悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記5/11~13

5/11

連休が明けだったせいかとてもつらい一週間だった。
暑いし、なにもやる気がでない。
まあ時間が経てばどうせ良い気分にもなるだろうから、ぼんやりやり過ごせばいいだろうか。
あんまり良い具合に晴れていると、あてつけのようで嫌な気持ちにすらなったりもする。

田中英光オリンポスの果実」はアメリカへ向かう船上が物語前半の舞台となる。恋する語り手は、海も空も恋しいあの人と重なってしまい美しく見える。
辛いことのようにも、すばらしいことのようにも思える。風景だってわたしたちの気分によって姿が変わったりするのかもしれない。そのように考える立場はあるだろう。わたしはそんなふうに世界がただわたしの見えるものとしてしか存在しないような気分になることもあるし、そうではないような気分にもなる、わたしの見えないところにも存在するもののことを思って嬉しくなったりもする。

 

5/12

たまには日記とは別の文章を書いてみようと、仕事中にちょこちょこためた文章を読み返したりしてみたけれどあまり気持ちがのらない。

休み。
ハンモックで終日うとうとしていた。
うとうとしながら、本を読んだりする。
文章を目で追いながら眠いな寝ちゃおうかなと思いつつもページをめくったりしていてもやっぱり眠たくて寝てしまう。

寝てしまっているということに気づく。ふっと意識が落ちてしまったのは一瞬ですぐに目が覚める。はっ。寝てしまった、と思ったりする。寝てしまわずに本を読もうと文章を追う。追うけれどまぶたが重く、視界がぼやける。寝てしまっていると気づく。何度か繰り返すうちに寝ていることに気づくことはなくなる。眠いような気はするけれど、文章を追えている。追えているという安心感と眠りに落ちていく気持ち良さが両立しているかのような素晴らしい時間、つまり夢を見ている時間。
やがて目がさめると小一時間経ってしまっている。それは、まあ、仕方のないことだし、眠いのを我慢してまで読むような読書は、わたしにはないのだから、構わないのだけど、夢の中で読んでいた文章はたしかに間違いなく読んでいたはずで理解を出来ているというはっきりとした感覚もあるにもかかわらず、内容をすっかり忘れてしまっていることが気になる。ちょっとくらい覚えていてもいいような気もするのだけど。

 

5/13

人の目を気にしすぎるところがあるので気にしないようにはしたいと、思っているのはもう何年も前からのことなのに、うまくいかない。

多和田葉子『尼僧とキューピッドの矢』を読み始める。すごく好きな気がする。
修道院に住む尼僧たちの話。尼僧に好奇心を抱いた語り手がそこを訪れるところからはじまる。語り手は、尼僧たちにあだ名という呼び名を出会ってすぐに思いつき、心の中でそう呼ぼうと決める。可笑しい。第一印象か。ぱっと思いつく。こっそり呼び名を勝手にあたえる。その印象は間違っていたりする。ぱっとつけた名前が間違っていることによって、登場人物たちが生き生きとしているようですらある。おしゃべりも楽しい。語り手がある登場人物に話した話が、別の登場人物によって語られたりするので、語り手の知らないところでも尼僧たちはおしゃべりをしているのかもしれない。噂話や勝手に名前をつけることは下世話なことかもしれない。下世話なことの楽しさみたいなものもあるように思う。

多和田葉子の朗読を勧めてくれた人と仲違いしてしまったことを思い出し、わたしは人とまったくうまく付き合えないのだと、嫌な気分になったりもする。『雪の練習生』を勧めてくれた人とも仲違いをしてしまったのだった。