悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記

01/15

仕事。あまり忙しい要件もなかったのでぼんやりしているうちに一日過ぎる。 
帰宅後は、「それから」を読む。 
但馬にいる友人というのが出てくる。学生時代の友人で、その後但馬へ行ってしまう。とくに何という人物でもなく筋のために登場するようで名前もない。けどちょっと印象的。 

友人は時々鮎の乾したのや、柿の乾したのを送ってくれた。代助はその返礼に大概は新しい西洋の文学書をやった。するとその返事には、それを面白く読んだ証拠になるような批評がきっとあった。けれども、それが長くは続かなかった。しまいには受け取ったと云う礼状さえ寄こさなかった。こっちからわざわざ問い合わせると、書物はありがたく頂戴した。読んでから礼を云おうと思って、つい遅くなった。実はまだ読まない。白状すると、読む閑がないと云うより、読む気がしないのである。もう一層露骨に云えば、読んでも解らなくなったのである。という返事が来た。代助はそれから書物を廃めて、その代わりに新しい玩具を買って送る事にした。

この小説では、時間が経って変わってしまったことや変わらなかったことがでてくる。変わってしまたったことのひとつ。
なんとなく、こういうことを恐れていた時期がある。こういうことというのは生活に追われて好きなことがいつの間にか好きでなってしまうことで、わたしについてもそうなのだけど、周りの人がそうなってしまったらさびしいだろうな、と思っていた。けど、周りに同じことが好きな人はひとりもいなかったので、なんでそんなこと思っていたのかよくわからない。存在しない恋愛を思い描いて、別れの場面に感傷的なったりすることもあるから、似たようなものかしら。 
わたしは、大学を出てからまる五年が経つ。あまりお金にならない仕事をしてつらいつらいと言いつつちょびちょび本を読んだりしている。中途半端なようだけど、まあ生活とはそういうものだろうか。 


 1/16

仕事。本日も穏やかな一日。ぼんやりと過ごす。明日あたりはそろそろまじめに働かないといけないかもしれない。 
吉岡実『うまやはし日記』(書肆山田)をぱらぱらみる。なにが好きなのかうまく言えない。こういう日記を書きたいと思う。けど、あとがきによればこの日記はのちのち手をくわえられたらしい。それもそれなりに時間が経ったあと。「日記」を考えるならこのへんはわりと重要かしら。 
やっぱり、人に見せる日記というのは変で、人に見せる日記と見せない日記とで、そこに記される「わたし」と書いているわたしとの距離が同じというわけにもいかないだろう。 
映画『次の朝は他人』を観る。ホン・サンスはわりと観ている気でいたけど半分くらいしか観てないみたい。かなり好きなほう。 


1/17

仕事。 服を買いたい。 
夏目漱石『門』をすこし読む。宗助はすごくぼんやりしている。神経症などと言っているから、そういうことなのだろう。三四郎がうじうじしながらも東京をうろうろしているのとはぜんぜん違う。いや、そんなこともないかも。宗助は働いているし、むしろよく動いてる? 
『門』では、『三四郎』や『それから』とは語り手と主人公との距離感が違うのかもしれない。その分、ぼんやりした感じが強いのだろうか。まだ途中なので、ここから発揮して活発になったりするかもしれない。 
それにしても宗助は疲れいてる。休憩が必要。きっとわたしたちも。 
というか、なんでいまごろ夏目漱石なんて読んでるだろう。メアリー・マッカーシーを読みたい。グループは新しく出ないんだろうか。 
ヒロインズという本も面白そう。 

あれやこれや、読みたい本があると嬉しくなるのだけど、ふつふつわく好奇心に身をまかせすぎるとあるとき飽和点のようなものをむかえてしまい、あーなんにも読めない読む時間がないというようなうんざりした気分になってしまう。プーにならっていえば、やんなっちゃう!って感じ。 


1/18

仕事。 
仕事中は、はるか檸檬『れもん、よむもん!』を読む。 
帰宅後、『門』の続きを読もうと思ったけど、なんとなしに『ベイビー・ドライバー』を観始めてけっきょく最後まで観てしまう。 
主人公のベイビーがヒロインのデボラとダイナーで会話していて、t-rexのことをトレックスと言ったベイビーがデボラに訂正されるというシーンがある。 
わたしは人と趣味の話をすることがほとんどないので、ときおり固有名詞を口にしようとして発音や言い方がわからなくなることがよくある。ふと「いばき」のり子なのか「いばらぎ」のり子なのかわからなくなるし、「あまさわ」退二郎なのか「あまざわ」退二郎なのか、わからなくなる。というかいまだかつて、どちらの名前も口に出したことないんじゃないかなと思って、言ってみる。ここは静かな閑散とした海岸ではないのに、だれもいないところ。

『れもん、よむもん!』はとても良い。読書についてのエッセイマンガ。『ココの詩』という小説が出てくる。わたしの知らない小説。作者がこどものころに読んだ小説だ。作者も内容を忘れてしまっていたりする。作者は『ココの詩』を読み直して、あらすじを説明するのだけど、小さいころに読んだときの印象と大人になって読み返してからの印象、どちらもが混ざり合うような混ざり合わないような、過去の自分の読書を尊重するような、書き方がすごく好き。 
後半の、作者の読書感に影響を与える人物たちの肖像も良い。
本を読みはじめてからこのかたほとんど一人で本を読んできたわたしにとっては、羨ましくもある。 
まあ、漢字の読み方がわからないのは、単純に学がないだけかも。 

日記

1/10

美容室へいく。毎回書いている気がするけど、なぜあんなにみんな美容師と楽しそうに話せるんだろう。コミュニケーション能力なるもののなさに辟易する。
その後、喫茶店で本を読む。あまり集中出来ず。前々から思っていたけど、外で本を読むのはむいていないのかもしれない。ただ家に帰りたくないといつも思う。 

帰宅後映画『殺人の追憶』をみる。なかなか鮮烈。 

三四郎』は、ちくま文庫版の裏表紙によると青春小説らしい。多感な時期に読むと影響されたりするんだろうか。東京大学へ行ってあんな生活を送ろう、というふうに影響されるなら、けっこうである。わたしも影響されたかった。大学デビュー小説ともいえそう。 

大学デビューするためのブックガイドというのはどうだろう。 
もちろん、本にかんするリストというのはただ眺めて何かを所有した気分に浸るためだけのものなので、実用的であってはならない。実用的であろうなどと思うリストは批評的である。批評的であるということは、とうぜん実用的であってはならないという重力圏を抜け出すことではない。
だとすれば、「大学デビューするためのブックガイド」も実用的ではなく、生意気なティーンエイジャーが鼻で笑ってしまうようなものでなくてはならず、後年ふとなにかの拍子に読んだときにああもうちょっと早く読んでも良かったかもしれない、と思ったか思わなかったか、気づいたら通勤電車のなかでうとうとしているものが良い。三四郎はぜひ入れたい。 


1/11

『現代詩文庫50 多田智満子詩集』を読む。 
キートンの警察騒動』をみた。キートンは大好き。とても楽しい。キートンが大勢の警察官から追われる話。セブンチャンスは花嫁候補たちだけど、こちらは警察官。とにかく多い。奥から手前、手前から奥へ動き回る。ひょこひょこ画面にあらわれたキートンに画面手前から警察官が大挙してやってきたりする。
気分が沈んでいたので、よかった。 
キートンはあんまりふざけている感じがしなくて、それが好き。ふざけていない、というよりひねた感じがしないと言ったほうがいいだろうか。

 

1/14

土曜日は仕事が終わってから街にでかける。水炊き鍋を食べる。鍋はとても好き。本当はそこまで好きではないかもしれない。いまは好き。スープとかそんなような汁物(と言っていいかわからないけど)は好きだ。煮るのは良い。煮るのとアイロンをかけることはわたしの気分を穏やかにさせる。 

日曜日は喫茶店で本を読む。正確には読んでいない、やはり向いていないのだ。周りの人が気になってしまうせいだと思う。ちかごろは、オフしている人によく会う。出会い系とかかもしれない。今日、おそらく初対面であろう二人が近くの席にいた。明らかにお互いにがっかりしている。いや、片方のがっかりがもう片方に移ったような感じでもあった。いずれにせよ、まったくの部外者であるわたしにもがっかりが伝わってくるのには言いようない虚しさをかんじる 。休日である。休日に見ず知らずの人に最大限の期待をして楽しい気分で待ち合わせ場所へ向かう。当然出かけるまえには念入りに鏡をみたし今さっきだってデパートのトイレで鏡をみた。今日はいい感じ。ところがあってみるとなんだか違和感。がっかりする。若干の気まづさをかかえながらコーヒーをすすりどうやって早めに切り上げようかなどと思案する。
なんだか虚しい。まったく品のない想像ばかりして、本を読めないことも虚しい。 


本日はションベンライダーを観る。カッコいいシーンがたくさん。なんでか、辞書とブルースが先生の車で横浜から名古屋へ移動するシーン、助手席の位置から運転する先生と後部座席に乗る辞書とブルースを映しているのだけど、先生が自分の話をしてブルースがそれは初恋の話かというようなことを尋ねると先生が〈初恋だった〉と過去形で言い、カメラが助手席の位置から後部座席の方へゆっくり移動していき三人の後頭部を映す場面で泣きそうになった。理由はわからない。三人で歌を歌ったりしてとても良い。 


それから夏目漱石のそれから、と『生活考察vol.6』を少しずつ読む。
三四郎」がけっこう面白かったので、「それから」も読みはじめたけどこちらもなんでか面白い。なんでかというのは、どっちの主人公あんまり好きではないからで、でもどちらも面白いようである。 

「それから」の主人公代助は妙な働かない理由をいう。青臭いといえば青臭い。
わたしもたぶん怠け者で働きたくない。いや、働きたくないという目的と怠け者だという気質があるのだ。なんで働きたくないのか考えたことはあまりない。そうだからそうなのだ、ということにしている。
たとえば働きたくない怠けたいという目的があって、それに向けてあれやこれやして目的を叶える人がいる。こういう人たちはむしろ実直じゃないだろうか。逆にバリバリ働いて社長になりたいと思っている人でも、努力せずに万年平社員みたいであれば怠け者だろう。わたしは働きたくないという目標があるにもかかわらず怠け者なので中途半端に社会のレールのうえで、働かないことを怠けているのだと言える。呑気といえば呑気だ。 

日記01/06〜01/08

1/6

休み。だらだらと過ぎていった。 
長谷川四郎「細部の拡大」、ホフマン「砂男」を読む。
「細部の拡大」は細部を拡大しているというより、「登山帽の男」の前半を語り方を変えただけの変な小説。 

「砂男」の主人公はどうものぞき見ることでおかしくなってしまうかのようで、そのはじまりは主人公が書簡のなかで語る〈のぞき見しているところをみつけられ、コッペリウスにお仕置きをくらったわけだ。〉というところにあるだろうか。 

ところで、小説を読むというのも、どこかしらのぞき見めいたところはあるかもしれない。物語を読むときたいていの場合は物語の現実よりは外側から読んでいるわけだし。 
ある種の小説はストーリー自体にゴシップめいた部分があり魅力でもある。そのような卑下た愉しみにどこかやましさをおぼえたりもする。人の生活をこっそりのぞきみること。とはいえ、いろんな欲望が肯定されるのならそんな愉しみもあって良いのだろう。

日記などは小説よりますますのぞき見めいてくる。 
日記ははなから読まれるために書かれたものとそうでないものとがある。後者においても、のちのち作者同意の上で出版されるものもある。 
著者からまったく同意されず、死んだあとに勝手に出版されてしまったものもある。そのような日記を読むとき、人は著者のことをどんなふうに考えるのだろう。それとも、文学とされる文章を読むとき人は文章だけを読むべきなのだろうか。 
あるいは逆に、「書く」というときに他人に生活をのぞかれたいというようなよろこびもあるかもしれない。 
いずれにせよ日記にたいして、書かれたわたしについての距離感を狂わせられるような錯覚を、わたしは抱いているのかも。 


そういえば、最近読んだ『名もなき王国』という小説のなかに、生前にはあまり評価されなかった小説家が出てくる。小説家は死ぬ前に、自身が残した創作ノートを自分が死んだあとに処分してほしいと頼むいっぽうで、自分自身で処分せずいつか誰かが読んでくれるかもしれないということを期待していたりする。読まれたくないけど読まれたい。といってしまえばなんだか簡単なことのようだけど、揺れ動く微妙な感じというのが日記や手記にはあったりするのだろうか。

 


1/7

仕事。 
わたしはやましい気持ちでいっぱいだ。 
他の人もそうなんじゃないかと、ひそかに思っている。だれかを過剰に攻撃したり擁護したりすることも、根底にはやましさがひそんでいるのではないか。 
そんな話を本で読んだ気がする。なんの本だったかは忘れてしまったけど(この本じゃないか、というのがあったら教えてほしいです)。
ある面では、人よりとても劣っているわたしでも、だれかと比べて恵まれている部分もあるのだし、それを人から指摘されたらなにも言えなくなってしまう。 

 


1/8

仕事。晴れ。近頃晴れが続いていると思う。
今月、あまりお金を使わずに住んだら、『団地図鑑』と『思考としてのランドスケープ』を買おうと思う。 
そういえば、日記に、今後こうしようああしようという希望のようなことをあんまり書いてこなかったけれど、そういったことも書いたら良いのかもしれない。明るい気分になったりするだろうか。 


昨年、映画『それから』を観て、タイトルは夏目漱石の同名小説からきているとの話を聞いたので読んでいなかったし読んでみようかしらなどと思ったのだけど、『三四郎』も読んでいないしそっちが先かなと本を手にとってぱらぱらしているうちに年があけてしまい、読もうと思ったことすら忘れていたのに正月明けで頭がぼんやりしていたためか不意に思い出したので読むことにした。『三四郎』のほうだ。 
三四郎は熊本から東京へでてくる。いろんなところへ行くのでいろんな地名など名前が出てくる。これは『三四郎』という小説じたいに観光案内的な役割があったからだとどこかできいた記憶があるけれど定かではない。 

ねんのため、ウィキペディアで調べてみる。わたしの知ってることはみなどこかで見たり聞いたりしたはずのことだけど、いったいどこで見たり聞いたりしたのか思い出せないことがたくさんあって、わたしの場合、そのような知識はちょっと危うい。 
頭にぱっと何事かが浮かんで、「あ、これは三四郎で読んだ話だな」と思い出せるばあい、その何事かはわたしのものではなくて『三四郎』のものだという感じがする。ところが、そのように思い出すことができないとき、わたしはそれをどこかで見たり聞いたりしたことがらであることもすっかり忘れてわたしが最初から持っていたものであるような気になってしまう。 
もちろん、それはそれでいいのだ。だいいちわたしが知ってることのうちほとんどすべてのことは、どこで見たり聞いたりしたのか忘れてしまっているのだし。 
問題はときおりふとこれはどこで知ったんだろうと思い、運よく特定できたとき、ウィキペディアだということがよくあることだ。どうやらわたしは多くのことをウィキペディアで知ったらしい。わたしはそのことを恥ずかしいと思ってしまう。もしかしたら恥ずかしいことではないのかもしれないけれど、とにかく恥ずかしい。 

結局ウィキペディアで『三四郎』のページはみていない。『三四郎』は思ったより面白い。上京したてで目がくるくるとあっちこっちに行くような感じがあってかわいい。主人公である三四郎漫才コンビ三四郎」のツッコミ担当であるコミヤを思いうかべてしまうせいかもしれない。『三四郎』を読むのに三四郎のコミヤを思い浮かべてしまうのは、順番が逆だしおかしいかもしれないが理由がないわけでもない。わたしはちくま文庫版で『三四郎』を読んだのだけど、注釈で主人公の三四郎のモデルが小宮豊隆とされていたと書いてある。三四郎のコミヤと三四郎は小宮は似ている。いや、そうだとしても順番が逆であることにかわりはないか。と思って漫才コンビ三四郎ウィキペディアを観て見ると三四郎のコミヤと三四郎は小宮は似ているという話が出ていた。 
 

読書日記

01/02

明日まで休み。 
渋谷に『アタラント号』を観に行く。期待していたよりもはるかに楽しめた。大勢の人が動き回るのはとにかく好きで、冒頭のみんなが列になって歩いているのから良い。スリを大勢の人が追っかけるところも最高。また女と離れ離れになってしまい男が憔悴しきってしまうのもおかしい。男が海岸をカメラの奥に走っていくところや船がパリに到着するところなんかはうっとりしちゃう。なんでもそうなのだけど、一般的に古典とされているものに触れてもてんでわからなくてがっかりしちゃうことが多いなか、良かった。嬉しい。 
明後日からの仕事をことを思うと、うんざりした気分で、日記も書く気にはならなかったのだけど、『アタラント号』のことを思い出していたらなんだか良い気分になってきたので、やはり、良かった。 

出かけついでに、喫茶店で本を読んだりしたのだけど、あまり頭に入らず。 
小林紀晴『写真で愉しむ 東京「水流」地形散歩』(集英社新書マティアス・マルティネスミヒャエル・シェッフェル『物語の森へ』(法政大学出版局)を少しづつ読む。 
29日から日記を書いていなかったので、今年はじめての日記ということになる。 
ブログは1年続いたことが過去にないので続けられたらいいと思う。 


01/03

明日から仕事。チョー憂鬱。お気に入りの音楽でドライブしてどこかへ行きたい。ドライブの難点は走っている自身の車の姿をみれないということだろうか。 
倉茂数『名もなき王国』を読む。構成が凝っていて、うまい言いかたがわからないのだけど、何人かの人物が執筆した文章から構成された一冊の本かのような体裁になっている。そして単行本の帯にもあるようにある仕掛けがなされている。何人かの文章は小説のなかの現実で書かれた文章である。わたしは各章で書かれた出来事から小説内の現実を思い浮かべながら読み進めていくのだけど、この小説の現実とその現実において書かれた文章との関係の妙にくらくらする。 


01/04

仕事。夜中に目覚めたりして、繊細だなあと苦笑いの気分。 
ひさびさにプロジェクターを起動してみたら使えたので映画をみる。いぜんはパソコンでつないでいたのだけど、いまはパソコンを持っていないため、fire tv stickで試してみた。良い感じ。 

白い壁に映した。やっぱりスクリーンがほしいけど、まあ観れるレベル。自分が持っているプロジェクターには音声出力がなくて、内蔵スピーカーがあるのだけどちょっときになるレベルでひどい。ここは解決したいところ。HDMIケーブルでタブレットと繋いで、音声はタブレットからBluetoothスピーカーというのが良さそう。 
などということをだらだらと考えていたら、たいして本も読めず。 
本も読めないし仕事も嫌だし気が塞ぐけど、ちかごろは晴天が続いているのがすくい。晴天というのは良い。 

読書日記

12/25

仕事。
あと一週間なので頑張りたいところ。とても寒い。 
長谷川四郎が「ぼくの好きな文章」という短い文章のなかで、文章が好きな作家として柳田國男森鴎外をあげていたのは意外。 「小説」ではなくて、「文章」というところがポイントだろうか。


高原英理編『ガール・イン・ザ・ゴシック 少女のためのゴシック文学館』(講談社)もパラパラと読んでいたのだけど、よかった。アンソロジーで後ろのほうに編者による作品ごとの短い解説がついているのだけど、江戸川乱歩の「魔法人形」について書かれた文章がとくに良い。「魔法人形」は探偵小説なのだけど、この本ではは解決編はのせずに謎の部分だけが載っている。 

私にはその興醒めな現実への着地が不要である。人を美しい人形にしてしまう魔法への想像と、恐れつつその魔法に惹かれてゆく少女の心の慄きだけを読めればよいと思い、この小説の最も魅力的な謎の抄出した。これを解明されるべき物語の前半部とは考えず、暗い憧れに満ちた、結末のない幻想小説として読みたかったからである。


会社の昼休みにはひさしぶりに後藤明生もちょぼちょぼ読み進めていて、いまは『40歳のオブローモフ』。団地とそこでの噂話について。とても楽しい。 
しかし、それにしても、アーリー・バードブックスは偉大だと思う。後藤明生のたくさんの作品が電子書籍で気軽に読めてしまうのだ。そのうち、通学電車で飴でも舐めるみたいに気軽に読んだ不遜で生意気なこどもたちが現れちゃうんじゃないかと、妄想しつつ寝ることとします。

 


12/26

仕事。 
ミルハウザー「夜の姉妹団」と『現代詩文庫49 菅原克己詩集』を読む。菅原克己の詩はけっこう好きかもしれない。 
「夜の姉妹団」はそれぞれタイトルがついているいくつもの短い文章から構成されている。街の少女たちが夜な夜な何かをしていて、語り手である〈私〉をはじめとする周囲の大人たちがあれこれと反応する話。 
語り手は、姉妹団の活動がいまいちはっきりとはしないなか、〈もしかして私たちは間違った秘密を、私たち自身が焦がれている秘密を探しているだけではないだろうか?〉という問いをもつ。 
いったいこの少女たちはなにをしているんだろう、という興味を持って読み進めるとき、語り手に近い位置で小説を読むことになる。 

仕事の昼休みに読んでいる後藤明生『四十歳のオブローモフ』では、団地での噂話についての話が出てくる。これについて語り手は、噂の内容よりも、いったいどういう経緯で噂が出回っているのかということに興味を持つ。「夜の姉妹団」もある意味、夜の姉妹団に関する噂話とでも言える話で、しかしこちらの語り手は噂話がなぜ生まれるのだろうか、という原因に近づいていく。

 


12/27

仕事。 
ちかごろ浮ついている。手のひらに棒を垂直にのせてバランスをとろうと思うのだけど、うまくやろうと力がはいってしまい棒がフラフラと手のひらから落ちそうになってしまうような感じとでも言えばいいだろうか。
 
正月休みを控えたよろこびと、漠然とした将来の不安とが良い感じ波長を合わせているだけなのかもしれない。 

たくさん文章を書いても、「気分」のようなふわっとした観念しか出てこない。 

長谷川四郎が「一つの感想」という短い文章のなかで書いている。 

生活記録について、それはどう書くべし、などということはないと、わたしは思っている。各々それぞれ自分の生活に即して書けばよいことだ。ただ根本的な態度として、観念性の排除が大切だ、といえるだろう。

 

日記は生活記録だろうか。生活記録だといえる日記はある。 
文章には、一度記され、何度も書き直されるものがある。昨日書いた文章を今日さらに書き加えて、明日さらに書き減らす。作品とよばれるような文章はそのようなものだろう。とするならば、書くということは、水を飲むとか、アイロンをかけるなどといった限られた時間のなかでそれも一回で行われる行為とはことなる。 
日記はそのような文章とは異なるかもしれない。書きっぱなし。朝起きてコップに水を注いで飲むときの、「飲む」のように夜寝るまえに日記を「書く」。夜寝る前に暖かい牛乳を飲むときにの、「飲む」のように朝起きて日記を「書く」。 
生活とは、書いた内ようや食べた内よう、ねむったときにどんな夢をみたかということよりも書いた食べた寝たというそれぞれの行為が打ち叩く強固な反復のリズムであり、それは形式だ。 
生活の記録を書くのではなくて、書くことが生活の記録のうちのひとつのような。 


12/28

いやな気分で一日すぎる。 
あまり本も読まず。 
明日が終われば年内の仕事は終わるので、がんばろうと思う。


12/29

仕事納め。 
4日から仕事。2日の夕方くらいから、仕事初めが嫌でうんざりした気持ちになるだろうけど、元気でいられるようにしたい。 

(案の定、まったく絶望的な気分で、ブログの編集作業をしている。

 

祈り

☑︎ケツの穴に山手線が突っ込んじゃえばいいのに

☑︎おしゃれな美容院で五分刈りにされちゃえばいいのに

☑︎一等前後賞合わせて三億が当たったあげく

    その宝くじが春風にさらわれちゃえばいいのに

☑︎ごまといっしょにごりごりすり潰されちゃえばいいのに

☑︎油圧式円匙車で部屋ごと平らに均されちゃえばいいのに

☑︎すごくだいじな部分が根っこからもげちゃえばいいのに

聖母はトンプソンがお好き/小林大吾

ソフトクリームソーダ

ユーモア

「あんまりにもユーモアがありすぎるせいでスベっちゃうんだ」と男は言った。わたしはあんまりにもユーモアがありすぎるせいでスベったりはしないと思った。 
「ユーモアというのはある文脈を理解しないと意味がわからないことが多い。つまり普遍的じゃないんだ。でもそういうのはよくない。ぼくのユーモアはそういうのを超越してるから、誰も傷つけない。でも誰も笑わない。あまりに高度なユーモアを、多くの人は理解することができないんだ。」 
「これも冗談?」 
「どういうこと?」
男は真顔で、ちょっと胡乱な目をしていた。 


ソフトクリーム

男はソフトクリームが好きだ。 
街を歩いてソフトクリームを売っているお店をみつけると、ちょっと通り過ぎてから「食べない?」という。いつもなぜかちょっと通りすぎる。わたしが食べない、と答えても男は自分のぶんだけソフトクリームを買って食べた。 
男はソフトクリームをなめながら決まって「街中でひとりでソフトリームを食べるのって恥ずかしいじゃない? だから人と一緒のときに食べておきたい」などと言った。
男はソフトクリームを食べ始めると夢中なようすで、「一口あげようか」などと言うもののそんな気は毛頭ない。いくらか食べてはソフトクリームをすこし顔から離し減った箇所をしげしげと眺めたりした。 
おそらく男はソフトクリームを食べることをかわいいと思っていた。 


ガードレール

男がソフトクリームを食べるとき、半分くらいはガードレールなどに腰かけて食べた。 
歩きながら食べるのが一番良いと思っていたが、休日なんかだと街には人がたくさんいて、うっかりソフトクリームをぶつけてしまうことを恐れたのだ。男は人差し指を頬に当て縦に一文字を描くように動かし「これもんに当たっちゃたらたまらないもんね」などと面白いことを言うかのように言った。 
本当の理由は二つあって、ひとつは男が7歳のころ三つ年下の妹と歩いていると、突然妹がむずがりだし、見ると妹の頭にリンゴ飴がくっついたという事件があったためだった。妹は泣きわめきリンゴ飴と合体した長く伸びた髪を切ることになってしまった。この事件が何らかの影響を男に与えたのだが、男はそのことに気づかなかった。もう一つ、男はガードレールなどに腰かけることがカッコいいと思っていたのだ。 
ガードレールに腰かける気だるさとソフトクリームのかわいさは悪くない組み合わせだと、男は直観的に思っていた。 


屋上

西武デパートの屋上は椅子や机が並び屋台のようなものがあったので、屋台で食べ物や飲み物を買って椅子に座って食べることができた。さっきまであんなに明るかったのにという間もなくふいに暗くなってしまうような季節だった。午後6時前には寒くてみんな帰ってしまうのではないかと思う人もいたかもしれない。しかし寒さ対策もいくらかは考えていたようで、ヒーターが置かれたりしていた。うっとりした様子の恋人たちや、勉強している高校生がいた。家族もいた。屋台では暖かいワインなんかが売っていて、寒い中で飲むのもこれはこれでひとつの楽しみだとでも言いたげに良い気分な様子の人たちがワインを飲んだりもしていた。なぜかソフトクリームのお店もあって、寒いのに食べる人なんているのかな、と言ってお店の前を通り過ぎるカップルなんかもいたが、買っている人もいたようである。 
 

読書日記

12/11

仕事。たいへん。 
長谷川四郎「馬の微笑み」を読む。
ソ連の煉瓦工場で働く話。語り手たちが働くのはしょぼい工場。〈若し「煉瓦製造技術発達史」というような本があるとすれば、その第一番目の挿絵に、この工場が出て来るように思われた。〉 
ノルマは他の機械化された工場にあわせるので大変。〈人力以外はせいぜい馬くらいのものだった(‥‥)〉。でも〈私たち〉(この短編は〈私〉ではじまりいつのまにか〈私たち〉に変わる。)はそのことを好いていたという。 

全部が全部、機械化されるのは恐らく目出度いことだろう。しかし、部分的にしか機械化されないで、機械と機械の間に人間が挿入されると、彼の労働は機械に追われて機械を追いかけ、多忙を極めて、まことに味気ないものである。その機械を動かすものは、彼ではなく、彼以上の、権威ある存在なのだから。


わたしもなんだかわからないものにせっつかれて毎日働いているわけだけど、根が怠け者なので、勤勉というのがもう嫌だ。自分で自分を動かすのも嫌だ。 
世の中には勤勉な怠け者というのもいて、一生懸命怠けないことを駄目なことのように言ったりするけれど、わたしのような怠け者な怠け者からすると、ただただ勤勉な人と同じに見える。 

 

12/17

いろいろあったので疲れる。日記にはいろいろの中身を書くべきなんだろうけれど、まったくうまく書けない。うまくかけなくてもかまわないのだとしても書けない。そもそも何かをうまく書いたと思えたことなんて一度もないのだけど、なにも書けない。 


『批評の解剖』は例によってさっぱり。解説によると前提となっている考え方として〈第一に文学の自律性と、それに付随して文芸批評が取り扱うのは文学自体であって文学の背景にあるなまの直接体験ではない、という考えがある。第二にさまざまのイデオロギー、歴史感にもとづいて作品を裁断することを文芸批評における決定論と呼ぶフライの立場は、この意味で反イデオロギー、非歴史主義と言えよう。第三にフライは文学の全体像を示す壮大な体系を築く一種の文学形態論を究極目標とし、作品の価値評価を回避する〉のだという。 
趣味判断とは別ものだということになる。 
趣味判断を通じてなにか大きなものを語ろうとするときの危うさをあらためて思うというようなていどにはわたしども素人にも積極的な受け取り方ができそう。 


長谷川四郎「ラドシュキン」を読む。
『シベリア物語』のうちの一編。ラドシュキンという男との交流を描く。シベリア物語はシベリア抑留を描いた作品なので、主人公は強制労働をしており本など読んでいる暇はないのだけど、「掃除人」ではゴミ捨て場からチェーホフを拾って喜んだりもする。「ラドシュキン」でも主人公は本を読む僥倖をえる。
煉瓦工場で働いている主人公は、とうぜん外を出歩いたりする自由はない。ところがラドシュキンから主人公は馬係りとして勤務前後に工場と厩のあいだを馬を運ぶ仕事を任される。工場と厩は離れているので外を出歩くことができる。その途中で主人公は本屋を読み立ち読みする。 

私はそれから毎日、馬から降りては、この「一八一二年のモスクワ」を少しずつ読んでみた。

そこまでして本など読みたいだろうかなどとぼけたことを思ってしまったのだけど、そうだからこそ読みたいということもあるのだろう。立ち読みする主人公に〈完全な無関心〉を向ける店主の姿も良い。


12/20

仕事。年末のせいではないのだけど、今年いっぱい忙しそう。 
枡野浩一『結婚失格』(講談社文庫)をぱらぱらとみていたら次の一節をみつける。
著者は連絡をとれなくなってしまった佐々木あらら氏にたいして、
〈いやしくも小説の合作をしている仕事仲間なのだから、メールの返事を一切寄越さないのにこちらから電話したり、家に押し掛けたりするようなことはしたくないと、心のどこかで思っていました。それは僕が彼とのきずなを自ら断ったことにもなるのだろうか、もしかしたら彼は、「メールではなく電話がかかってきたら枡野さんと話そう」という賭けに出ているのかもしれない、そんなふうに突然〉思う。 
これだ、と思った。仲違いして一年近く連絡のとれなくなってしまった友人がいる。何度かLINEを送ったのだけど、無視。電話してみようかと思った。でも電話はしなかった。 
主人公は電話をしたのだけど、結局つながらない。わたしは電話をしなかった。本のなかで電話が繋がらなかったからわたしもまたそうなることを恐れてしなかったわけではない。もしかりに相手が出たとして、なにを話せばいいのかわからない。 


12/24

22日、23日は日記書かず。 
本日休み。
ベイビー・ドライバー』『子猫をお願い』を観る。 
どちらもサイコー。 
子猫をお願い』は行き場のないオク・チヨンに手をさしのべるぺ・ドゥナが必ずしも善意からだけからではなくて、自身もまた抱えてるものを解決するために行動するところがとても良い。主人公たち五人が強風の中を歩くシーンとぺ・ドゥナが面会に行くシーンはいつ見ても泣いてしまうようだ。 


連休中に読んでいた増田みず子の『シングル・セル』もとても良かった。小説の感想というわけではないのだけど、静けさが良いイメージとして描かれていて、自分も静けさというのは良いものだと思ってるなあと思う。

わたしが人生でもっとも静かなところに住んでいたころ、ひっそりとした夜の台所などいまでも良いイメージで思い出される。と書いてみたのだけど、そういえば、静かなところというのは単純に周囲に雑音がないということなのだけど、自分自身は静かではなかった。自分自身というのはあんがいうるさいのだと思った記憶もある。 
寺山修司の『戦後詩 ユリシーズの不在』という本のなかでマヤコフスキーの詩が引用されている。 
〈ほかのひとの心臓は胸にあるだろうが/おれの体じゃ、どこもかしこも心臓ばかり。/いたるところで汽笛を鳴らす〉 
数少ない共感で読むことができた詩だと思う。そのころ、動悸のようなものがひどくてふと地震だろうか、と思うと異様にばくばく鳴っている自分の心臓の音だと思うことがあるくらいで、ちっとも静かでいることができなかった。 静かなところにいたぶん余計にうるさかったのだと思う。本当はいまでもうるさいのに、周囲も騒がしいのでいくぶん穏やかなようでもある。