悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記3/31

3/31

土曜日、日曜日と久しぶりの連休で街へ出かける。
よく歩く。
本日の夕方に歩いていたら、陽はすっかり沈んでいるのに西のほうはまだ明るく東のほうはすでに暗くなっていた。ちょうど間にいるようでいつまでも間を歩いていたいと思う。
たしかに休日の日は暮れないほうが良い。


本日の夕方はひとりで歩いていた。昨日はSと歩いた。何件か古本屋へ行き、三鷹にできた新しいお店へも足を運ぶ。よく吟味して四冊買ったものの、家に帰ってみたら二冊は持っていることに気づいた。
古本屋へ行く予定ではなかったため、買おうか迷ったなかで安いものを買ったのだけど、そういう買い方はよくない気もする。ある程度予算を決めて気合を入れてそれで行ったほうが良い。とはいえそれはいつも思うことだし、計画的に本を買うような生活はしていないのでそういうものなのだろう。


最近はあまり街へ行かないのでたまに行くと人がたくさんいて驚く。
わたしは人ばかりみてしまうたちで、勝手になにか読み取ったりする。生活とか人生とか。べつにそういうことをするのが好きなわけではない。むしろ別のものに目をむけてなにかを感じ取ったり考えたりするほうが豊かなような気がする。

なんというか、例えば汚れた靴を履いて出かけてしまったとき、靴が汚れていることがとても気になってしまい、人から、あの人は汚れた靴を履いているねなどと思われたらどうしようと考えてしまう。そんなとき、通りすがる人々の靴に目をやって、ああ他の人も自分と同じくらい汚れているんだな、とか、やはり自分だけ汚れているどうしようとなったりする。このことは靴に限らず、わたしは自分の気にしている部分をつい見てしまうのだろうなとなんとなく思っている。

日記3/27

3/27

一週間くらい前に調子を崩してから生活のテンポもおかしくなってしまったよう。
レイモンド・カーヴァーの「書くことについて」というエッセイのなか、〈アイザック・ディネーセンはこう言った。私は、希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます、と。〉という一文があり良いと思う。
生活をしていくためには毎日なにかをちょっとずつするのが大事なんじゃないかしら。あまり気負ったりせずに。

カーヴァーは良いと思った言葉について〈いつか私はその言葉を小さなカードに書いて、机の横の壁に貼っておこうと思う。〉と書く。
このエッセイでは他にもいくつか壁に貼っておくべき言葉が紹介される。

カーヴァーといえば村上春樹で、このエッセイも訳している。わたしはあまり村上春樹の良い読者ではないのだけど、〈スタイルという言葉が、私の言っていることに近いかもしれない。でもただスタイルという一言で括ってしまえるものではない。それはその作家自身の手による、紛れもない署名なのだ。その署名は彼の書くすべての文章に含まれている。そこは彼の世界であり、他の誰の世界でもない。それは、一人の作家を他の作家から区別する物事のひとつである。〉とかはまるで村上春樹自身の文章みたいと思う。

どちらかといえば引き出しの中に閉まっておきたいような文章のほうが惹かれるかもしれない。
思いつくものはないのだけどブログへの引用もそういうものばかりにしようか。ここは引き出しではないはずなのに、実はのび太の部屋の引き出し的な、隠したつもりが実は繋がっているというふうな、そういう素ぶり。


ちかごろぽろぽろ読んでいた松浦理英子『優しい去勢のために』を読み終える。
〈今となってはわれわれは欲望の生成に関して言を弄することができる。〈個〉というかたちで在らしめられていることへの異議申し立てとして〈欲望〉が発生する。そのようにして発生した〈欲望〉は〈個〉から〈全〉に向かう架空の道を切り拓く役割を負わされている。したがって〈欲望〉は〈個〉において生じた途端に〈個〉のスケールを遥かに越えて拡がり出て行く。そうしたものである〈欲望〉を完全に引き受ける〈個〉が存在する道理はない。〉
欲望の処方箋/松浦理英子


本日は、仕事終わりに図書館へ寄り読まない本を何冊か借りる。
ミステリーが読みたい気分で、陳浩基『13・67』(天野健太郎訳)を借りる。読み始めたら面白そうなので良かった。
とはいえ、やっぱりあまり体調がよくないせいなのか、ここ何日か朝起きるたびに一体何曜日なのかわからなくて軽くパニックな感じになるので、ちょこっと日記を書いて早く寝ること。

日記3/24

3/24

体調が悪いと弱気になる。
弱気なときのほうがまわりにやさしくなれるというか、怒ったりいらだったりすることにも体力がいるのだなと思う。自分のことで手一杯でまわりにたいする反応が鈍くなっているということか。でもそれではわたしがいだく反応の多くがいやりいらだちばかりのようにもきこえる。
弱気なときは繋げる必要のない関係を繋げようとしたりしてしまい、良くない。


笙野頼子『レストレス・ドリーム』を読んだ。
なにかわけのわからないものについて書かれているけど、概念や抽象的なものではない空想やそれこそ夢についての文書をぼんやりした頭で読むことは嫌いではない。
悪夢のなかで戦い続けるという変な話。主人公を攻撃してくる相手らは言葉を用いてくる。主人公はその言葉をずらしたりすることで応戦する。そのとき用いられる言葉は男や女に関わることだったりする。
ちょうど読んでいた千田有紀『女性学/男性学』のなかに出てきた〈わたしたちは言語の世界に生まれ落ちるという意味では、社会に決定されているのですが、言葉を引用して使う際に、意味をずらしたり、撹乱したりすることができます。まったく既存の社会(=言語)から自由にではありませんが、言葉を使う行為者となることによって、言葉の意味を少しづつ変えたり、亀裂を入れたりすることができます。〉という一節を思い起こしたりした。

上記の部分や〈私〉と〈跳蛇〉の関係(〈私〉はワープロの内部で文書を書いたりしており、書かれたものの内側にいる〈私〉ということなのかもしれない)などは、ちょっと判別のつかない部分もあって、一番印象に残ったのは主人公の見る夢は共有される夢だということ。
〈そしてまたその夢は共同夢である。私ひとりだけで見ているわけではない。パソコン通信を利用して多人数で行うゲームのように、そこへ何人もの人間が出入りしている。彼らもそれぞれにその夢に影響を与える。夢への働き掛けは同時に複数の人間によって行われて、それぞれが他人のした事に足をすくわれたり助けられたりする。相互作用で悪夢に影響も与える。だが、だからといって夢に客観性があるかというとそうでもない。〉「レストレス・ドリーム」

彼ら〈夢見人〉は作中には姿をみせない。話は主人公である〈私〉と夢のなかでの名前である〈跳蛇〉だけの孤独な戦いのようである。というか読んでいる最中、共同夢ということや他の夢見人のことをわたしは忘れていて(まったく言及されないわけではない)連作短編の最終作である四作目の「レストレス・エンド」の一節を読んで思い出したのだ。

〈少しずつ戦って夢を変えて来た。武器を買い、ゾンビとの路上戦を重ね、大寺院を探索し、行動範囲を拡げ‥‥それに呼応してスプラッタシティも少しづつだが、変わったのだ。無論、他の夢人達もこの悪意にダメージを与え続けたはずだ。が、結局彼とは少しも関わりあいになれなかった。〉

同じ境遇に置かれた者たちが、手を差し伸べあって助け合うことができるとは限らないけど、その存在を信じることによって感じ合うようなことはあるかもしれない。小説を読んだり書いたりすることはそのようなものに近いかもしれないとも思う。
この小説の中で他の夢見人たちは現れないわけだけど、小説というものがそもそもそのようなものであるならば、登場する必要はないわけだとも言える。

日記3/21

3/21

チェーホフの距離」という文章のなかで山田稔チェーホフの実生活における他人との距離のとりかたに触れる。

青春を犠牲にして手に入れた貴重な自由を、チェーホフは相手が社会であれ、個人であれ、頑なに守り通そうとした。自由を束縛するおそれのある一切のもの、名声にたいしてさえ慎重で、小心なほど警戒心がつよかった。そこからチェーホフ独特の距離のとり方が生じてくる。

その距離ゆえに、政治的立場がはっきりしない、主義主張に欠ける、無関心だとの批判をしばしばうけた。それにたいし、つぎのように言う。ーー無関心な人間だけが事物をはっきりと眺め、公平であることができる。ただしこれは、エゴイストや空虚な連中の無関心とは別のものだ。

恋愛においても、チェーホフは独特の距離をとったことが書かれている。短い文章だけど、オリガ・クニッペルとの恋愛の顛末などもおもしろく読む。

ついでに「かき」(神西清訳)も読む。チェホンテ時代の作品。こんな文章だったっけっと驚く。辛い空腹状態にある男の子の一人称で、読点が多いよう。たいがいは松下裕訳で読んでいるはずなので違う感じを受けるのだろうかと思って本棚を探したけれど松下裕訳のかきなど持っていなかった。かわりに沼野充義訳をみつける。こちらは「牡蠣」。思った以上に違うので驚く。まず一人称が「ぼく」と「おれ」で違う。空腹のとき牡蠣を食べる話なのだけど、回想形式で一人称の比重が神西訳に比べて沼野訳は回想している時点に傾いているよう。神西訳の方がひらがなに開かれている量が多いようでそのあたりも八歳児の視点に近寄っていると感じる理由かもしれない。

本日はせっかくの休みだったのにあまり本を読めなかった。笙野頼子「レストレス・ドリーム」と千田有紀『ヒューマニティーズ 女性学/男性学』をちょろちょろ読んだりする。
風邪をひいたと思う。おとといの朝から喉に異変があり、昨日の午後くらいから鼻水がとまらなくなる。今朝、鼻水の薬を飲んだら効いたようで、せっかくの暖かい日を楽しもうと外に椅子を持ち出して本を読んでいたら寝てしまい、目が覚めると風が吹いていてとても寒い、きっとこれがよくなかったのだ、薬のせいなのか眠くてたまらずソファでまた寝て起きると鼻水はすっかりおさまり喉の嫌な感じもなくなったのだけど、今度は頭が痛い。熱がありそうだった。計って実際に熱があると気が沈んでしまうなと思って熱は計らず寝たり起きたりしていた。

夜になるとなんとなく多少気分が良くなった。
以前、テレビで、たしかローリー寺西がインフルエンザで高熱があるときにピンク・フロイドの『狂気』を聞いたらとてもよく「わかった」と言っていて、このエピソードは好きで、真似しようと思いヘッドホンをつけたまま寝たりした。でも結局『狂気』ではなくなんでか、ゆるふわギャングを聞いた。カッコいい。

両手にバニラシェイクとポテト
この二つは最高のポルノ
この二つがあれば落ち着くの
君達には分からないでしょ

「Dippin’ Shake」

日記3/20

3/20

平日の午後、2時とかそれくらいの時間、車に乗り駅前の交差点で信号を待っているとき、外を見ていると家族連れがファミレスから出てきたりする。
若い夫婦と小学生になったかならないかくらいの子供、ベビーカーに乗った赤ちゃん。

男はキャップを被っている。七分たけくらいのシャツにジーンズ。手にはダウンのベストを持っている。女は丈の長いスウェット地のスカートで男と色違いのダウンのベストを、こちらは着ている。

小さい男の子はファミレスの入り口から勢いよく飛び出してきたかと思ったら、転んで、けれどすぐに立ち上がり駈け出そうとすると女が慌てた様子で後ろから、やはり男の子も着ていたダウンのベストの襟首をつかんだ。男の子の着ていたベストは転んだり母親の足に体をぶつけたりするたびに色が変わっていた。色が変化するところは見ておらず、思い浮かべるたびに色が異なっていて陽の当たり方などで違って見えたのかもしれないし、実は双子だったり三つ子だったりしたのかもしれない。

ありふれた家族の彼らにとっては休日なのであろう午後のひとときを、平日の午後にみかけるととても美しいものをみたような気になる。
ファミレスから出てきた彼らは特別おいしものを食べて満足したような顔をするわけでもなく、陽の光に目を細めたりしていた。

わたしは平日の午後にファミレスから出てたとき、見ず知らずのだれかが自分のことを羨んでるだなんて想像をするだろうか。
平日の午後は時間がゆっくりと進むのは人通りの量や歩いている人の感じが平日の午後の空気をつくっているんじゃないだろうかと思っていたのだけど、単純にわたしが一向に時間が進まない午後にただ退屈しているだけなのかもしれないとも思う。

信号が青になると直進で進み、駅前のロータリーのすみに車を止めた。タクシープールではドライバーの人たちがちらほら腕まくりをしてタバコを吸っていた。
タバコがおいしいなんて感じることはまったくないのに、他人の吸うそれはどうしておいしそうにみえるのだろう。

留置所には運動と呼ばれる時間があって、一日に一度だけ屋外に出ることができる。屋外といっても狭くて塀に囲まれた場所で実際に走ったりするわけではなくてもっぱら一服の時間なのだとか。
ところが最近は公舎はどこも禁煙で留置人もとうぜんのごとく吸えないらしい。
という話をタクシープールのドライバーたちが大声でしていた。

最近読んだ西村賢太の「春は青いバスに乗って」という短編小説のなかで、主人公が留置所でたばこを吸うシーンがあって印象に残っていたのでドライバーたちの会話を興味深く思う。

ちかごろはチェーホフのことを考えている。考えているだけでいっこうに読んだりしないのっだけど、チェーホフの作品内における対象との距離とでもいえばいいのか、語りと視点人物との距離感が好きだなと思う。読んだらぜんぜん見当違いだと思うかもしれない。
カーヴァーを読んでいて、そもそもチェーホフを思い出したのは書店でカーヴァーの本をぱらぱらみていたらチェーホフのことが書いてあったからなのだけど、カーヴァーとチェーホフとではこの距離感がぜんぜん違うように思う。
違うというか、わたしがいま漠然と抱いているチェーホフへのイメージでは、カーヴァーにおける動作の描写のぼんやりとしてただ見てしまっている感じの良さは言えないなといえばいいのか。

日記3/19

3/19

会社近くのコブシの花が枯れてきた。
大きな木で、遠くからみると白いのが映えていたけど、あっという間に終わってしまう。
コブシの花は傍目にはしっとりとしているようで重さを感じる。


〈わけもなく家出したくてたまらない 一人暮らしの部屋にいるのに〉枡野浩一

〈すぐに家出したまえ。/自分は正しいと思ううちは戻ってきてはいけない〉と講談社文庫『結婚失格』の解説で町山智浩は先の短歌を引用したうえで書いている。
〈彼は自分を捨てなければ、妻を理解できない。人間がわからない。自分で自分を捨てられないなら、自分の居場所を捨て、自己を否定される旅に出るのはどうだろう。〉(同上)

この解説には納得できない部分も多いのだけど、まず行動しろという言葉に対峙するとただタジタジになってしまう。

カーヴァーの「列車」という作品は、
〈女はミス・テンドと呼ばれていた。彼女は一人の男に向かって銃を突き付けていた。〉というはじまりでカーヴァーの作品にしてはとてもアグレッシブに始まる。
〈彼女は男に思い知らせてやろうとしたのだ。〉という。
女はその場を去り、駅に向かう。列車に乗るためで、つまり逃亡することにしたのだろう。あんまり出来事の背景は描かれないのでなんともいえないけど。彼女は駅の待合室で電車を待つ。待合室には誰もいなかったが、やがて老人と中年の女がやってきて列車が来るまでの三人の様子が描かれる。
緊張感のある場面からはじまったかと思いきや、待合室の三人の様子は容量を得ない。
思い切って(きっと思い切ったのだろう)行動を起こしたにも関わらず、だらだらと不快な場面が続き、女の逃亡の先行きは思いやられる。

短編集『大聖堂』では「熱」も良かった。村上春樹の解題もいい。
〈完全な十全な愛というものはこの世界にはない。しかし人はその漠然とした仮説の(あるいは記憶の)温もりを抱いて生きていくことはできるのだ。〉
完全な十全な愛とは、「熱」に出てくるウェブスターさんという家事とベビーシッターを請け負う女性から導き出されている。ウェブスターさんは、妻に逃げられた男に明るさをもたらすのだけど、もともとは間男の母を手助けしたした人で間男を通じて妻から紹介されるというあたりが面白い。

カーヴァーの作品は全体通してすごく好きかと言われるとぜんぜんそんなことはないのだけど、カーヴァーを読みたい気分の時、というのはあるみたい。

〈彼はシャツのポケットから煙草の箱とシガレット・ホルダーを取り出した。そして煙草をホルダーに差し込み、シャツのポケットに手を伸ばした。それからズボンのポケットを探った。〉「列車」

〈二人の少年はステーション・ワゴンの外に出ている。一人は軍隊式に気をつけの姿勢をとっている。両足をきちっとつけて、両手を脇につけている。でも足を見ていると、彼は両手をばたばたと上下させながら跳び上がり始める。まるでそこから飛び立とうとしているみたいに。もう一人はステーション・ワゴンの運転席の側にしゃがみこんで、膝の屈伸運動をしている。〉「轡」

視点人物がぼんやりと眺めているように書かれている登場人物の動作の描写が好きかもしれない。ただ動くのを眺めている。うまく頭が働いていないような感じが良い。

日記3/18

3/18

蚤は家を出て行く心の準備や身のまわりの整理をするようになった。“逃げられない”と思い始めた時にはむしろ家出の用意をしてみた。準備をすれば“逃げられる”と信じていいような雰囲気ができた。
大祭/笙野頼子

「大祭」の主人公は辛い家から逃げ出す希望を五十年に一度の祭りにたくすが、両親のせいで挫折をする。主人公は7歳なのだ。挫折したにしたって生きていくにはあまりに長い時間が残されている。

 

わたしは逃げ出すことを永遠に先送りし、逃亡前夜を繰り返すことで日々をやり過ごしていたのかもしれないと思う。

逃亡前夜にすることは多い。持っていくものと持っていかないものを決める必要がある。持っていくことができるものは限られている。服や必需品をひと通りリュックにつめてみるけど、こんなにはいらないとすぐに気がつく。必要なものはじっさいほとんどないのだ。

持っていかないものはただ置いていけばいいのかといえばそうともいえない。以後、人に見られたくないものはあるということに気づく。数冊のノートとパソコンは処分しなくてはならない。このことをわたしは躊躇する。戸惑うことは考えることを思いださせる。持っていく服を綺麗にたたみリュックにつめ、不要であること気づいたのちに取り出し引き出しに戻す。ついでに引き出しのなかに入っていた服もたたみ直す。このような単純な作業は考えることを必要とはしないが、戸惑ってしまえば次の行動をみつけるために考えなくてはならない。考えることは疲れるのだ。疲れを感じれば準備は中止となる。

昔の日記を読み返すと、ああ、あのとき自分はこんなことを思っていたのだなどと思うのだけど、それではまるでそこに書かれたわたしがわたしと同じ人のようだ。
今日わたしは思ってもいないことを書いてそのことを自覚しているけれど、しばらくすればそんなことは忘れてしまいただ日記として書かれたということのためだけに本当のことだと思っているようですらある。書いてしまった以上、本当のことだったということは可能かもしれない。可能かもしれない、というかそれしか残っていないのだから、他のことは言えないということか。