悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日


仕事。
仕事終わりで、新宿に呑みにいく。
電車の中で佐々木幹郎『パステルナークの白い家』を読む。詩人の余技的な軽いエッセイだと思ったけど、読み進めていくと意外と面白い。旅の話と過去の話。過去と現在。それぞれの出来事に著者は眼差しを向ける。父の思い出。少年たちの様子。それらは互いに影響しあっている。父の思い出が少年たちを見守る著者のなかにある。あるいは逆かもしれない。他人のまなざしは想像するより他ないわけだけど、著者の視点が変化することで、著者自身も捉えているし、豊かな広がりがある。


その日


休み。
新宿の草枕でカレーを食べる。
模索舎には行けなかったので残念。
代わりに、池袋の古本まつりに行く。
池袋の古本祭りは西口公園で行われいた。とても暑い日で、屋外にはとてもじゃないけどいられず、早々に退散して東口の喫茶店「伯爵」に避難(北口より東口の伯爵の方が好きだ)するが、満席で悲惨。
古本まつりでは吉岡実『ムーンドロップ』を購入。


その日


仕事。
昼間は曇っていて、夕方くらいから雨が降った。
穂村弘『きっとあの人は眠っているんだよ』を読んだ。
穂村弘はミステリーが好きらしい。
読書の原体験から地続きで読書をしている感じがしてとても好感が持てる。
それはとても素晴らしいことだ。
わたしなんかは近頃気取って本を読んでいるような気がする。
読書といっても読み方はいろいろある。読んだことについて書くといっても、それも様々だ。
わたしが一番好きなのは原体験を擁護するような読み方であり、書き方だ。
誰かのそのような振る舞いに憧れて、結果だけを真似してしまうのは間違っているのだろう。読んできたものに対してどう振る舞ったかということが、素晴らしいのであって、何を読んできたかということはどうでもいいことだとすら言えるかもしれない。真似をするのであれば、振る舞いを真似したい。客観的にみたときの貧富の差こそあれわたしにも体験はあったのだから。

では気取りはどこから来るのだろう。気取りというのは、誰かに向けてすることではないだろうか。そのことに思い当たるとき、いったいわたしが思い浮かべる眼差しは誰のものなのだろう。「なんのために」という疑問はあまりに簡単に答えが出てしまうし、問いそのものが不毛な場合がほとんどだろう。でも、わたしのような浮ついた奴にはその問いが重しとして必要なのだと思う。なんのために本を読んでいるのだろうか。好きだからだ。

パステルナークの白い家 (りぶるどるしおる)

パステルナークの白い家 (りぶるどるしおる)