悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記

2019/01/24

図書館へいく。何冊か本を借りる。そのなかの一冊。鹿島茂『成功する読書日記』(文藝春秋)。なんとも微妙なタイトル。この成功というのは、読書日記を継続的に続けることができるようになる、の成功。前半は読書日記をつけるコツで、後半は著者が雑誌に連載していた読書日記が掲載されている。前半というか、コツの部分は最初のちょっとだけで、大半は連載の掲載なのでやっぱりタイトルが変なよう。

読書日記をつけるコツは、まず量を読めという。いろいろ読まないとわからないことが多いのだ。なので、気張って感想など書こうとせず、まず読んだ本と作者の名前を書くくらいにしようという。なれたら点数をつけたりする。すると点数の根拠を書きたくなってくるからちょっとずつ感想を書いていく。しかし、それよりもこの段階では引用がいいという。テキトウに引用してこれも慣れたら話の全体を引用を中心に書く。その次は全体のレジュメのようなものを書く。レジュメの作成はふらんすでも用いられるたいへん意義深い学習方法だとそう。だいじなのは批評など書こうとしないことだ、と。それはそれで別の学習方法を用いましょう。

まあそうか、そういうものか、という気分になったりした。

また著者は、インターネットでブログとして公開することについて、定期的に更新することで〆切のようになりモチベーションになると言いつつも、
〈とはいえ、公開するしないを問わず、読書日記というのは、あくまで自分にとって役に立つものという観点を捨てないほうがいいと思います。読書日記は、あくまでプライベートな「日記」の一つであるがゆえのメリットを持っているのです。インターネット時代であっても、このことは心にとめておいていいことだと思います。〉という。

夏目漱石彼岸過迄』を読み終える。
ハワード・ホークス三つ数えろ』も観る。チャンドラーの大いなる眠りが原作でフィリップ・マーロウ役はハンフリー・ボガード。銃を突きつけられても超クールでまったく動じない。雨に濡れてもクール。それでいてラストシーンの薄暗い室内、皮脂で艶やかな表情を浮かべ劇中最も高いテンションを見せる場面もかっこよかった。


2019/01/25

仕事。
夏目漱石『行人』を読む。
二郎が大阪へ行くところからはじまる。二郎は友人の三沢と会うため、そして母の依頼で、下女であるお貞の結婚について遠縁である岡田と会うために大阪へ行く。いざついてみると三沢とは連絡がとれず、しばらく岡田の家にいる。岡田と妻のお連との関係は二郎にとってとても良いものに映る。理想的な夫婦像という感じ。やがて三沢から連絡が来たかと思うと、体調を崩し入院していたことが判明する。三沢の頼みもあり二郎は病院で三沢に付き添って過ごす。すると、別の病室にいた「ある女」とふたりが呼ぶ女が気になりだす。病院の描写はけっこうおもしろくて、「あの女」を担当している美人だけどやる気がない看護師が良い。

給料日。給料をもらうたびにこれっぽっちでやっていけるんだろうか、と不安におもう。思うというかじっさいやっていけていない。
不当かと言われれば不当でもなく、それなりに仕事量は少ないとはいえ、本当にそうだろうかという気もする。
ならばど給料が少ない分しっかりとさぼってやろうと思ったりもする。
世の中の仕組みが間違っているとして、その仕組みのなかでのんきに暮らしている無反省なわれわれも、間違った仕組みに加担しているのだ、といえばこれはシンプルでとても良い。全員アウト。月が落ちてきて、直々にお仕置きされちゃえばいい。
いや、されちゃえばいい、なんてちゃんちゃらおかしい。みんながみんなされちゃえばいいと思っているかもしれない。

 

2019/01/26

仕事。
夏目漱石『行人』をすこし読む。
友達がほしいといつも思っていて、それは孤独な気分になるからでつまり友達がいれば孤独な気分にならなくてすむのではないかということなのだけど、べつに家族がいても恋人がいても孤独な気分になるのだから、友達がいたってそれはかわらないのだもちろん。


2019/01/27

休み。
ボヘミアン・ラプソディを観にいく。渋谷。やんばるで昼食。ソーキそばというとやんばるへ行くのだけど、とくに違うところで食べたりはしないので、自分がソーキそばだと思っているものは「やんばるのソーキそば」であって別のところでソーキそばを食べたらぜんぜん別物であったなんてことはあり得るだろうか。居酒屋ではなくて食券の、ラーメン屋みたいな感じの、ソーキそば屋ってほかにもどこかあるのか。とくに探してはいないのだけど。
夏目漱石『行人』、『現代詩文庫51 寺山修司詩集』を少しづつ読む。

 

行人。兄の一郎と嫂、そして母が大阪へやってくる。そこで二郎は兄が、嫂が二郎のことを好きなのではないかという疑いを持っていることを知らされる。それを晴らすために兄は二郎に嫂と二人で出かけることを要求され、仕方なく二郎は嫂と和歌山へ行くのだけど、そこで台風に遭遇してしまい一泊過ごす。そこから兄との関係はこじれ、二郎は一人暮らしを始める。三沢は回復し、東京へ戻り、結婚を決める。さらに二郎の嫁を探してくれる。けど二郎は嫁よりも兄のことが気になる。兄は二郎が家を出て行ってからも機嫌が良くならず逆にオカルトめいたことにのめり込んだりして家族も心配する。さてどうしたものか。というあたりまで読む。


寺山修司詩集に収録されている「李庚順」という「長編叙事詩」ではマヤコフスキーの詩が引用されている。寺山修司ユリシーズの不在でも同じ詩が引用されているのだけど、別の訳だと思う。好きな詩なので引用する。ちなみにマヤコフスキー自体は読んだことはない。

ほかのひとの心臓のありかなら知っています
そいつは胸にあるーー万人周知の事実です。
しかしぼくの体では/解剖学の気がくるった
どこをとっても心臓ばかり
いたるところで汽笛を鳴らす