悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

夜歩く

その日

夜歩く、というのは良い。ディクスン・カー横溝正史の小説にそういうタイトルのものがあったと思う。はやみねかおるに「踊る夜行怪人」というタイトルの本があって、夜歩くを連想する。中身と関係なく、夜歩くという言葉が良いと思う。

夜歩いていると、川でも見てみようかという気分になったので橋の上で立ち止まり欄干に手をかけて4メートルほど下に見える川面を眺めてみたけれど、すぐに飽きてしまった。川面は明るく光っていて上空には月がみえる。月は丸くて満月のようだったけれど、少し楕円気味にもみえたので満月ではなかったかもしれない。満月を見たときは疑いなく満月を見たと思えるものではないだろうか。欄干に腰のあたりをあずけもたれかかり、両腕を欄干に突っ張り棒のようにして空を見上げた。「モデル立ちだね」と大学に入ったばかりのころ、食堂の机で同じような恰好をしていたら、ほとんどその日にはじめて話した女の人に言われたことを思い出した。思い出したというより、「不細工なくせに気取ってるね」という意味に解釈した私は恥ずかしい気持ちになり、もともと何気なくそんな恰好をしてしまうことがたびたびあったためこれは改めなくてはならないと意識するようにしてからというもの、その恰好をしていることに気がつくたびにあのときの女の人を思い出すようになってしまった。つまり、私は月を見るより前から月を見ることに飽きていたようだった。飽きずに月を見ているというのがどういう状態なのかいまいちイメージできないとはいえ、ちょっと目をそらすと、いったいどこにあってどんな形でどんな色をしていたかなんてすっかり忘れてしまう。

ぼんやり歩きたい気分になって歩くことがある。しかしぼんやり歩くことはかなわず、あるっている最中も私が甲子園の決勝戦で負けたチームの監督だったら控室でどんなふうに訓示めいたことを垂れようかなどと言ったことを考えてしまい、歩くことが退屈なためにそのようなことを考えてしまうのかそれとも歩くと言うことがそのような下らない考えを誘いだしているのか、皆目見当がつかないまま気がついたら家の前にいるという始末だ。そういうときはがっかりする。だとすると私がぼんやり歩こうと思って出歩くときに期待していることはどういうことなのだろうか、と思うこともあるのだけれどもはっきりしない。それこそぼんやりとしたイメージがあるだけだ。とはいえ。