなんだか二時間もウロウロしているな、と思われてしまうのではないかと不安になってしまう。不安と疲れからかまったく意味不明なものを買ってしまい、また買ったものが大きかったせいで、帰りの電車はとても惨めな気持ちになった。

 


その日

 


近松秋江『黒髪』は、遊女に思いを寄せる〈私〉の話。楽しい場面はあっても描かれない。一緒にご飯を食べることさえ叶わず、かわいそう。好きな人と一緒にご飯を食べることは大事なことだ。


〈私〉が思いを寄せる女の言動は、〈私〉のことを好いてはいないのだろうな、ということはわかるものの変で読んでいる最中は嫌な感じがしたのだけど、あとあと思い返してみると、相手のことがわからないという感じだけはわかると思う。

 


知り合いのこと。恋をしているという。
相手のことがよくわかるという。こんなにもよくわかるなんてとても素晴らしいことなのだとか。わたしもわりあい他人のことをよくわかる気になるものの、なんだかわかってしまうなんて相手に悪い気がして、考えをやめてしまう。たいてい、わたしが他人のことを「わかる」と思うとき、ある面では当たっているし、ある面では当たっていないという感じで、どうでもいいことなのだ。逆に、他人に対して、どうしてこの人はこんなにわたしのことが分かるのだろう、という気分になることもあるけど、それはどういうことか。