悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

メロウな日々への追憶と停滞

2018/11/06

三木卓『K』を読む。
語り手である〈ぼく〉と妻であるKとの数々の出来事が書かれる。思い出される出来事の最中で〈ぼく〉が思ったことと、語っている時点での思いとのバランスがとても好み。過去の出来事を書きつつ、その時のKだけでなく〈ぼく〉にたいする解釈も生まれているようだし、その解釈がすっきりと断定してしまうものでないことがとても良い。微妙なことを書くうえでの正しい姿に思える。これだけすっきりとやさしいことばで微妙なことを微妙なまま、適切な距離感をたもった一人称の素晴らしいこと。

 

Kは東北から出てくる。

勉強に励み東京女子大に入学するのだけど、なかなかうまくいかない。

「わたし、卒業式のとき、大失敗したの。全員着物姿だったのに、わたしだけドレスだった。気づいたらそうだったの。とてもみじめな思いをしたので、今は卒業写真を見るものいや」

「そりゃまた、どうして? 仲間うちのはなしで見当がつきそうなものじゃないか」

「そんな。うまくいかなったのよ」


大学生のとき

わたしはちっとも友だちがいなくて、街をぶらぶら歩いたり(ひとりで「ふらっと」お店に入ることもできないくらい惨めな気分だったし自意識過剰だったので、文字通りぶらぶら歩いていた。つまり自意識とは濁点なのであり、促音はそこからの軽やかな跳躍だ!)図書館で一冊も読むことなく返すことになる本をカバンにぱんぱんにいれて持ち帰ったりしていたのだけど、それでもテスト前になれば誰かノートを借りて生協わきにあるコピー機に押し込んでいた。

知り合いの場合

彼はまじめに大学の授業にでていて、あるとき夜遅くまで電話をしていたときに、明日も早いから寝なきゃ、というからサボっちゃえばいいのにと返すと、テストがわからなくなっちゃうという。そしたら誰かにノートを借りればいいよとわたしは言った。誰が貸してくれるの、なんて返事がくるとは思わなかった。

ノートの行方

あるいは、みんなが授業をサボって、どこかへ行ってしまった教室でせっせとノートをとってはテスト前になると誰もにそれを貸している人がいた。べつに頼まれてそんなことをしていたわけではなかったのだろうけど、いつのまにか彼はテスト前にノートを貸してくれる人として認識されていたし、「ノート貸してよ」とだけ声をかけられる学生生活とそれすらも声をかけられない学生生活とどちらがいいかなんて簡単にいうことはできない。

 


2018/11/08

メカス『リトアニアへの旅の追憶』を観に行く。近頃めっきり映画を観る気力がなくなっていたのだけど、面白かった。以前にもソフトで観ているはずなのに、第3部の記憶がさっぱりなかった。でも、一番好きなのは前に観たときと一緒で鎌を振り回しているシーン。とても楽しそう。

 

映像はぶつぶつとしていて、ブレていたり急に速くなったりと滑らかではない。思い出ということなのだろうか、と思う。思い出を頭に思い浮かべるときはこんな感じのような気もする。映像は思い出というより記録と言ったほうがすっきりするだろうから変な話だ。でも、思い出だけでつくられた現実といえばいいか、というようなセリフがあったし、思い出ということについて考えてしまう。この映画の場合、思い出というのは、旅つまり映像よりも以前にあるはずだ。映像が思い出のフリをするとき、想起されるのは映像よりも以前の出来事としてある思い出なんだろう。
にもかかわらず、先に書いた、鎌を振りましているシーンや、いい大人になった親戚たちが古い農具などで遊んでいるシーンの映像があんまりぶつぶつしていないのは、単純に動き回っている人たちが面白いからだろうか、と思うと嬉しくなる。


松浦理英子ナチュラル・ウーマン』を読む。

 


2018/11/09

日記を書く気力がない。
松尾潔のメロウな日々』をすこし読む。
Kindle大島弓子のまんがをたくさん買ってしまう。どうせ読まないのに、と細く切った紙に書いておでこに貼ってみる。


2018/11/10

日記を書く気力がないので、人の書いた日記を少し読む。武田百合子富士日記 上』。『更級日記』。


『更科日記』は角川文庫から出ているビギナーズ・クラシックというシリーズの一冊なのだけど、kindleストアでセールのときに買った。章ごとに訳文、原文、解説という順番で書かれていて、教養のないわたしでも楽しいし、嬉しい。kindleアプリは仕事中にコソコソ本を読むのに最適なので、使っているのだけど、ぱらぱら読むという本の楽しみのうちの一つについてはまったく向かない。


(ここ数日はあまり天気のことなど書いていない。本もあまり読んでいないし、何をしていたのかわからない。もっと見たものや起こったこと天気のことを書きたい。)


2018/11/11

休み。日記を書くのも本を読むのもめんどう。人と会って一緒にあるいたりしたい。『松尾潔のメロウな日々』、斎藤環『生き延びるためのラカン』を少しずつ読む。
松尾潔のメロウな日々』はR&Bのライターでいまは音楽プロデューサーをしている著者が90年代の活動を振り返る形で書かれたエッセイが収録されている。R&Bはぜんぜんわからないのだけど、楽しい。過去を振り返る、その振り返り方のひとつの素晴らしい形だと思う。ときおり差し込まれる甘い文言にうっとりするのも悪くないはず。


(なにをするにもむなしい


(わたしはたった数日前の日記でも、読み返してみると書かれた「わたし」との距離を感じるわけだけど、それはわたしやわたしの出来事をじゅうぶんに書き得なかったなどと言うことではなく、「わたし」への羨望としてある。


 

読書日記じゃない日記

11/01


細長い雲がたぶん東西に伸びていて、珍しい感じがしたので写真に撮ろうと思ったけどやめて、ラジオを聴いていたらその雲のことを話していた。遠いところでもみえていたらしい。ネットでも話題になっていた。写真に撮るのをやめたのは、誰かに話すことをやめたのとほとんど同じに意味だったのだけど、多くの人が写真に撮り、誰かに話すことにしたのだ。自分の経験したことを人に話したりして共有するのはどういうことなのだろうか。ラジオでは、なんだか人々と共有することは良いことのようだった。こっちでも見えますよ、見えてます、不思議な雲が見えましたよ。
別にひとりじめをしようとしたわけではないとはいえ、日の当たらない感情を見た気がした。

 


11/02


遊ぶ予定が急きょ中止。空虚な気分になる。空虚とは言いすぎかも知れない。
だいたいのことについて言いすぎたという気分になる。
もちろん、誰かと話をするときわたしはいつも余計なことを言いすぎたのではないだろうかとあとあと後悔するのだけど、それだけではなくて、悲しいというにしろ嬉しいというにしろ、いや、面白いとか辛いとかとにかく今どんな気分?と誰かに聞かれたとしてなんと答えてもしっくりこない。
それは別により繊細なことばが必要だということではないと思う。
悲しいと思うわたしの悲しさはことばにするほどのものではないということで、なにも話さないことにおいてのみ、自分自身の中途半端さやあいまいさ、ぼんやりとしたことに耐えられるのだ。
きっと耐えなくてもいい。わたしはもっと中途半端であいまいでぼんやりとして、誰某と区別がつかなくなりたいと思うこともあるのだし、どちらがいいというわけでもない。
なにか話しだすと結論めいた方向へ勝手に歩みだすものだけど、ある意味ではなにも考えていないからこそ歩けるということでもあるはずで、まあぼんやりしている間に一日は過ぎてしまう。


11/03


休み。一日家にいる。本など少し読む。
読書日記などと言っているので、読書日記を書かなくてはという気になるのだけども、はたして読書日記とはなんなのか。一冊ごとに読んだものの感想を書いたらいいのか、あるいはただ読んだ本のリストを書けばいいのか。
〜べきか、という問いはおかしくて、誰に強制されるものでもないのだから、勝手にすればいいといわれればもちろんそうなのだけど。


バケツに水をためてそこに月を浮かべたい。ここしばらくそんなことを思っていて、何度か実行してみるもうまくいかない。夜空は晴れていたものの、月などなくバケツのなかをのぞいてみても真っ黒で、これではかりに月がでていてもまったく見えないのではないだろうか。

ふと思ったが、レッスンというのはことばは良い。練習でも良いのだけど、レッスンの「レッ」がlet’s を思いおこさせるので明るい気がする。
人と上手に話すレッスン。規則正しく寝て規則正しく起きるレッスン。余計なことを喋らないレッスン。残念ながら、その場その場でレッスンなく正しい振る舞いをすることはできない。バケツに水をためてそこに月を浮かべるというのは感傷なのだけど、感傷すらレッスンが必要なのかもしれない。


11/04

 

むかしから読書の楽しみといわれてきたことの中身を考えてみると、その大きな部分は、長い文章なり、厚い書物なりの中に、自分の楽しめる〈断片〉を発見し、くり返し味わうことの充実感を指していたといえます。すでに述べたように、長い作品は一時に全文を頭に入れることはできません。読書の途中における〈現在〉は、常に目の前にあることばです。〈全体〉はダイジェストされたあらすじとして捉えられているとしても、表現された原文そのものを味わうことができるのは、目の前のページであり、そこに展開していることばです。

『文章表現四〇〇字からのレッスン』梅田卓夫(ちくま学芸文庫


ちかごろ、長い小説をどう読んだものかとあれこれ思っていたのだけど、腑に落ちる一文。


 

読書日記

2018/10/28


昨日は久しぶりに福生へ行く。イケてる店員がはいていたイケてるパンツを買う。タイ料理を食べる。バッティングセンターへも行く。マシーンから飛んでくるボールは毎回、上下左右ちょっとずつ違うところへたどり着くのに、バットを振る位置を変えている意識がなくても当たるのは不思議だ。自転車に乗るとき意識しなくても、目線の方向へと勝手に進んでいくときと同じようような不思議さがある。

 


文章を書きたいという気持ちもあるいっぽうで頭をつかうのは面倒だ。本を読むほうが楽に思う。まさか、本を読むことが頭を使わないということではないだろうから、せいかくには文字列に視線をはわせること、とでも言ったほうがいいかもしれない。たしかに視線をはわせるというか、文字に沿って目線が流れていくことに心地よさを感じている。


北村太郎『ぼくの現代詩入門』は、〈1 現代詩とは何か〉〈2 若い荒地の詩〉〈3 若い現代の詩〉〈4 詩の作り方のヒント〉の四章立て。若い現代の詩といっても、1982年にでた本なので、取りあげられるのは荒川洋治平出隆といった面々でわたしなんかからすると若くないような気がするのでおかしい。


〈4 詩の作り方のヒント〉より

人生経験が浅いよりも深いほうが詩を書くうえに役立つにきまっています。第一、推敲するってこと自体、人生経験を深める行為なんですよ。それ、どういうことかというと、手っとり早くいえば推敲って、自己批評でしょ? どこまでも冷静に、全身全霊で自分に迫るってことでしょ? これ以上に意味のある人生経験なんて、ほとんどないじゃないですか。


人生経験が浅いことを気にしているので嬉しくなるようなことだ。あるいは、人生において語るにたりる経験を得ることの難しさと同じくらい、推敲そして自己批評は難しいことなのか。

 


2018/10/29

書物を朗読する時には二行を同時に読むことはできない 。行を下から上へ読むこともできない 。出来るのは 、繰り返し読むことだけである 。読んでいるのが自分なのか他人なのか分からなくなるまで 、繰り返し読む 。

多和田葉子『飛魂』の一節。自分なのか他人なのか分からなくなるまで、というのが良い。誰か別の人の考えを知って、みずからを客観的にみるだとか、そんなことはどうでもよくて、誰か別の人そのものになりたいのだ。そんな読書を待望している。書くこともそうあれ。

 


2018/10/31


仕事は、うまくいっていない気がする。
人とのつながりをもとめている。ないわけではないはずなのに。ナイーブすぎる。肉体とあまりに離れたところで書いているからなのかもしれない。

 

清潔なシャツ

永遠の夏の川辺は今年も訪れず、夜はすっかり肌寒くなってきた。冬の空気は密度が薄いようで清潔に思える。わたしにとって清潔さとは数が少ないことなのだと気づく。清潔であることは良いことなのだろうか。わたしは好きだ。例えば清潔なシャツはどうだろう。


〈お気に入りのシャツに袖通して〉(I Gotta Go/SALU)。
〈ベランダには枯れた花/そばにおいでよ新しいシャツもあるけれど〉(シャツを洗えば/くるりユーミン)。

 

セーラム・アラスカ・メンソールのこと

冬で思いだす。むかしセーラム・アラスカ・メンソールというタバコがあった。ちっともタバコの味がしなくてメンソールがキツい。パッケージが真っ白で冬になると吸いたくなるのだけど、寒い日に吸うと胸がスースーして胸の中が外に開かれるみたいになる。


まだセーラム・アラスカ・メンソールがコンビニで売っていたころ、遠い北極圏の街から引っ越してきたシロクマがセーラム・アラスカ・メンソールを吸って故郷を懐かしく思うという小説を書いたことがある。いまでは小説なんてちっとも書かなくなったけど、このブログも嘘ばかり書いているのだから小説みたいなものだろうきっと。いや、小説にはホントのことが書いてあるんだってさ。シロクマが耳打ちしたことを覚えている。シロクマは故郷に戻ってもこちらのことを思い出せるようにと、こちらで覚えたセーラム・アラスカ・メンソールをカートンで買って帰っていくのだけど、北極圏の街でシロクマはタバコ吸ったりしないのだし、あまっているようなら譲ってほしい。
 

読書日記

2018/10/20


仕事。どんな天気だったろうか。あまり外に出なかったのだとおもう。寒さは感じた。会社に鍵を忘れてしまいとりにもどる。
栗原裕一郎/若田部昌澄『本当の経済の話をしよう』、北村太郎『ぼくの現代詩入門』を読む。


栗原裕一郎/若田部昌澄『本当の経済の話をしよう』は何年か前に途中まで読んだもの。ところどころ線が引いてあったけど、よくわかっていなかったのだと思う。今回も同様。経済学で重要なのだという「インセンティブ」「トレード・オフ」「トレード」「マネー」の四つの概念を例をあげたりしながら説明している。わかった気がしていたけれど、いざ振り返ってみるとよくわからない。
デフレはよくない、ということと、資本主義はゼロサムではないらしいということはわかった。たしかに〈しゃくな金持ちども〉(矢沢永吉)な気分はわたしにもあって、あいつらが徳をしているから、わたしが辛いのだなどと思っているふしはあるかもしれない。
他にもわたしがなんとなく、こうだろう、と思っていることが実は違いますよというようなことが書かれているのだけれど、その根拠について理解が追いつかないといった感じ。

 


2018/10/21


幾たびの恋愛もまいど、違うなあ、と思うなら、もう恋愛は違うということでよいのではないか。


こんな国は捨てて空を突き抜けて大気圏に突入無重力でparty 船出-new contry(feat.田我流) /QN


休み。家にいる。昼過ぎに従兄弟のこどもが遊びにきたので遊ぶ。
スカイプで読書会をする。千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』。ホントは読書会などといえたものではないとはいえ、生活する上で少ないながらもの慰めだ。いや励ましだ。今後も続けば良い。
竹村和子フェミニズム』、『現代詩文庫45 加藤郁乎詩集』を少しずつ読む。


2018/10/22


恋人がいて家族がいて嗜好は異なるとはいえいっしょに本を読んでくれる人がいてもなお、さびしいなどと思うとすれば、その想念が間違っているか、さもなければ一生解決などしないだろうに。
竹村和子フェミニズム』を読み終える。精神分析の話がまざりはじめてからさっぱりわからない。

 


2018/10/23


仕事。晴れ。いや曇ったり晴れたり。
『現代詩文庫45 加藤郁乎詩集』を読む。
ちかごろ眠る前に武田百合子富士日記 上』を少しづつ読んでいる。
『現代詩文庫45 加藤郁乎詩集』


武田百合子の日記に職人が出てくる。

工事の人たちにスイカを買って食後に出す。工事の人たちは、十時に一回、昼食後に一回、三時に一回、きちんと必ず休息する。休息するときは、大きな松の木の根元や軒下に新聞紙を敷いて、真直ぐに仰向けになり、顔に手拭をかけて死体のようなって全員眠りこける。そして二十分ぐらい経つと急に起きて、いきなり働きだす。 


いぜん、わたしの知り合いに植木屋がいて、植木屋のおじさんは誰某のお宅に行くと「奥さん、奥さん」と言う。すると奥さんが出てくる。奥さんは田舎のご令嬢だけども、私はバッグなんか買うくらいならお庭に木とか花を植えたいの、などと言う人でたびたび植木屋のおじさんを呼んではあの木をこっちとかあっちとか、指示する。おじさんは奥さんはセンスの良い人だよと言っていた。庭のセンスということなのだろう。
奥さん、という言いかたはそのうち無くなりそうな気がする。いまでもほとんど消えかかっているかもしれない。
それともわたしとはぜんぜん縁のないところで「奥さん、奥さん」といったり、いい合ったりしている人たちがいるのだろうか。


(この話はヘンで、本当の話がだとしたら、わたしがどこにいるのかわからない。嘘ではない、と言いたいところだけど、嘘っぽい。)

 

 

 2018/10/25


昨日は、飲みに行く。
晴れている。ちかごろ、ずっと良い夜ばかり続いている。明るくて、空が高い。逃亡前夜といった趣き。夜歩いてみても、ちっとも良い夜を楽しむことができないので、明日逃亡するための準備をしているうちに更ける。
逃亡とは、逃亡前夜のための方便にすぎないのかもしれない。「明日」の朝、わたしたちは逃亡したりしないとしたって準備にせいを出すことで存在しない可能性を寝るまでのわずかな時間に夢みるのだ。眠ってしまえば夢を見るまでもなく朝はきてしまうのだし。


北村太郎『ぼくの現代詩入門』、『現代詩文庫46 石垣りん詩集』を少しづつ読む。
生活と生活する人たちのことを想いかけて、それはまったくわたしのことなのであって誰に対して共感し流す涙のすべては、わたしへの慰めなのだと思った。


(一日あたりの日記を書く量が減っている。ほんの少し仕事がいそがしいためで、本を読む時間も減っているため読書日記に書くこともない。)


(いそがしくて、時間がなく、こころに余裕がないときの文章の気持ち悪さをこころに留めておきたい。ひごろからなにも考えていないとはいえ。)

 

書くだけが絶景の狂おしいさなかには、待ったをかける自己懲罰的な鞭がからみ付いてきたりするが、それを振り切ってマーヤの闇を行くだけ行くしかないのだ。    荒廃郷にて /加藤郁乎

読書日記

2018/10/16


仕事の辛さを感じる一日。
帰宅後、今村夏子『こちらあみ子』を読む。
とても良い。
三人称だけど、あみ子にとても近い視点で書かれている。あみ子が理解していないことを読み手はきっと想像することができる。けれども、文章では、あみ子が理解していないのと同じように多くのことがあいまいなようにも思う。そのバランスが、あみ子の愛らしさとともに距離のある温かみを感じる理由かもしれない。

あの日の夕方から四ヶ月が経って、気づけば校庭の蛇口から出る水がよく冷えていておいしい。


季節感を表すのにこうていから出る水というのはちょっと独特な感じ。不思議。


2018/10/18


前日は、性と欲望の悪夢に襲われて、読書捗らず。
本日、休み。一日家にいる。図書館で何冊か借りる。


今村夏子『こちらあみ子』、井坂洋子『マーマーレード・デイズ』を読み終える。若田部昌澄/栗原裕一郎『本当の経済の話をしよう』を少し読む。
今村夏子『こちらあみ子』は「ピクニック」もとても良かった。


井坂洋子『マーマーレード・デイズ』も良かった。書いてあることについて、そうだよなあ、という気分になる。
「朝」という一編。散文詩。〈また私のいちばんいやな時間がやってきた。さっきまで眠っているようだったのに、早起きのヒヨドリの鳴き声で、こちらまで起こされてしまったのだ。〉とはじまる。仕事へ行くため電車に乗るまでが語られる。

 

いつもだったら、もう少し眠っておこうと毛布をかぶるのだけれど、今日はそんな気にもなれず、仕方ないからお湯を沸かし、紅茶をいれる。これが休日の朝だったらどんなにいいだろう。朝のもうろうの気に包まれて、ただ五感ばかりが一日の始まりのほうを向き、うまれたての触手をのばしているーー。でも、ふだんの日の朝は、最初っからそんなふくらみが奪われている。


共感するという意味での良さ。

 


仕事の日の朝はたいていうんざりした気持ちになる。ひどいときは絶望的で、すべてのことに後悔しながらベッドから這い出す。わりかし調子の良いときは、感情が無で淡々と朝の必要事項をこなせるとき。
世の中には、もっと希望に満ちた朝をむかえる人もいるのだろうか。活力にあふれて「がんばるぞっ」とちいさい「っ」が入るような、弾むような元気いっぱい。せめて休みの日くらいはそんな風に過ごしたいと思うのだけど、いつも寝すぎてしまう。


朝は嫌な気持ちなって仕方がないのだけど、ほんとうは朝のほうが好き。夜になっても遊びつづけた人たちとともに消えてなくなった世のなかで、陽の光を浴びたりしたらきっと良いと思う。

 

 

今夜俺は歩いて帰れるだけの酒を飲み/そして潰れたfriendsを跨いで振り返る/片側だけlightが灯るclubの朝方のノリを遠くから眺める

C.O.S.A×KID FRESINO『LOVE』


日本語ラップを聴いていると「やることやってく」系の詞というのがあることに気づく。ストイックに研鑽していくような。このフレーズは、もっとやわらかい雰囲気があって好き。

 

 


2018/10/19


仕事。
本など読まず寝た、のだろう。


 
(このブログは実際の日記に少し手を加えて公開しているのだけど、なんだか、元の日記の「わたし」とブログの「わたし」のあいだにどんどん差があらわれてきたように思う

わたしとは何かと考えても仕方がないとはいえ、もはや別人のように思える。)

 

 

 

 


 

読書日記

2018/10/14

 

本日は新宿へ。チャイナムーン。


新宿のブックオフで本を数冊購入。
模索舎へ行くも開店時間を間違える。


高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』を読む。北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』もすこし読む。

『さようなら、ギャングたち』を読むのは久しぶり。かなり好きな作品だったはず。ときおりジーンと来るものがあったけど、前回にどんなことを思ったのかまったく思い出せない。

 

わたしはむずかしことばがきらいだ。
むずかしいことばで書かれたものを読むと、とても悲しくなる。なかなかわからないのだ。
むずかしいことばがきらいなのに、わたしもまた時々むずかしいことばを使う。本当に悲しい。

『さようなら、ギャングたち』「第二部 詩の学校 」より。


わたしの場合は、なかなか、ではなくてまったくわからない。この文はある種カマトトなのだろうけれど、わたしは本当に悲しい。


解説で加藤典洋は第二部を面白くないと書いている。その訳を

言葉の問題が面白く書かれようとしているからだと思う。いろんな人がきて、詩の学校の教師であるわたしに苦しい問いを差しだす。でも、彼はそれに答えられない。むろんそれは答えられるような問いではないのだが、そうだとしても、この先生は、あっさり、答えられない、という答えを出す。それがなんだか、わたしなどには、安心してらあ、と見える。面白く書かれているところが、面白くないのだ。


と書く。高橋源一郎は、この小説のあとはこの第二部のようなものを多く書いていったのかもしれない。

 

 

ぼくの女性詩人ノート
白石公子についての章。
スケバンだったしーちゃん、という作品をとりあげる。著者が特に良いという部分。


〈寝るたびに死ぬ練習して/少しずつ完全にしていく/あたしらの秩序〉


わたしも好きと思う。

 


2018/10/15


仕事。まったく気ののらない一日。くもっていたし、雨もふっていた。職場にたくさんのカメムシがいて、休みまえに虫が寄らなくなるというスプレーを窓にふいておいたら、本日、たくさんのカメムシが地面でのたうちまわっていた。ひっくりかえって足だけもぞもぞと動かしている。


もうダメだと、たち止まりうずくまってしまいそうになりながらも、もぞもぞと這いまわるような文章が好きだ。と書いてみて、それがどういう文章なのかわからない。でもきっと好きだと思うし、そういう文章に遭遇したら、わかると思う。


いろいろなジャンル、方向性、の本を読みたい気持ちで、それはきっと前向きな気持ちだから良い傾向のはずだけども、いちにちなにを読もうかと思いめぐらせていたら、あれも読めぬこれも読めぬと、できないことばかり思いついて気が沈んだ。くもっていたし、雨もふっていたとはいえ。


北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』を読み終える。松本圭二の詩集工都を少し読む。
 

読書日記

2018/10/09


仕事。たいへん忙しい。病気でひとり辞めることになり、その分の仕事が降りそそぐことになった。今日や明日、まあ明後日くらいはたぶん大丈夫。その次の日くらいから暗い気分になりそう。しばらくサボりもせず働いているので、仕事中に必死に働くなんて時間の無駄なんじゃないかと思えてくる。
帰宅後、『現代詩文庫44 三木卓詩集』を少し読む。

 


2018/10/10


仕事。忙しい。今月はずっと忙しいかもしれない。辛い気持ちになる。壁だとしよう。この忙しさが壁だとして、乗り越えられないんじゃないかと憂鬱な気分になる。いっぽうで実は簡単に乗り越えてしまうであろうことも知っている。ほんとうに恐ろしいのは、乗り越えたと思った壁の先になにがあるわけでもないということだ。壁なんて嘘で、どこまでも見えはしなくても平坦なのだ。行きつく先はどのみち死だとして、そこさえくすんで見えたとして、至るまでに色彩を感じないことが、気を沈ませる。だいたいたいして忙しくないのだし、あまりに体力がないように思う。
帰宅後、三木卓詩集を読む。それと北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』を少し読む。


ぼくにとって三木卓と街を歩くこと、これは新しい次元の経緯を手に入れることなのだった。二人の失業の時期が重なっていた頃や一緒にアルバイトをしていた頃、ぼくらはよく歩きまわったものだったが、そのたびんいぼくはかれによって世界が拡大する感覚にひたされつつまれていた。ぼくらの散策に特別の仕組みがあるわけではない。街並を通り、古本屋をひやかし、喫茶店で腰をおろす、その程度のことだったが、かれと歩いていると見なれた空間が新しい表情をもちはじめる。街のかたち、ひとびとの仕草、いろいろな物たちへのかれのちょっとっした発言によって眼の前の世界は再組織され、そのメタモルフォーゼの渦のかにいつの間にかぼくは吸いよせられる。(アンゲルス・ノーヴス 三木卓によせて/ 久保覚


わたしも街を歩きたい。歩きたいといつも思っているけど「誰か」と歩くなんて考えもしなかった。いや、誰かと歩いたこともあったし、最近も鎌倉を歩いたりしたわけだけど、それでもそんなことしたことないような気がするのは、今夜のせいなのか。あるいは別のことのためなのか。

 


2018/10/11


仕事は辛いし、やる気ができない。本日は残業代もつかないのだとか。
帰宅後、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』と北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』を少しづつ読む。
『ぼくの女性詩人ノート』より、川田絢音について書かれた章。
〈人はなぜ詩を書くのでしょうか〉とはじまる。
〈ぼくの場合、或る感情というのは、たいてい〈悲しみ〉です。〉
わたしは悲しいことをうまく言葉にすることが出来ないけれど、日々は悲しい感情であふれているので、引用の少し後に、
〈人間は根が暗いっていう本性から逃れようったって、そりゃムリだよ。ネアカなんて嘘さ。ネクラこそ、人間の輝かしい本性なんだ。人間は、ぜったいネクラであるべきなんだ‥‥‥〉
と明るいような口ぶりで書かれていて、うれしくなる。

 


2018/10/12


まったく憂鬱。夜、霧がかかっていた。早く夜がきたよう。
北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』をすこし読む。すこししか読まないからぜんぜん読みおわらない。つまんないと思った本は途中でやめてさっさと次の本を読んだほうがいいですよ、と人には言うけれど、わたしはいつまでも読んでる。つまらないわけじゃないけど。