悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記

3/11

最近は暖かい日が多くなってきて、春が来るんだなという気分が高まる。
暖かい日にわけもなく良い気分になってしまうのは、きっととても良いことで、昨年のちょうど今頃の日記にそのようなことが書いてあり、今年も同じようなことを思っている。その前の年その前の年と遡っていく。昔の日記を読み返すと、ぜんぜん自分が変わっていないことに驚いたりすごく遠く感じたりする。

いくつになっても暖かくて風も強くない午後にはどこかへ行ってしまいたくなったりもする。
「イン・トゥ・ザ・ワイルド」という映画がある。逃避行する映画で、恵まれた境遇に生まれ育った青年が家出してアラスカを目指す話。
一度しか観たことはないのだけど、青年がとても惨めで愚かだった記憶がある。
もう10年くらい前のことで、失踪はやめようという教訓としてこころに留まっている。
危ないのは吾妻ひでお失踪日記でこちらを読むとあんがいどうにかなるんじゃないなと思ったりする。
とは言っても毎日お風呂に入らないではいられないのだから失踪なり逃走なりどっちにしたって向いていないのだ。いや、そもそもお風呂に入ったり清潔なシャツを着たりするのも、よくよく考えてみればわたしがどこかへ行ってしまいたいと思うときに置き去りにしたいものと同類のものかもしれないと思ったりもする。

かもしれない、かもしれない、と妙な理屈をこねつつしだいしだいに失踪しない理由はないのだとなかば義務なのかなんなのか強制的な力によっていやいや荷物をまとめていやいや飛び出したもののいやいやくたばってしまうという物語はどうだろうかと浮かんだけど、理屈というのはあんがい人を動かすのには役に立たないような気もする。

本日はオースティンの「エマ」の下巻を少し読む。
上巻でのハリエットの結婚相手を探そうとするエマに、『虞美人草』に出て来る藤尾の母を思い出したりする。

布団に入ってから寝るまでのあいだに読む用の本を枕元に置いているのだけど、ここしばらく詩集だったのを読みかけだった『富士日記 上』になった。小説とくらべると日記は同じ散文でも時間の扱いが単調で、たぶんそれが日記の小説とは別にある魅力のひとつなのだと思うけど、そのせいなのか一気に読もうとすると読めてしまうもののなんだか味気なく少しずつ読んでいくほうが良い気がしていて日記を読むのが好きなのに大量に読むことができず悲しいところだなと思う。