悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

2018/10/14

 

本日は新宿へ。チャイナムーン。


新宿のブックオフで本を数冊購入。
模索舎へ行くも開店時間を間違える。


高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』を読む。北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』もすこし読む。

『さようなら、ギャングたち』を読むのは久しぶり。かなり好きな作品だったはず。ときおりジーンと来るものがあったけど、前回にどんなことを思ったのかまったく思い出せない。

 

わたしはむずかしことばがきらいだ。
むずかしいことばで書かれたものを読むと、とても悲しくなる。なかなかわからないのだ。
むずかしいことばがきらいなのに、わたしもまた時々むずかしいことばを使う。本当に悲しい。

『さようなら、ギャングたち』「第二部 詩の学校 」より。


わたしの場合は、なかなか、ではなくてまったくわからない。この文はある種カマトトなのだろうけれど、わたしは本当に悲しい。


解説で加藤典洋は第二部を面白くないと書いている。その訳を

言葉の問題が面白く書かれようとしているからだと思う。いろんな人がきて、詩の学校の教師であるわたしに苦しい問いを差しだす。でも、彼はそれに答えられない。むろんそれは答えられるような問いではないのだが、そうだとしても、この先生は、あっさり、答えられない、という答えを出す。それがなんだか、わたしなどには、安心してらあ、と見える。面白く書かれているところが、面白くないのだ。


と書く。高橋源一郎は、この小説のあとはこの第二部のようなものを多く書いていったのかもしれない。

 

 

ぼくの女性詩人ノート
白石公子についての章。
スケバンだったしーちゃん、という作品をとりあげる。著者が特に良いという部分。


〈寝るたびに死ぬ練習して/少しずつ完全にしていく/あたしらの秩序〉


わたしも好きと思う。

 


2018/10/15


仕事。まったく気ののらない一日。くもっていたし、雨もふっていた。職場にたくさんのカメムシがいて、休みまえに虫が寄らなくなるというスプレーを窓にふいておいたら、本日、たくさんのカメムシが地面でのたうちまわっていた。ひっくりかえって足だけもぞもぞと動かしている。


もうダメだと、たち止まりうずくまってしまいそうになりながらも、もぞもぞと這いまわるような文章が好きだ。と書いてみて、それがどういう文章なのかわからない。でもきっと好きだと思うし、そういう文章に遭遇したら、わかると思う。


いろいろなジャンル、方向性、の本を読みたい気持ちで、それはきっと前向きな気持ちだから良い傾向のはずだけども、いちにちなにを読もうかと思いめぐらせていたら、あれも読めぬこれも読めぬと、できないことばかり思いついて気が沈んだ。くもっていたし、雨もふっていたとはいえ。


北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』を読み終える。松本圭二の詩集工都を少し読む。