悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

散歩

道を歩いていると、木があった。

梅だろうか(梅の枝はぐんぐん伸びるので、ばりばり剪定しなくてはならない)。

私の身長よりも低くて、枯れているのか丸裸だった。幹から何本か枝が伸びていてそのなかの一本の先端に手袋がささっていた。ささっていたというより、枝が手袋をはめているようだった。

手袋は片方だけだった。

伊集院光がラジオで片方だけ落ちている手袋の話というのをいつかしていたことがあったと思う。だから気づいたのかもしれない。ささっていた手袋もかつては地面に落ちていたのだろう。それを誰かが拾って木にはめさせたのだ。思えば、この冬のあいだ何度かそのようなものを見た。

ガードレールのポールや、道端の棒状のものに手袋がささっている。さしていく人の心理はわかるようだ。たいていはボロボロで、車や自転車が何度も通り、雨が降ったり人が踏んだりして、仮に持ち主が見つけても知らんぷりしてしまうようなものばかりなのだけど、なかには意図して置かれたかのように綺麗な状態で落ちているものがある。片方だけだし猫ばばしようと思う人もいないだろう。きっと持ち主は落としたばかりなのだ。探しにくるかもしれない。でも探しに来る前に誰かが踏んづけてしまうかもしれないし、カラスなんかが持ち去ってしまうことも考えられる。ならば、目立つところに置いておいてあげようと思い手袋を手にとる。さてどこに置こう。そのとき、棒状のものがあったとしたら誰しもそこに手袋をはめてあげるに違いない。手は手袋をはめるためにあるわけではないが、手袋は手にはまるためにある。はまるべき手はないけれど、代わりにはなるかもしれない。

ささやかな親切心と、棒状のものをみつけたときの、「これだ!」感とで拾った人はとても暖かい気持ちで立ち去ったことだろう。探しにきた人も誰かが目立つように木にさしておいてくれたのだ思って暖かい気持ちになるかもしれない。手袋はまだ木にささっている。