悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記6/6~6/9

6/6

休み。
暑い1日。明日からは梅雨に入るとか入らないとか。
外に出かけて、新しい発見をしたいとか、そんなことを思ったりして過ごした。
疲れているのか、昼近くまで寝てしまったのだけど。

ブッツァーティタタール人の砂漠』などを読む。

将校に任官したジョヴァンニ・ドローゴは、九月のある朝、最初の任地バスティアーニ砦に赴くべく、町を出立した。

 とはじまる。 
ドローゴは赴任早々、何もないバスティアーニ砦から出たいとのぞみ、上官にもそう伝える。しかし、そこで働く他の人たちと同じように、不思議と居着いてしまうようだ。

緊張感のある状況のなかで、間延びする時間。どうしようもなく美しい瞬間への期待。

 

6/7

仕事。
梅雨になる。
仕事中、雨に濡れる。
雨に濡れると、室内に入って、湿った服を払ったり拭いたりしても、いつまでも雨がまとわりついているみたいで嫌だ。

ブッツァーティタタール人の砂漠』を少し読む。
おもしろい。
退屈のなかで、期待が緊張感のある状況をうむ。
夏は、期待と退屈の季節だと、遠い青春を思い浮かべて思ったりしながら、ちかごろを過ごしていたのだけど、退屈が期待をうむということもあるのかもしれない、などと思ったりする。
期待しているから、退屈するのだと思っていた。
あるいはそういうこともあるのかもしれない。
わたしは今でもいろんなことを期待していて、それはつまり「訪れる」ということを待っていたりする。
癖と言えばいいのか、悪癖。

 

6/8

仕事。
今日も1日雨だろうか、と憂鬱な気分で出勤。
ところがさほど雨は降らなかった。なんならちょっと晴れていた。
なんで雨が降ると憂鬱になるのか。憂鬱になりたいのかも。
憂鬱の甘さはどんな味だろうか、とときどき考える。
喉にはりつく甘さ、と書いてみるとしっくりくるような気もする。
喉にはりつく甘さがどういうのかはわからない。

薄荷の匂いがする夜、ということもときどき考える。
薄荷の匂いがする夜に遭遇したことはないけれど、わたしの鼻が悪くて感じ取ることができないだけなんじゃないだろうか、と思うときはあって、そんな日は晴れていて夜が青い。
これは稲垣足穂から来たイメージかも。
読んだのはずいぶん前だから定かでないし違うかもだけど、読んだ時の印象の残り滓が時間を経て形をかえたのだろうか。

ブッツァーティタタール人の砂漠』を読む。
とても苦い。この小説で描かれるような悔恨をとても恐れている。


6/9

Sと池袋で中華を食べる。
中華は、いろんなメニューを食べたくなるので、なるべく一人よりも二人、二人よりも三人で行ったほうがきっと楽しい。

雨が降っていたので、いつまでも外にいる気にはなれず。
三時前くらいまでは曇りで西武の屋上へ行ったりした。

池袋はいま公園の改修を行っている。
綺麗になるらしい。
世の中はどんどん清潔になっていくみたい。

清潔といえば内臓があんまり清潔なものに思えなくて、
TOMOVSKYが「骨」という曲で〈脳よりか骨だ そう骨だ 燃やしたって燃えないんだ〉と歌っていたけど、内臓より骨のほうが好き。
たぶん人によって、骨なのか内臓なのか肉なのか、自分の体のイメージの拠点をどこに置くかというのは異なっているのだと思うけど、わたしはたぶん骨で、骨はまったく動かないし、清潔な感じがする。
骨派にとって内臓はまったく汚らわしく、皮膚の内側に内臓をくっつけてるわたしたちはどうころんでも清潔になどなれるはずもなく、無菌状態の街から排除されるのはわたしたちだって例外ではないのでは、などと思ったりする。

TOMOVSKYを思い出したのは、The ピーズを聴いてたから。
やっぱりピーズはかっこいい。
昔、The ピーズ中島らもで毎晩泣いてる知り合いがいたけど、今はもう子供がいるとかいないとか、風の噂を思い出したり。

ああどこの誰が
本当に幸せなんだろうか
冷たいヤなやつも
体だけはあったかいだろうや

The ピーズ/日が暮れても彼女と歩いてた