ふと気づくと、窓から見えるノウゼンカズラの花がしおしおになっていた。
少し前のこと、ベッドに座って網戸越しにいつの間にか暗くなった戸外で咲いているノウゼンカズラを見ていたら、涼しげな風など吹いてきてなんだか良い感じだったことを思いだす。
洗濯物を片付けていたのだ。ちょうど夕方から夜に変わるくらいの時間で、片付け始めたときは電気を消したままでも気にならなかったけど、終わるころにはすっかり暗く感じた。
電気をつけなくちゃと思ったものの、なんだかその日一日の疲れが暗くなった拍子に良く見える気がしてついベッドの上に座りこんだ。
薄暗い戸外でノウゼンカズラの橙色がくっきり浮かんでいる。風が吹いていて部屋を抜けている。やる事とやる事の空隙で時間が止まる一瞬。
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部屋の電気をつけなかったのがポイントだったな。と振り返る。
ぐうぜん、出くわした良い時間を意識的に繰り返そうとするのは難しい。
偶然であること自体が良い時間をつくりだした一つの要因になる。
しばらく前にこんな文章を読んだのだった。
わたしは、催し物の洪水のようなこの町で小さな映画祭を見逃さなかったことを幸運に感じていた。でも、そのためにわざわざ「バビロン」に来たわけではなく、偶然通りがかったら映画をやっていた、という気分で映画館に入りたかった。偶然手に入るものは幸福を感じさせてくれる。(……)都市の鼓動がわたしたちを揺すぶり続け、賭博者に変えていく。
多和田葉子/「ローザ・ルクセンブルク通り」『百年の散歩』
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「わざわざ」というのはたしかになんだか嫌で、とはいえ「自然体」という言葉も好きではない。
星を見るために出かけたくない。遠出して、すっかり道に迷って帰りが遅くなってしまい、うんざりした気分で一服するために車を止めた時に星を見たい。ひょうひょうと、訪れる者をみな快く迎えることなんて出来ないから、汗をたらして必死に街を歩き回りたい。