悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

約一ヶ月間の日記

6/10

雨にうんざり。
雨が好きだったときもあったと思う。

 

6/11

 仕事。
有給をとったら、と勧められたものの、有給を取るために業務を調整しなければならないのが異様に面倒に思えてから空返事ばかりしてしまう。
この調子では、休みを取りたくない変なやつだと思われかねない。もちろん、休みはほしい。何日休んでも多すぎるなんてことは絶対にない。

 

6/12

仕事。
日中は雨はあまり降らなかった。
今は雨音がしている。

的場昭弘カール・マルクス入門』を少し読む。
マルクスの著作の解説というよりは、伝記色つよめ。

 

6/13

休み。
通っている美容室の美容師が店を変えるかもしれないとのこと。
考えなければならないことが増える気がして面倒な気分になる。

尾崎翠第七官界彷徨」を読む。
穏やかな気分になる。
会話はチャーミングだし、登場人物たちが暮らす建物の感じもとても良い。

 

6/16

休み。
暖かい一日だった。
家のなかで過ごすのにはちょうど良かったと思う。暑いくらいだったかも。
新しい部屋着を着て過ごしたら気分が良かった。そんなことで気分が良くなるのだ。

日記以前の、或いは決して日記に書かれていない筈の、おぼろな、しかし色彩にあふれた閃きのような存在感だけが、私の憶い出せるすべてであった。意識の記憶より感覚の記憶のほうがはるかにつよいことに私は驚いた。道の、家のたたずまい。陽ざしと暗がり。音のきこえ方。匂い。ーーそれらを手がかりに、私はいつの間にか、数年がかりで私の幼時を再体験していた。そうしながら眺めてみると、それは実在の記録より以上に親しみ深く、生き生きと〈ほんとうの幼年〉として私の眼に映ったのだった。

 私の中の幼年/吉原幸子

という文章をメモした。
手書きの良いところはめんどくさいことかもしれない、と思う。

余華『ほんとうの中国の話をしよう』を読み始める。
タイトルから想像していたのは違う感じ。
私小説のような、幼い頃の記憶などが書かれる。
〈憶い出せるすべて〉のような。
微妙な心情が述べられているけど、過去の自分自身の心情にあまり深入りはしない。

 

6/17

宇宙にただよう微かなささやき。暗く、誰もいない場所、振動はわかりやすい線を描き、安心に伝わる。
はっきりと喋ること。

 

 6/18

今日は良い天気だった。
暑かった。いろいろと面倒な仕事が舞い込み、嫌な気分にもなる。
不安なことも多い。大丈夫かしら。

プー横丁にたった家』を読む。
岩波から出ているaniversary edition(挿絵がカラー!)を図書館で借りてきた。
そのうち買えればいいな、といつも思う。

そういえば中学生とか高校生くらいのときあるいはもっと前のころは、買った本より借りて読んだ本のほうが断然多くて、そのくらいの時期に読んだ本は自分にすごく影響を与えているはずだけど、手元にないのはちょっと惜しいような気もする。

さて、そのあとで、橋の上にのこったのは、クストファー・ロビンとプーとコブタでした。
ながいあいだ、三人はだまって、下を流れてゆく川をながめていました。すると、川もまただまって流れてゆきました。川は、このあたたかい夏の午後、たいへんしずかな、のんびりした気分になっていたのです。

「プーがあたらしい遊戯を発明して、イーヨーが仲間にはいるお話」のラスト。有名な橋から木を投げて遊ぶお話。イーヨーとトラーが仲違いしてしまうも、クリストファー・ロビンの機転で最後は良い感じで終わる。
そしてこの文章が出てくるのだけど、永遠の夏の川辺という感じでとても良い。


6/19

仕事。
今日は仕事終わりに、図書館へ行き、そのあとダイソークリーニング屋に行った。活動的で良い。
昨日から、明日は早く寝ようと思っていたけど、けっきょく十二時を過ぎている。ちかごろは朝起きたときに本当に眠たくてどうしようもない。

 

 6/25

仕事。
わりかし暇がある仕事だけど、空いた時間を無駄にしてしまっている気がする。

晴れ。昨日の天気もあまり覚えていない。なのでとうぜん、一昨日の天気も覚えていない。
天気がころころ変わって、寝る前に翌日の天気をチェックしても、朝起きたら変わっている気がする。
今日は良い天気だった。晴れいていた。雨が降った日を悪天候というのも変な気がする。良い悪いという話ではないのかも。

こんなに晴れているのに、なんで仕事をしているんだろうという気分になるので、そういう意味では悪い天気と言えるかもしれない。
帰宅後は、多和田葉子『聖女伝説』を少し読む。
ちかごろあんまり本を読めていない。気持ちが浮ついているのかも。

 

6/27

休み。
10時半ころまで寝てしまう。

父は仕事やめて半年くらい家でのんびりしている。気にしているようで、センシティブな雰囲気をときどき出すとか。

本日も多和田葉子の『聖女伝説』を読む。
足について、いろいろ書いてある。
歩くこと、足について。
「かかとを失くして」という小説も著者は書いている。
裸足とか、足をなくす、とか、歩けなくなることへの恐怖?

 

6/29

Sとクリスチャン・ボルタンスキー展を見にいく。
あんまりよくわからなかったけど、それなりに面白いような気もした。
帰りに、ナッツの専門店でくるみを買う。
買って電車に乗ろうとしたところで傘を忘れてきたことに気づき取りに戻る。朝からお腹の調子が悪くて、駅ビルのトイレに寄ったらくるみを置いてきてしまった。何マス戻る?

 

6/30

今日はあまり本を読まなかった。
それでもなんとなく充実した気分があって良かった。
『新作文宣言』を読んでいたら、もう自分の文章感みたいなのがすごく影響を受けていることに気づいて驚いた。

最近外をうろうろしていると、すぐに疲れてしまう。
以前からすぐに疲れてしまうほうではあったけど、疲れてからの粘りというか、そこからけっこうたくさん動き回れた#のに、最近はつかれてくるともうちっとも動きたくなくなるし、眠くなってしまう。
年齢のせいかなとか一瞬思いかけたけど、歳をとったふりをするにはまだ若いような気もする。歳をとったから、という若い人ってあんまり好ましくおもわないし。

カバンが重いというのはあるかもしれない。本というのはなかなか重い。出かけるときに本をたくさん持ち歩いてしまうというのは、エッセイとかを読んでいてもよく出てくるエピソードなので、よくある話なんだろうけど、みんな体力あるのね。

 

 7/2

仕事。
異様に体調が悪くてなにも手につかなかった。
体が火照って内側から発熱しているような感覚。
手足が、関節がだるい。
たぶん熱があったんだと思う。
熱中症かと思ってどきどきしたけど、たぶん違いそう。

近ごろあまり本を読めていない。
頭に入ってこない詩集を読んでいるというよりは眺めたりしている。
いろいろ雑事に追われているせい?
先月の後半から生活のリズムが悪くなって、なおせないまま半月くらい経ってしまったようだ。

 

 7/8

仕事。
先週くらいからずっと体調が悪い。
今週の平日休みの日にはさすがに病院に行こうと思っていたら今日はわりかし調子が良かった。休みまでに治ってしまうかもしれない。

安田峰俊『八九六四』という天安門事件についてのルポタージュの本がとても面白かった。事件に関わった人や事件から影響を受けた人にインタビューした本。

日記6/6~6/9

6/6

休み。
暑い1日。明日からは梅雨に入るとか入らないとか。
外に出かけて、新しい発見をしたいとか、そんなことを思ったりして過ごした。
疲れているのか、昼近くまで寝てしまったのだけど。

ブッツァーティタタール人の砂漠』などを読む。

将校に任官したジョヴァンニ・ドローゴは、九月のある朝、最初の任地バスティアーニ砦に赴くべく、町を出立した。

 とはじまる。 
ドローゴは赴任早々、何もないバスティアーニ砦から出たいとのぞみ、上官にもそう伝える。しかし、そこで働く他の人たちと同じように、不思議と居着いてしまうようだ。

緊張感のある状況のなかで、間延びする時間。どうしようもなく美しい瞬間への期待。

 

6/7

仕事。
梅雨になる。
仕事中、雨に濡れる。
雨に濡れると、室内に入って、湿った服を払ったり拭いたりしても、いつまでも雨がまとわりついているみたいで嫌だ。

ブッツァーティタタール人の砂漠』を少し読む。
おもしろい。
退屈のなかで、期待が緊張感のある状況をうむ。
夏は、期待と退屈の季節だと、遠い青春を思い浮かべて思ったりしながら、ちかごろを過ごしていたのだけど、退屈が期待をうむということもあるのかもしれない、などと思ったりする。
期待しているから、退屈するのだと思っていた。
あるいはそういうこともあるのかもしれない。
わたしは今でもいろんなことを期待していて、それはつまり「訪れる」ということを待っていたりする。
癖と言えばいいのか、悪癖。

 

6/8

仕事。
今日も1日雨だろうか、と憂鬱な気分で出勤。
ところがさほど雨は降らなかった。なんならちょっと晴れていた。
なんで雨が降ると憂鬱になるのか。憂鬱になりたいのかも。
憂鬱の甘さはどんな味だろうか、とときどき考える。
喉にはりつく甘さ、と書いてみるとしっくりくるような気もする。
喉にはりつく甘さがどういうのかはわからない。

薄荷の匂いがする夜、ということもときどき考える。
薄荷の匂いがする夜に遭遇したことはないけれど、わたしの鼻が悪くて感じ取ることができないだけなんじゃないだろうか、と思うときはあって、そんな日は晴れていて夜が青い。
これは稲垣足穂から来たイメージかも。
読んだのはずいぶん前だから定かでないし違うかもだけど、読んだ時の印象の残り滓が時間を経て形をかえたのだろうか。

ブッツァーティタタール人の砂漠』を読む。
とても苦い。この小説で描かれるような悔恨をとても恐れている。


6/9

Sと池袋で中華を食べる。
中華は、いろんなメニューを食べたくなるので、なるべく一人よりも二人、二人よりも三人で行ったほうがきっと楽しい。

雨が降っていたので、いつまでも外にいる気にはなれず。
三時前くらいまでは曇りで西武の屋上へ行ったりした。

池袋はいま公園の改修を行っている。
綺麗になるらしい。
世の中はどんどん清潔になっていくみたい。

清潔といえば内臓があんまり清潔なものに思えなくて、
TOMOVSKYが「骨」という曲で〈脳よりか骨だ そう骨だ 燃やしたって燃えないんだ〉と歌っていたけど、内臓より骨のほうが好き。
たぶん人によって、骨なのか内臓なのか肉なのか、自分の体のイメージの拠点をどこに置くかというのは異なっているのだと思うけど、わたしはたぶん骨で、骨はまったく動かないし、清潔な感じがする。
骨派にとって内臓はまったく汚らわしく、皮膚の内側に内臓をくっつけてるわたしたちはどうころんでも清潔になどなれるはずもなく、無菌状態の街から排除されるのはわたしたちだって例外ではないのでは、などと思ったりする。

TOMOVSKYを思い出したのは、The ピーズを聴いてたから。
やっぱりピーズはかっこいい。
昔、The ピーズ中島らもで毎晩泣いてる知り合いがいたけど、今はもう子供がいるとかいないとか、風の噂を思い出したり。

ああどこの誰が
本当に幸せなんだろうか
冷たいヤなやつも
体だけはあったかいだろうや

The ピーズ/日が暮れても彼女と歩いてた

 

日記5/28~6/3

5/28

仕事。
あんまりにもやる気がでない。
文章を書くのも気が乗らない。
何日か前にTwitterで溶けているドラえもんの画像が話題になっているのを見たけど、溶けてしまうのは良い、溶けてしまいたい。
溶けてしまうというは、境界がなくなってしまうということで、境界はわたしと世界との境界だったりするわけだけど、つまりわたしは世界に対して明確に境界を持つわたしであるとわたし自身を認めているということなのだろうか。

自分で自分を何者かであると、名乗るような人にたいして懐疑的な気持ちを持っていて、何者かであるということは常に他人からそう呼ばれるものでしかないのではないかと思っていたのだけど、もしかしたらそれだって、他人から何者かであることを強いられてきた人たちのことを忘れてしまっているわけではないにしろわたし自身そのような立場ではないことに無自覚なのでだけなのかもしれない。

今日はあまり陽が出ていなかったから、終日、嫌な気分だったのかも。
「もうすっかり毎日暑いですね。いやになっちゃいますよ。でも今日は陽が出てないから、その分まだ過ごしやすいですね。」などと話したりもしたわけだけど。

5/30

昨晩はひさしぶりに立川で飲む。
帰りの電車で松浦理英子『セバスチャン』を読み始めたら、なかなか夢中になって読み終えてしまった。

ふと、工也が小児麻痺で跛である、などということはすべてでっち上げではないか、あの歩き方も演技ではないか、という疑惑が頭に浮かんだ。そして自分の心の動きが不快になりドアを閉めた。跛の者は自分の跛について、貧しい者は自分の貧しさについて語ることができるからいい。麻希子は工也の不具に嫉妬していたのである。

わたしはわたしが抱く多くの感情にやましさをおぼえる。
やまさしさは人に極端な言動を起こさせるのではないか、とちかごろよく思う。
もはや知らん顔はできないやまさしさには、どのように触れて解剖すれば良いのだろうか。


5/31

もう5月が終わってしまう。
仕事。

 

6/2

休み。
曇っていた?
ちょっと寒かったかもしれない。暑くはなかった。半袖に着替えたら寒いような気がしてシャツを着て、外に出たら暑いような気もしたけど、すぐに家に戻ったらちょうど良かった。家の中のほうが涼しかったのかもしれない。
しれないしれない、と書いているのは、ぼんやり過ごしすぎてしまってあんまり覚えていないせい。
ソファに寝転んで本を読むことが多いのだけど、ちかごろソファで昼寝をすることが多くソファに寝転ぶと自動的に眠たくなってしまう。
多和田葉子『球形時間』を読む。
ナミコという登場人物が出てくる。主人公らの同級生。近傍でちょこちょこ出てきては不穏な雰囲気を醸しているのだけど、とてもおそろしい。ナミコは潔癖症かつ誇大妄想気味で、不潔と思う人にたいして異様な攻撃性をみせる。
ナミコは鼻が良い。鼻が良いからくさいものに耐えられない。


6/3

仕事。
テニスを観ていてあまり本は読まなかった。
テニスは長い試合だと4時間も5時間もやるスポーツで、しかも試合中にコーチからアドバイスをもらったりすることができないらしい。とてもハードだ。
〈コートでは誰でもひとりひとりきり〉というのは本当なのだ。

本日は、パスカルキニャールの『辺境の館』というのを少し読んだ。仕事中は『球形時間』をもう一度読もうかと思っていたけど、なんとなく読み始めてしまった。
〈また、グルゼット氏は酒を好み、釣りを好んでいた。こうして齢を重ね、何人かの貴族に音楽を教えるかたわら、テージョ川で投網を楽しんだ。そして、陽を浴びながら酒を飲むのだった。〉
こういう書き方は好き。
なにが、どういう風に、というのはよくわからない。この一文の置かれ方にも好む理由があるかもしれない。

日記5/20~27

5/20

夜中にたくさん雨が降ると、目が覚めてしまうことが多い。目が覚めてしまったら睡眠不足のまま仕事へ行かなくてはならなくて、そうなるといつもの倍は疲れてしまうし家に帰ったら眠気でぼんやりしてしまうだろうから、本も読めずに一日の余暇を無駄にしてしまうのではないかと不安になって眠れなくなってきたので、今日はなにも書かずに寝てしまおうと思ったけれど、その気分だけ書いておく。
よく眠れますように、と願掛け。

 

5/22

仕事の一日。
先月末あたりから読書メーターを再開して、昔の感想などを見返していたらあまりに恥ずかしくなってたくさん削除してしまった。
そういう自意識って嫌よねーと思う。

 

5/23

休み。
良い天気。
ソファで昼寝。目が覚めたら肌寒くて上着を羽織り外に出てみるとちっとも涼しくなかった。
ちかごろ、休みの日に昼寝をするのがすっかり習慣になってしまっている。
それだけ外に出かけていないということでもある。
出かけていないので今月はいろいろ 
本を読んだりしている。
本当は人と遊んだりしたいのだけどあまり遊んだりしないので、本を読んでいるというところがあるかもしれない。

 

5/25

仕事。
ほんとうに暑い。
職場では昨日から冷房がつきはじめた。
夏バテ?
まだ夏ではないけど、ぐったりする。
フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』を読む。
すごく良い。ただ一回通読しただけではわけがわからない。

 

5/27

ブログを書く気にならない。
暑いせいかもしれない。
仕事中にいろいろと他人のブログを読んだりした。やっぱりブログを読むのは好きだと思う。

『ペドロ・パラモ』を読む。やっぱり良い。
〈おれ〉と名乗る語り手が父を探しにいく。会話や不意に差し込まれる別人物の語りが繰り返され、〈おれ〉から離れていく。
わたしはわたしがいなくなってしまいえばいいと思っているからなのか、〈おれはもやもやとしたものの中に溶け込んでいった〉というような方向に惹かれる。その一方で断片によって成り立っているこの小説は、時系列が複雑に入り組んでおり、そのことは構成する主体を意識させるものでもあるかもしれないなどとも思う。断片集という形式が孕んでいる矛盾が好きかもしれない。

日記5/14~19

5/14

風邪を引いたよう。
目覚めると喉が痛くて、声を出すのが億劫。
ただ、人気のないところでこっそり歌を歌ってみると、しわがれていてカッコいいんじゃないだろか、と思う。
そういえば、自分の声が嫌いなのだった。まあ他にも嫌いなところはたくさんあるのだけど。近頃は見ず知らずの人と話す機会がないのですっかり忘れていた。

多和田葉子『尼僧とキューピッドの弓』は二部にわかれている。第一部は尼僧院長が駆け落ちしてしまった修道院に訪れた語り手によって修道院での出来事が書かれる。第二部になると、おそらく語り手によって書かれた小説(つまり第一部の文章)を駆け落ちした尼僧院長が読み、自身の来歴を語るという形式になっている。駆け落ちした尼僧院長は、


5/16

風邪がひどくて駄目。
あるいは飲んだ薬がよくなかったのかもしれない。
昨日は一日手足がだるくて、それが熱のせいなのか薬のせいなのか判別つかず。
ニコルソン・ベイカー『室温』を読む。良かった。こういう小説を肯定感のあるものとして読んでいるということは、自分が思っているよりはるかに体調は良いのかもしれない。

 

5/17

体調は良くなってきたような気もするけど、やる気が出ない。
高橋源一郎柴田元幸の『小説の読み方、書き方、訳し方』でブコウスキーがそれほどスラングを使っていないという話になり、柴田元幸が〈スラングというのは仲間内の通り言葉で、特的の小さな閉じた共同体のなかでしか使わないものですよね。ブコウスキーはどこの共同体にも属さないからスラングは使わない。友だちいないと
スラングって要らないんですよね(笑)〉と言っていた。
わたしも友だちがいないからスラングを知らない。

 

5/19

早起きしてボクシングを観る。
井上選手は次戦がドネア選手に決まる。西岡選手がドネア選手と試合をしたのがもう7年も前だということに驚く。

早起きしたせいで昼間はうとうとしてしまう。
フリオ・コルタサル『八面体』を読んだりする。
短編集で面白いものも、あったけど難しいものもあった。わたしが小説を読むとき、語り手に安全なものを勝手に前提としてしまっているせいかもしれない。

日記5/11~13

5/11

連休が明けだったせいかとてもつらい一週間だった。
暑いし、なにもやる気がでない。
まあ時間が経てばどうせ良い気分にもなるだろうから、ぼんやりやり過ごせばいいだろうか。
あんまり良い具合に晴れていると、あてつけのようで嫌な気持ちにすらなったりもする。

田中英光オリンポスの果実」はアメリカへ向かう船上が物語前半の舞台となる。恋する語り手は、海も空も恋しいあの人と重なってしまい美しく見える。
辛いことのようにも、すばらしいことのようにも思える。風景だってわたしたちの気分によって姿が変わったりするのかもしれない。そのように考える立場はあるだろう。わたしはそんなふうに世界がただわたしの見えるものとしてしか存在しないような気分になることもあるし、そうではないような気分にもなる、わたしの見えないところにも存在するもののことを思って嬉しくなったりもする。

 

5/12

たまには日記とは別の文章を書いてみようと、仕事中にちょこちょこためた文章を読み返したりしてみたけれどあまり気持ちがのらない。

休み。
ハンモックで終日うとうとしていた。
うとうとしながら、本を読んだりする。
文章を目で追いながら眠いな寝ちゃおうかなと思いつつもページをめくったりしていてもやっぱり眠たくて寝てしまう。

寝てしまっているということに気づく。ふっと意識が落ちてしまったのは一瞬ですぐに目が覚める。はっ。寝てしまった、と思ったりする。寝てしまわずに本を読もうと文章を追う。追うけれどまぶたが重く、視界がぼやける。寝てしまっていると気づく。何度か繰り返すうちに寝ていることに気づくことはなくなる。眠いような気はするけれど、文章を追えている。追えているという安心感と眠りに落ちていく気持ち良さが両立しているかのような素晴らしい時間、つまり夢を見ている時間。
やがて目がさめると小一時間経ってしまっている。それは、まあ、仕方のないことだし、眠いのを我慢してまで読むような読書は、わたしにはないのだから、構わないのだけど、夢の中で読んでいた文章はたしかに間違いなく読んでいたはずで理解を出来ているというはっきりとした感覚もあるにもかかわらず、内容をすっかり忘れてしまっていることが気になる。ちょっとくらい覚えていてもいいような気もするのだけど。

 

5/13

人の目を気にしすぎるところがあるので気にしないようにはしたいと、思っているのはもう何年も前からのことなのに、うまくいかない。

多和田葉子『尼僧とキューピッドの矢』を読み始める。すごく好きな気がする。
修道院に住む尼僧たちの話。尼僧に好奇心を抱いた語り手がそこを訪れるところからはじまる。語り手は、尼僧たちにあだ名という呼び名を出会ってすぐに思いつき、心の中でそう呼ぼうと決める。可笑しい。第一印象か。ぱっと思いつく。こっそり呼び名を勝手にあたえる。その印象は間違っていたりする。ぱっとつけた名前が間違っていることによって、登場人物たちが生き生きとしているようですらある。おしゃべりも楽しい。語り手がある登場人物に話した話が、別の登場人物によって語られたりするので、語り手の知らないところでも尼僧たちはおしゃべりをしているのかもしれない。噂話や勝手に名前をつけることは下世話なことかもしれない。下世話なことの楽しさみたいなものもあるように思う。

多和田葉子の朗読を勧めてくれた人と仲違いしてしまったことを思い出し、わたしは人とまったくうまく付き合えないのだと、嫌な気分になったりもする。『雪の練習生』を勧めてくれた人とも仲違いをしてしまったのだった。

日記5/7~10

5/7

連休明け、想像した以上に辛い。ただ幸いなことにいい加減な職場のため、ぼんやりしたままやらなければならない仕事を先延ばしにしていたら、時間が経ってしまっていた。
仕事中に田中英光オリンポスの果実」をちょこっと読んだりもする。独特な語り口でおもしろい。読んだのは西村賢太の解説が載っている中公文庫版だったのだけど、これも良い。田中英光を熱心に読んでいたときのことは小説にもなっているらしい。

それにしても、今日は寒かった。今日から肌着の種類を変えたせいかも。曇ったり雨が降ったりしていたし、風も吹いていた。
そのことは誰にも話さなかった。そういうことはとても多い。誰にも話さなかったことばかりある。恥ずかしいからとか、疚しいから話さなかったというわけではなく、さして重要ではないと思ったから話さなかったのであって、そういったことはすぐに忘れてしまう。
日記を書くとき、さして重要ではない一日のうち、比較的重要そうなことを書いているのだと、たぶん、思うのだけど、重要でないわたしの生活のうちで重要なことを掬い上げようという志向があるのだとすれば、わたしがわたしの生活を重要でないというときのその「重要でない」という言葉は否定的なニュアンスを帯びるかもしれない。

なにを書いているのかよくわからなくなってきてしまったけど、ミシェル・レリスとは違ってその日の日記はその日に書く派であるわたしにとって、内容はさておき、これくらいの量を書けば十分満足するし、明日も早いので寝ます。

良い睡眠。良い睡眠。

 

5/8

晴れ。
ゴールデンウィーク前にクリーンニングに出していた服が破けていたことに気づく。袋から出してしまっていたし、クリーニングのタグも外してしまっていたのでどうだろうかと思いつつ、電話をしてみると店舗にもってこいと言われたので仕事が終わってから持っていくと、クリーニングに出した時点ですでに破けていたという。特に破けていたという証拠があったわけではないのだけど、逆に反論するに足るものもなかったので、仕方ないと帰宅。
お風呂に入っていたときにはもうすっかり忘れていた。忘れてしまっていたことを思い出し、そんなすぐに忘れてしまうようなことにとらわれていらいらしたことを後悔する。


5/9

〈だが、不思議なもので、ある考え方が完璧に正しく真っ当だと頭でわかっていても、必ずしもそれを心から信じて実行に移すわけではない。だから私はあいかわらず自分の気分が世界の中心だと思っていて、そのせいでたびたび真夜中の居間の窓辺に独り立つことになる。ちがうのは、今の私はこう考えられることだ。−−いまに私も、自分の気分なんか世界の中心ではなくなると思える日がくるのだ、と。これは大きな慰めだ。〉
リディア・デイヴィス「自分の気分」(岸本佐知子訳)

〈大きな慰め〉
晴れ。
いそがしい一日。

 

5/10

従兄弟の子どもが遊びにくる。久しぶり。
ちょっと会わないとすぐに大きくなる。
気取った素ぶりでわたしが話しかけてもぷいっとしていたけど、しばらくすると飛んだり跳ねたりご機嫌な様子。
従兄弟の子くらいしか子どもと接することがないのだけど、会うたびに、全能感といえばいいのか無敵な振る舞いに羨ましくなる。

長谷川四郎『中国服のブレヒト』を少し読む。ブレヒト墨子を読む本。