悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

本の読み方のいろいろ


本の読み方は人それぞれとは言うものの、あんがいぼくは生真面目に本と向かい合っているようだ。

本を開いて一行目から、せっせと順々に読んで行く。筋や登場人物だって覚えようとする。調子の良い時は線だって引くし、メモだってしちゃう。

 

あるいはモノとしての本に愛着を持って、表紙を撫でてうっとりすることだってある。

けれども、生真面目さに辟易することもあって、自由とは? などと思い巡らすこともあるのだ。

 

そんなわけで、津野海太郎の『歩くひとりものの』に出てくる本の読み方には驚いた。

 

『歩くひとりもの』はエッセイ集。

歩くこと、家庭を持たないひとりものであること、そして老いることなどが主な話題で、ささやかだけどもユーモアもあって楽しい一冊。

 

『赤いタータンチェック』という一篇。著者は自分が50歳を過ぎても学生のころと同じタータンチェックを着ていることを思う。

 

若いあいだは、世の中には老人というものがいて、かれらはかならず老人のように考え老人のようにふるまうのだ、と信じてなんの疑念も抱かなかった。

 

しかし、そうでもないらしいと著者は思う。その証拠として自分の赤いタータンチェックである。年齢など意識せずにずっと若いころと同じ格好なのだ。

 

著者はこのことをミラン・クンデラの『不滅』に出てくる〈たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識していないし、たいての時間は無年齢者である〉という一節から思い至るのだけど、最後が凄い。

〈私はクンデラの小説から「無年齢者」ということばを一つひろっただけで満足してしまった。残りのページはまだ読んでいない。したがって私にとっての『不滅』は、この冒頭の場面でおしまい。私は実用主義的な小説読者なのである。〉

冒頭しか読んでいないというのだ。


そういえば、以前、宮崎駿が映画を見る時、とても気に入るシーンがあると、満足してしまい席を立ってしまうというようなことを鈴木敏夫が語っていた記憶がある。大学のクラスメイトに話したら、宮崎駿はクリエイターだからいいんであってぼくらはそんな見方しない、と言っていたけど、宮崎駿実用主義者なのかもしれない。
ぼくは律儀に最初から最後まで読むし、立派な感想など言わなければならないと強迫的に思ってしまうので、思わず膝をたたき、クンデラの登場人物よりもよっぽどユーモラスだとさえ思った。

 

次はもっとすごい。その名もずばり『本を破る』という一篇。著者はパソコン関係の雑誌を何冊かまとめ買いする。

 

本屋をでると手近な喫茶店にはいって、広告ページのほとんどと、たぶん読まないであろう記事のいくつかをビリビリ破りとる。このごろの雑誌は広告主の木をひくためもあってか、むやみに上質の紙をつかっているから、それだけで重さが半分くらいになる。

 

雑誌なら、と思わなくもないけど、著者はふつうの本もびりびりやる。
次の『再編集のたのしみ』という一篇では、その行為を再編集として意味を与えていたりもする。

もちろん人によってこの行為に良し悪し思うだろう。少なくともぼくには及びつかなった本の読み方だった。とても明るいものに思えた。

 

おそらくびりびりやってしまえば、本そのものを愛する人から顰蹙を買うだろうし、最初にあげた読み方では、『不滅』について論じたりすることはできないだろう。けれども、そもそも読書とはだれかと仲良くなるためのものでもないのだろうし、読んだ本について論じる必要だってこれっぽっちもないのだ。
ぼくがこれらの方法を真似するかどうかはわからないけども、本の読み方についての見方が少しほぐれた。

 

 

歩くひとりもの (ちくま文庫)

歩くひとりもの (ちくま文庫)

 

 

 

読書/日記

その日


仕事。
カーソン・マッカラーズ村上春樹 訳)『結婚式のメンバー』を少し読む。
12歳の少女が主人公の話。映画に関しては子どもか犬が出てくるものが好きなのだけど、小説はどうだろう。主人公のフランキーは言い得ない不安に襲われ、少し邪険に思っている従兄弟である6歳のヘンリーを家に泊まるように言う。

ジョン・ヘンリーは既に眠っていた。暗闇の中で寝息が聞こえた。その夏、ずいぶん多くの夜に求めてきたものを、彼女は今手にしていた。こうして誰かが、自分のベッドの中でとなりに眠っているのだ。

暗闇の中でも、誰かがとなりで一緒に寝てくれていることで、もうそれほど怖さを感じなくなっていた。

まだ読み始めたばかりだけども、いい感じ。寂しさと誠実さとが揺れるときの哀しさみたいなことを思う。
引用した一節を読んだとき、近頃は睡眠がとても好調だということを、ふと思いだした。眠る前の時間は幸福ですらある。何かを手放すことは必要なことなのだ。何も持っていないような気がしていようとも既に持ちすぎているのだろう。自分や意識はそうしたものの最たるものなのだと、思う間もなく眠っている。


その日


仕事。
晴れていた。
『結婚式のメンバー』を少し読む。
まだ途中なので、感想もない。本当にそうか。読んでいる途中でも色んなことを思う。
(フランキーという12歳の少女。より無垢な存在である6歳のヘンリー。ヘンリーの存在がフランキーの多感さを際立たせているようだ)
読み終わったとき、それらの断片的な感想は見当外れだったと思うかもしれない。読書中のかすかな記憶を、読み終わったあとの全体のイメージを通してひとつの感想を得るのだろうか。

先日読んだ佐々木幹郎『パステルナークの白い家』に「十歳のおそろしさ」という文章がある。
子どもによる犯罪を目の前にしたときなどに出てくる、今どきの子どもはわからないという言い方に対して、では自分自身の子どもの頃について自分はわかっているのだろうか、と著者は振り返る。
著者は十歳のとき、父に言われて絵を描く。必死書いたが上手くいかず、それでも父は上手いじゃないかと言われ、そのことを十歳のときの著者は不満に思った。そして、

四十年たってその絵皿を見たとき、十歳という年齢から判断して、こいつはなかなかうまいじゃないか、と思っているわたしがいた。その瞬間、ああ、あのとき十歳だったわたしは、そういうおとなの判断がたまらなく嫌だったのだ、ということに気がついた。年齢から逆算して、価値判断をするおとな。子どもらしく描いたときは喜ぶおとな。それに応じるわたし自身。それが嫌で何とかしておとなを追い越してやりたい、と思っていた十歳。

過去の自分は思いのほか遠い。他者と言ってもいいのかもしれない。ひとつながりの自分だと思っていたものが、まるで途切れているように感じるとき、過去の自分をどう扱ったらいいのだろう。
12歳のフランキーの感情を、12歳の僕を通して見ることは難しいだろう。それでも遠く思い浮かべてみたくなる。


その日


休み。
なぜか、名探偵コナンの映画を観に行く。
休日ということもあってか、日中の回はほぼ満席で驚く。満席の劇場は昨年フィルメックスで台北ストーリーを観た時以来な気がする。コナン映画のお約束が満載で、コナン映画はずいぶん久しぶりに観たけど意外と楽しめた。
『結婚式のメンバー』を少し読む。主人公のフランキーは二章から表記がF・ジャスミンに変わる。それはフランキーの決意による。F・ジャスミンの頑なで、危うげな世界へのまなざしに、なにか悪いことが起こるのではないだろうか、とそわそわしながら読み進めた。


その日


仕事。
公休出勤だった。クソ。
『結婚式のメンバー』を読んだ。
フランキーはなんのメンバーでもない。兄の結婚式という出来事が、彼女が兄と兄の嫁とメンバーとなることへの希望をうむ。しかしそれは叶えられず、彼女の夏は過ぎていく。
フランキーは結婚式のメンバーとなる願いが叶わず、ひとり家出することを企てる。家を後にしようとしたまさにそのとき、寝ていたはずの従兄弟のヘンリーが姿を現す。フランキーはなんとかヘンリーをやり過すが、

ジョン・ヘンリーが引っ込んでから数分待った。そして手探りで裏口のドアに向かい、錠をはずし、外に足を踏み出した。彼女はとても静かに動いたのだが、彼はその音を聞きつけたに違いない。「待ってよ、フランキー!」と彼は必死に叫んだ。「ぼくも行くからさ」

ヘンリーの行動のせいもあり、フランキーの家出は頓挫する。
世界のどこにも所属できないという感情を抱いてフランキーはヘンリーをメンバーに加えようとはしなかった。
ヘンリーは余計なことばかり言う。フランキーの思った通りに行動しない。それは無垢ということでもあるのだろうけども、ようはフランキーにとってヘンリーは厄介でもあったのだ。
ぼくらは、しばしばそういう矛盾しているかのような行動をとる。
世界が自分に対してまったく寛容でないかのように思いながら、自分もまた誰かに対して寛容ではなかったりする。


結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

読書/日記

その日

仕事。
たまたま読んでいた井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』と穂村弘『きっとあの人は眠っているんだよ』の2冊で石原吉郎について同じ文章に触れていた。
本を読んでいるとこういうことがたまにある。誰しも経験があるだろう。
まったく意図したわけではない繋がりが不意に生まれる。
その繋がりを手放してしまうこともあるだろうし、新たな意味を付け加えることもあるだろう。
ぼくは、出来ることなら偶然を偶然として暖かく迎え入れたいと思っているのだけど、一瞬の交差を上手く捉えることが出来ないことの方が多い。
なので、せめて書き残しておくしかできない。
悲しいことだけど、そんなもんだ。


石原吉郎はシベリアでの収容所体験を経て詩人になった。そしてそのときのことを詩にしている。収容所体験にどのくらいの重きを置くかは論じる人によってまちまちだと思うけど、二人の著者はそのことに興味を示す。『きっとあの人の眠っているんだよ』では次のように触れる。

〈あまりに重い現実に対しては言葉が虚しくなる、ということは知っている。では、そのような現実を前にした時、我々は沈黙するしかないのだろうか。石原吉郎の答えはこうだ。〉と続けて石原吉郎の文章をひく。

詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意思が、詩の全体をささえるのである。(「詩の定義」『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫

井坂洋子の本では、冨岡悦子による『パウル・ツェラン石原吉郎』について書かれた箇所で出てくる。

こちらでも石原吉郎の収容所体験に触れる。
石原吉郎とともに収容された囚人たちが作業の行き帰りで隊列を組んで歩くとき、歩調を乱して隊列を見張るロシア兵に撃ち殺されぬよう列の外側へ人を押しやって内側へ入ろうとする。〈「ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる」〉。そんななか石原吉郎が出会った鹿野武一という男は常に外側にいたという。〈このひとりの男が石原に与えたもの、石原が詩人として立った中心部にあるものは、受苦の中のたった一遍の内省かもしれない。〉として、冨岡の著書からの孫引きで引用元がわからないが、次のようにひかれている。

「ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといってもいい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる」

前後の切り取る範囲が若干違うけれど、同じ箇所だ。
(文芸文庫の『石原吉郎散文詩集』を読んでみよう。)
引用する感性というのがあるのだろうか。その文章から書き手がうけとるものも似ている。
穂村弘は次のように書く

世界を沈黙が埋め尽くす時、散文の言葉はもはや機能できない。それが生み出すものは、現実の似姿だからだ。そんな時のために詩がある、というか、石原吉郎にとっては、そこには詩しかなかったのだ。その絶対零度の必然性に痺れる。

井坂洋子はこんな具合。

私はこの本を読みながら、詩でしか向かうことのできない、表現の方法として詩を選ぶしかないという内面に畏れを感じた。

どちらも詩でなければならないということの凄みを感じているようだ。〈絶対零度の必然性〉や〈畏れ〉というのはそういうことだろう。表現者にとって、ある方法が必然であるというのは羨ましいことだったりするのかと思っていた。しかしそう簡単でもないらしい。


その日


仕事。
明日は休みなので嬉しい。
津野海太郎『歩くひとりもの』を読んだ。
歩くこと、ひとりものであること、老いること、といった興味のあることがたくさん盛り込まれていて楽しい。


その日


休み。
本屋さんで『石原吉郎詩文集』を手に取ってみたら、なんのことはない、上の引用文は背表紙にすら引用されているものだった。みんが気になる一節ということだろう。
しかし、意外だったのが近頃読んでいる『パステルナークの白い家』の著者である佐々木幹郎が解説を、書いていた。
こういう風に縁がころころしていくのは楽しい。とはいえ、文芸文庫は高いので買わなかった。そういうところだぞ。

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

読書/日記

その日


仕事。
仕事終わりで、新宿に呑みにいく。
電車の中で佐々木幹郎『パステルナークの白い家』を読む。詩人の余技的な軽いエッセイだと思ったけど、読み進めていくと意外と面白い。旅の話と過去の話。過去と現在。それぞれの出来事に著者は眼差しを向ける。父の思い出。少年たちの様子。それらは互いに影響しあっている。父の思い出が少年たちを見守る著者のなかにある。あるいは逆かもしれない。他人のまなざしは想像するより他ないわけだけど、著者の視点が変化することで、著者自身も捉えているし、豊かな広がりがある。


その日


休み。
新宿の草枕でカレーを食べる。
模索舎には行けなかったので残念。
代わりに、池袋の古本まつりに行く。
池袋の古本祭りは西口公園で行われいた。とても暑い日で、屋外にはとてもじゃないけどいられず、早々に退散して東口の喫茶店「伯爵」に避難(北口より東口の伯爵の方が好きだ)するが、満席で悲惨。
古本まつりでは吉岡実『ムーンドロップ』を購入。


その日


仕事。
昼間は曇っていて、夕方くらいから雨が降った。
穂村弘『きっとあの人は眠っているんだよ』を読んだ。
穂村弘はミステリーが好きらしい。
読書の原体験から地続きで読書をしている感じがしてとても好感が持てる。
それはとても素晴らしいことだ。
わたしなんかは近頃気取って本を読んでいるような気がする。
読書といっても読み方はいろいろある。読んだことについて書くといっても、それも様々だ。
わたしが一番好きなのは原体験を擁護するような読み方であり、書き方だ。
誰かのそのような振る舞いに憧れて、結果だけを真似してしまうのは間違っているのだろう。読んできたものに対してどう振る舞ったかということが、素晴らしいのであって、何を読んできたかということはどうでもいいことだとすら言えるかもしれない。真似をするのであれば、振る舞いを真似したい。客観的にみたときの貧富の差こそあれわたしにも体験はあったのだから。

では気取りはどこから来るのだろう。気取りというのは、誰かに向けてすることではないだろうか。そのことに思い当たるとき、いったいわたしが思い浮かべる眼差しは誰のものなのだろう。「なんのために」という疑問はあまりに簡単に答えが出てしまうし、問いそのものが不毛な場合がほとんどだろう。でも、わたしのような浮ついた奴にはその問いが重しとして必要なのだと思う。なんのために本を読んでいるのだろうか。好きだからだ。

パステルナークの白い家 (りぶるどるしおる)

パステルナークの白い家 (りぶるどるしおる)

読書/日記

その日


仕事。
仕事はとても辛い。
どんな世の中になろうとも、怠け者はダメな人である、とされてしまいそうだ。怠け者はどう転んでも世の中の敵になるのではないだろうか。

ダメな人とされている人がいる。しかし、この人は実はこういう理由があってダメに見えるのだ。とか、ダメの基準が間違っている。などと言う理屈はよくきく。けれど、ダメな人とされている人がダメなまま良しとされることはあるんだろうか。

怠けることが悪いことだと名指されたとき、怠けることで叛旗をひるがえしてやろう。

津野海太郎『歩くひとひもの』
現代詩文庫『堀川正美詩集』を少しづつ読む。

その日


仕事。
現代詩文庫『堀川正美詩集』
穂村弘『きっと、あの人は眠っているんだよ』
少しづつ読む。
穂村弘の本は、読書日記と書かれているが雑誌連載で読書日記風。
引用がとても良い。こういう風に引用できたら素敵だな、と思う。
短い(短すぎる)引用で、それ自体が作品のようで、それは良いことなのかどうか迷いもするけど、表現になっているのだと思う。
そのこととは別に、漫画の引用も面白い。
会話だけを切り取り、ひとつのセリフを一行で行分けして引用するのだけど、こういう引用の仕方はよくあるものなのだろうか。自由詩と定型詩の引用する上での違いを論じたりするあたり、気を使っていることが伺われる。

その日


仕事。
とても、疲れた。
明日は休みなのでたっぷり寝る。


その日


休み。
美容院へ行く。
現代詩文庫『堀川正美詩集』を読んだ。
図書館で佐々木幹郎『パステルナークの白い家』を借りた。書肆山田から出ている「りぶるどるしおる」ってシリーズすごく好き。装丁も収録作もとても好み。


その日


仕事。
明日も朝が早いので早く寝る。
貞久秀紀『雲の行方』をぱらぱら読み直す。やはり面白い。みたものについて、あるいはみたときの感じ方みたいなことについて、書かれているように思っていたけど、見たり、見て感じたりするとき現れる『言葉』にさらわれるようにしてイメージが転がるといえば、いいのか。さらには現れたイメージがただ比喩的なものに終わってしまわずに、そのイメージを捕まえて思考を続けていくときの奇妙さがユーモラスでもあり、楽しい。わたしの語彙が少なくて上手く言えないような気がする。しかし、『雲の行方』も語彙は少ない。簡単に他の人の言葉に託さない姿勢が粘り強さに感じる。とはいえ簡単に真似できることではない。

雲の行方

雲の行方

読書/日記

 

その日

 

仕事。
仕事帰りに、図書館へ行ってそのままご飯を食べに行く。カレーを食べた。
インドカレー
食べ物にあまりこだわりがあるほうではないけれど、食べ物の写真が載っている本はけっこう好きだ。煮卵の作り方みたいなタイトルの小さい本が本屋さんにあって買おうか迷った。

 

 

 

その日

 

休み。
先月の出費がひどかったので今月はあまり出かけないことにしている。
本を読んだり、youtubeで動画をみているうちにあっという間に1日は終わってしまう。
現代詩文庫『谷川俊太郎詩集』と井坂洋子『地に堕ちれば済む』を読む。

現実というのは、言葉ほどは整然としていない。たとえば、舗道ひとつとっても、その表面の凸凹とか、端からひしゃげた雑草がはえていたり、ガソリンがこぼれ落ちたのか黒ずんでいる部分があったり、わけもわからない吐瀉物がこびりついていたり、よく見れば見るほど、とりとめもなく汚れ、汚れているという言葉では言いあらわせぬ蓄積された年月を感じさせられる。「ぼたん」(井坂洋子

 

 

 

その日

 

仕事。
明日は仕事が早いので早く寝なくてはならない。
現代詩文庫『白石かずこ詩集』を読む。
ケンカしていた友人にlineを送ったけど返事がこなかった。こんなことばかりを繰り返してきた人生だったけど、なにも学ばんでいない。認めることも変えることもできないまま歳をとってしまった。

人生は、いろんなことを解決したり、腑に落ちたり、折り合いをつけていくことができるのだと思っているけど、きっと、なにも解決されず腑に落ちることも折り合いをつけることもできないまま抱えていくこともあるんだろう。とても辛いことだろうけども、とても辛い人生というのもあるのだ。

いつか死ぬとき今まで抱えた全ての後悔を思い出すことがなかったとしたら、それは幸せだろうか。

そうは思わない。

 

 


その日

 

仕事。
いろいろ仕事を抱えてとても辛い。
井坂洋子『詩はあなたの隣いる』
現代詩文庫『白石かずこ詩集』
少しずつ読む。



その日

 

 

休み。
いとこの子が来て遊ぶ。
いとこの子はしょっちゅう来る。しかも連れて来るのは、わたしの叔母さんなのでいとこ夫婦ではない。いとこ夫婦は何をしてるんだろうか。日曜日にこどもと遊ぶのはとても幸福なことに思われるけど、そういうことばかりでもないのかもしれない。

ところで、この日記には主に読んだ本を中心に毎日の記録としている。読み返してみると、まるで日々の間に繋がりがなくて驚く。読んだこと同士の関連がまったくないように感じる。関連がなくてはいけないわけではないのだけど、その日とその日がまったく別々に存在しているようだ。わたしは読んだ本についてほとんど忘れてしまうのだけど、読んだばかりの本は忘れ具合でいえば、いちばん忘れていない状態にある。この理屈で言えば
昨日読んだ本に自覚する限りでは1番影響を受けていることになるだろう。実際そうで、今日読むことは昨日読んだことに濃く影響を受けている。しかし、そのことが日記を読み返してもわからないとなると、実は影響を受けていないということなのか、それとも書き残すことが出来なかったのかということになるだろうけど、どうだろう。

本日は、現代詩文庫『白石かずこ詩集』と穂村弘『きっとあの人は眠っているんだの』を読んだ。

昨日の晩、お風呂でスガシカオを聴いていてアストライドという曲がとても良かった。語りみたいだけどリズムにのってるゆらゆらした歌い方がとてもカッコいい。同曲が収録されているアルバムのジャケットはクレーンゲームのわきにスガシカオが座っている写真なのだけど、スガシカオは隅っこに写っていてすこし不思議な感じ。このジャケットはインベカヲリという方が撮ったもので、『きっとあの人は‥‥』のなかにインベカヲリの写真集に触れた章があり気になってネット検索したところ、そのことを知った。

 

 

 

 

読書/日記

その日


休み。
天気が良かったので外で本を読んだ。
いとこのこどもがきて遊ぶ。
貞久秀紀『雲の行方』と『具現』を読む。

回り道とか寄り道というような文章がある。たとえば最近読んでいる後藤明生の文章は寄り道のように感じる。本筋があって、話がだんだんと横道にそれていくような感じ。寄り道自体が目的になっているように感じたとしても、それはあくまで寄り道である限りにおいて終着点へと向かっていく文章として読める。しかし『雲の行方』は寄り道ではなくて、道のないところを一歩ずつ歩んでいくように読めた。いやむしろその場所で足踏みをしているようですらあった。あとがきでも同じようなことを書いていた。足踏みというか行ったり来たりの感覚は断片形式と関係があるように思える。


その日


仕事。
とても疲れた。
現代詩文庫『谷川俊太郎詩集』を少し読む。
津野海太郎『歩くひとりもの』も少し読む。
『歩くひとりもの』は最近読んでいる坪内祐三『古くさいぞ私は』のなかに出てきたので図書館で借りてきた。
ところでこの日記のようなものは毎日書いているのだけど坪内祐三の『古くさいぞ私は』について一言も書いていないのはどういうわけなのだろうか。ブログとして更新する際には、すべての日を〈その日〉としているが下書きには日付を入れているし、下書きは保存している。見返して見ても、『古くさいぞ私は』については一言も触れていない。もちろん書いていないことはたくさんあるのだけども、読書日記というていで書いていて、それはないだろうと私に思う。


その日


仕事。
とてもとても疲れた。
谷川俊太郎詩集』を読む。『旅』はとても好きだ。わたしは書いたりする人ではないのに、書くことについて書かれた詩に感動するのはなぜなのだろう。あるいはエッセイ『世界へ!』もまた詩を書くことについてのものだが、これも感動などするのはなぜだろう。後者についてはこの文章を書いて以降の作者の歩みを思うと、とても力強く感じ、それが原因なのかもなどと思うけれども、前者についてはなんとも言えない。

今日は日が出ていて、暖かいようにも感じたし、寒いようにも感じた。過ごしやすい一日だったと言えるかもしれない。
天気のことを思い出し、記録するとき晴れや雨と書き込むわけだけど、なんとも言えない日もあるのだろう。もちろん晴れとはどのような状態を指し曇りとはどのような状態を指すといった定義は存在する。とはいえわたしが天気について記録するとき、空の状態だけではなく、風や気温、あるいは屋内にいたか屋外にいたかで天気を思い出したときの印象そのものも変わる。主観ということか。天気は主観ではないだろう。気象、というと科学的な感じがする。自然主義

駅のホームにわたしはいる。乗り換えを間違えてしまい長い時間電車を待っている。ホームには屋根があって影をつくっている。しかし壁はないので風が吹き込む。退屈と後悔の時間に吹く風は冷たい。線路側の道を歩く犬の毛並みは陽を浴びて輝いているのに。わたしは寒い。

天気が客観的な事実として、晴れや曇り、あるいは気温が何度であるとか、風速がいくらであるとか、定められていることは、ホームで電車を待つときどうしようもなく寒がってしまうわたしにとって、希望なのだと思いたい。
今日のお昼。後藤明生の『小説--いかに読み、いかに書くか』を読んでいて、田山花袋の『蒲団』における描写について書いた文章を思い出す。