悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日

仕事。
カーリングを観ながら図書館から借りた北村太郎「港の人」を見返したりした。
カーリングを観ていると、バーンッとやっちゃいたくてもどかしい気持ちなるけど、日本の選手たちは自分たちのスタイルというか戦術のようなものを、耐えるように我慢して貫いているように思えた。耐える、というか粘り強く待つことがカーリングなのだと思った。試合は韓国チームが勝った。韓国チームは派手なスタイルな印象。
「港の人」はどちらかといえば、待つことを終えた後の話のように思った。

その日

仕事。
前夜、ノートに書いている日記を見返すと毎日毎日晴れと書いてあって、そんなに晴れてばかりいるだろうかと思った。雨は降っていないにしても曇りとか、そういうことはあるのではないか。いい加減に書いてるのかもしれないと疑ってみると、数日前の日記が唐突に遠く感じる。そして今日雨が降った。日記に雨と書いた。

その日

仕事は休みだった。こたつから出たろうか。曇っていたので出掛ける必要はないように思えた。
「禅の教室」(藤田一照、伊藤比呂美)を読む。
野口整体の話が出てきて、片山洋二郎にはまっていたことを思い出す。はまっていたことすら忘れていた。
藤田一照さんが、座禅をすることは縁起の全体を使うということをいって続けて、

 縁起って、ここから先は縁起じゃないって境界線を引けないから、宇宙大のネットワークじゃないですか。一切合財全部繋がってる。

 すでにそこにあるもの全部活かして「すべてのものとつながって今ここでこうして生きている自分」ということを純粋にやる。自分を自分する、といってもいい。

と言う。昼間ぱらぱら見返していた北村太郎の「港の人」を思い出す。

にんげんはことばを発明したときから
反自然の存在になってしまった

だから
いくら自然となかよくしようと思っても
なかなかむずかしい

自然はうつくしいと花や動物をあげつ、づける

ところが
そのように自然と親和することじたいが
反自然なのだ
わたくしはそのことを知っている

だから
にんげんにとって
死はつねに反自然であることも知っている


詩集のなかで港の人は、やました公園に散歩にいったり港の船をみたりする。日常の穏やかな光景のような描写も、とうぜんことばで書かれる以上反自然となるし死がある。