悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

夏休みのこと

三回忌

祖母の三回忌へ行く。
最近のお寺は冷房が効いていることを知る。
2年前、お寺に冷房が効いていたかどうか、まったく記憶にない。 父に聞いてもおぼえていなかった。
冷房が効いていて乾燥していたのか、お坊さんがお経を読む途中で咳き込んでいた。
親類の法事のたびにそのお坊さんのお経を聴いているのに、咳き込んだのははじめてみた。お坊さんは咳き込むこともお経のなかに含まれていたかのように平然としていたから、もしかするとままあることなのかもしれない。
終わった後、父は冷房のことが気になったのか、堂内をきょろきょろしていた。
きょろきょろした結果については特に尋ねなかった。
祖母が亡くなって2年も経ったなんて信じられない。

古本市

渋谷でSと待ちあわせる。
ずいぶん待っているあいだにツイッターを眺めていたら東急で古本市をやっていることを知りちょっと眺めるつもりで覗いてみたら、Sが来てもじっくり吟味してしまい、結局読みもしない本を買ってしまう。

人と待ちあわせると、待ち時間を持て余して無駄遣いをしてしまうというのは、わたしのよくあるパターンなのだけど、これは相手が遅れてくるわけではなくて、わたしが早くつきすぎてしまうせい。

公園

二子玉川公園と、目黒天空庭園へ行った。
あまりに暑くて、公園を歩くにはまっまく適さない日だった。

公園とはふらっと行けるところにある公園こそがその人にとっての公園なのだと思っている。
多くの禁止事項がもうけられ、何をする場所というよりも何をすることができない場所という方がしっくりくる公園という所へ行く目的は曖昧で、だから「わざわざ行く」というのも変に思えてしまう。

とはいえ、行けば行ったでそれなりにたのしいのであまり余計なことを考えるのは良くないかもしれない。

二子玉川公園には旧清水邸住宅書院という和風建築がある。
四角い建物のうち二辺に縁側がありそのうちのひとつは池に面していて、わたしたちが近づいたとき、年配の女性が二人、縁側で涼んでいた。
日影のない公園内を後悔しつつ歩いていたわたしたちは同じように涼みたく思い建物に入ると、足を崩してゆっくり会話をしていた二人は、そろそろ行こうかなどと言って行ってしまった。

わたしたちが女性二人が座っていたのと同じところに座って涼んでいると、こんな暑い中同じように公園のなかを歩いている変わった男女が歩いてきて、同じように涼みたいと思ったに違いない、建物に近づいてきた。

もう一辺は植え込みがみえるだけだったので、せっかくならぜったいに池に面している方がいい。
年配の女性たちも、わたしたちも、そう思ったし、後からきた男女もそう思ったに違いない。
年配の女性たちとおなじようにわたしたちも縁側をたち、男女が腰を下ろした。 しばらくして建物の前を通りがかると別の男女がいて、縁側に腰掛けた女を男がぱしゃぱしゃ写真に撮っていた。

雨雲レーダー

スニーカーを洗う。 Yahoo!の雨雲レーダーをちょこちょこ見ながら、外に出したりしまったりしていたけど乾かなかった。
最近は雨雲レーダーを見るのにはまっている。2時間くらい先だとかなり正確に当たるようで、ときおり見ては、しばらくたって、当たっていると嬉しくなる。
夏休みということで、母方の祖母にサービスして、もうちょったら雨が降るよ、もうちょっとしたら雨が止むよ、と教えてあげたけどあんまり興味はなさそうだった。

エール

夏休みの最終日はしっとりした気分で本を読んだ。 追いつめられた気分のほうが本を読めるのかも、と思う。学生のころ、わたしにとって本を読む理由のひとつは現実逃避だったかもしれない。何かそのころから今までつながっている読み方というのがあるのかもしれない。

『女ぎらい 日本のミソジニー』。『掃除婦のための手引き書』、『ショートソング』を読んだ。 『掃除婦のための手引き書』は収録されている短編すべての終わり方がすごく良い。すべてではないかもしれないけど、すべてと言いたくなるくらいの良さがある。

明日からの仕事が憂鬱になる。仕事をしなくなるまで、ずっとこういう気分は続くのだろうか。
平気な顔で休み明けから仕事へ行ける人はみんなとても偉いと思いつつ、考えてみればわたしだってはたからみれば平気な顔をしているのだから、偉いにちがいない。
であればもっと、励まし合いたいところ。
道ゆく人たち、顔には出さずエールを送りますので、そちらもエールを送っているのだと、解釈することにします。

これはさみしい!

08/05

休み。
起きたとき、仕事だと思い慌てて起きようとして、
ああ休みなんだった、
と安堵する。この二度寝は一番気持ちの良い二度寝だと思う。
気持ちが良くても二度寝をしてしまったので、休日の出鼻をくじかれて しまいけっきょくだらだら過ごす。
『掃除婦のための手引き書』などを少し読む。

08/07

仕事。
とても疲れている。
カフェインを摂りすぎなんじゃないかと思い、四日くらい前から摂らないようにしていたらやたらと調子が悪く、調べると離脱症状というのがあるらしいことを知る。
そういう症状があると知ると、仕事中にイライラしてしかたがないことも、頭が痛いような気がすることも、みな離脱症状とやらのせいに思えてくる。
こうなると、カフェインを摂りたくなる。カフェイン、カフェイン。頭の中がカフェインだらけ。
カフェインのことを考えるのをやめようと考えるのもカフェインのことを考えているのだから。
この思考のサイクル自体が何かをやめようとすることにまとわりつくものなのか、自分の考え方のせいなのか、わからない。
たとえばいろいろ同時にやめてみるのはどうだろう。
たばこもカフェインも、他にもいろいろ依存的なものものをせーのでみんなやめてしまえば、たとえ体の調子が悪くなったとしても、いったい何をやめたことによる禁断症状的なものなのかわからないので、良いのではないか。
などとヨタを思いつくけど、ぜったいにうまくいかないので、文章にしてくだらない思いつきにも花を添えてあげる。ことになるだろうか。

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』、
藤森かよこ他『クィア批評』を少しづつ読む。
『掃除婦のための手引き書』は、カーヴァーとデイヴィスが褒めていたという文句に惹かれて手に取った。
表題作は、バスにのって掃除の仕事をするために家をめぐる話。バスにのればいやおうなく移動するので、いろいろなものが眼にうつる。その描写も良い。途中途中でうしなってしまった恋人への思いが挟まれるけど、やはりバスはすすむし、日は過ぎるし、仕事はしなくてはならない、とうぜん文章もすすむ。とても切ない。明るさが切ない。

08/08

夏らしいことがしたいな、と思い、
植物に水をあげるついでにジョウロに水を汲んで、流してみる。
石畳をつたっていくようすを観察する。平らなようでいて、地面は平らではなく流した水は忠実に流れるべき方向へ流れていく。
石畳の上に散っていた花びらが水に流され、同じ方向へ進んでいくといずれどこかでひっかかりかたまり溜まる。水もまた進行方向を花びらに塞がれてしまい溜まる。
もう一度水を汲んで勢いをつけて流すと花びらは流れていく。流れていくというか、石畳の上に散った。
見ているといつまでも見ていられるような気もしたけれど、これはさみしい! とも思った。

8/11

仕事。
明日から夏休み。 開放感からか、だらだら、なにもせず夜更かしをしてしまうといういつものパターン。 『クィア批評』を読む。

梅雨があけるまで

7/19

図書館で借りてきた「レイ、ぼくらと話そう レイモンド・カーヴァー論集」を途中まで読む。
体調もよくなってきたので良かった。
本日は天気も良かった。
暑かった。
  

7/23

仕事。
転職のこともぼんやりと考えながら過ごす。
Sは「転職する」と断固とした決意をあらわにしていた。
近ごろ(ずっと?)悩ましいのは、自分には体力がないのではないかということで、たとえばSなんかはフルパワーで一日遊んで、次の日に丸一日寝ている、みたいなことができる。妹もできる。こういうのを体力がある、と思っている。わたしはできない。
どうしたらいいのだろう。いろいろ。  

多和田葉子「ペルソナ」を読む。 顔は人から見られる。
  

7/24

ダダシェフというロシア人のボクサーが試合後に亡くなった。

7/25

休み。
急に夏が来たようだった。
とたんにどこかへ行かなくては、と焦燥感にかられる。
かられるだけでとくには何もしなかった。
江國香織『犬とハモニカ』を読み終える。
短編集でどれも良かった。描写がよくて、明るい昼間の場面の穏やかな雰囲気のまま終わってしまえばいいのに、と思う作品もただそれだけでは終わらなかったりもする。そういう味わいもあるのだと思う。 理解し合うことだけが他人と理解し合うことではないのだと明るくもなる。
多和田葉子犬婿入り』も読む。表題作の冒頭の夏の団地を切り取ったところがすごく良かった。多和田葉子の小説には期待していなかった良さだった。

7/26

仕事。
夏っぽくなってきたね、と上司に言われて、
ちょっと嬉しそうな顔で言うものだから、
わたしもちょっと嬉しそうな感じで、そうですね、と言ってみたら、嫌んなっちゃうよなどと言うものだからどう返ていいのかわからず、へへへ、と例の嫌な笑い方をしたら、すたすたどこかへ行ってしまった。

梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』を少し読む。
中国における低賃金労働の問題について解説し〈グローバル運動の圧力は、それ自体は状況を変化させる力をほとんど持ち得なかったことは明らかだろう。〉と述べる。勉強になる。

そういえば、王兵という映画監督が好きでちょっと前に見た「苦い銭」という映画の中、登場人物がみんなスマホを持ってるのが印象的だったのを思い出した。それは同じ監督のもっと前の「鉄西区」という映画が2000年くらいの映像だったのと比べて思ったのだと思う。
  

7/28

Sと遊びにいく。
吉祥寺の時計屋さんで、時計のベルトを買う。
二年前に同じお店で買ったベルトがだいぶ傷んでしまっていた。

暑い日だった。
お店は駅から少し離れていたので、歩くのがたいへん。
日陰を探して
歩いてみるも
それほど多くない。
道路の両端を他のところより濃い色にしておけば、脳が日陰と勘違いして多少涼しく感じるのではないだろうか、などとよくわからないことを思ってしまうほど暑かった。

時計屋の帰りに古本屋によりまったく読む予定のない本を買ってしまう。
「最近は、読んだことのない本は買わないようにしていたのに」 と誰に言うでもなく、言い訳してみたけど、よく考えたら先日も新刊本を買ってしまったので、「ようにしていたのに」というのはまったく間違っている。

意思が弱いのかもしれない。
タバコもやめられないし。

以前考えた古本屋で本を買わない方法。
欲しい本を見つけたら棚から抜き取る前に、値段を予想する。上下200円以内なら買っていい。
結果。まったく効果なし。
果はなかったのに、「こうしたら、無駄遣いしませんよ」と何度か嘘をついてしまったことを思い出す。
  

7/29

仕事。
「桃があるから取りに来てください」と内線電話があった。
別の部署からで、わざわざ電話でこそこそ言ってくる場合は、わたしの上司やその上司の分はなくその部署で分配するには中途半端だったために余った分を適当に押し付けようという魂胆の場合が多い。
などと嫌なことを考えがちなのだけど、そういうのはよくないと気をとりなおして、桃を楽しみして帰るときに頂いて帰った。 袋に入っていた桃をあけてみると、すももで、すももの方が好きなので良かった。


08/02

仕事が忙しくなっている。
嫌んなっちゃう。
と言ってみても、どうにもならず。
暑すぎる。これもどうにならない。
あまりにも明確に夏が訪れたので、梅雨が明けたというニュースに気づかないまま数日が過ぎていた。
蓄積されるダメージというのはあるだろうから、毎年おとずれる猛暑は、きっとわたしをじわじわと衰えさせているに違いない。

約一ヶ月間の日記

6/10

雨にうんざり。
雨が好きだったときもあったと思う。

 

6/11

 仕事。
有給をとったら、と勧められたものの、有給を取るために業務を調整しなければならないのが異様に面倒に思えてから空返事ばかりしてしまう。
この調子では、休みを取りたくない変なやつだと思われかねない。もちろん、休みはほしい。何日休んでも多すぎるなんてことは絶対にない。

 

6/12

仕事。
日中は雨はあまり降らなかった。
今は雨音がしている。

的場昭弘カール・マルクス入門』を少し読む。
マルクスの著作の解説というよりは、伝記色つよめ。

 

6/13

休み。
通っている美容室の美容師が店を変えるかもしれないとのこと。
考えなければならないことが増える気がして面倒な気分になる。

尾崎翠第七官界彷徨」を読む。
穏やかな気分になる。
会話はチャーミングだし、登場人物たちが暮らす建物の感じもとても良い。

 

6/16

休み。
暖かい一日だった。
家のなかで過ごすのにはちょうど良かったと思う。暑いくらいだったかも。
新しい部屋着を着て過ごしたら気分が良かった。そんなことで気分が良くなるのだ。

日記以前の、或いは決して日記に書かれていない筈の、おぼろな、しかし色彩にあふれた閃きのような存在感だけが、私の憶い出せるすべてであった。意識の記憶より感覚の記憶のほうがはるかにつよいことに私は驚いた。道の、家のたたずまい。陽ざしと暗がり。音のきこえ方。匂い。ーーそれらを手がかりに、私はいつの間にか、数年がかりで私の幼時を再体験していた。そうしながら眺めてみると、それは実在の記録より以上に親しみ深く、生き生きと〈ほんとうの幼年〉として私の眼に映ったのだった。

 私の中の幼年/吉原幸子

という文章をメモした。
手書きの良いところはめんどくさいことかもしれない、と思う。

余華『ほんとうの中国の話をしよう』を読み始める。
タイトルから想像していたのは違う感じ。
私小説のような、幼い頃の記憶などが書かれる。
〈憶い出せるすべて〉のような。
微妙な心情が述べられているけど、過去の自分自身の心情にあまり深入りはしない。

 

6/17

宇宙にただよう微かなささやき。暗く、誰もいない場所、振動はわかりやすい線を描き、安心に伝わる。
はっきりと喋ること。

 

 6/18

今日は良い天気だった。
暑かった。いろいろと面倒な仕事が舞い込み、嫌な気分にもなる。
不安なことも多い。大丈夫かしら。

プー横丁にたった家』を読む。
岩波から出ているaniversary edition(挿絵がカラー!)を図書館で借りてきた。
そのうち買えればいいな、といつも思う。

そういえば中学生とか高校生くらいのときあるいはもっと前のころは、買った本より借りて読んだ本のほうが断然多くて、そのくらいの時期に読んだ本は自分にすごく影響を与えているはずだけど、手元にないのはちょっと惜しいような気もする。

さて、そのあとで、橋の上にのこったのは、クストファー・ロビンとプーとコブタでした。
ながいあいだ、三人はだまって、下を流れてゆく川をながめていました。すると、川もまただまって流れてゆきました。川は、このあたたかい夏の午後、たいへんしずかな、のんびりした気分になっていたのです。

「プーがあたらしい遊戯を発明して、イーヨーが仲間にはいるお話」のラスト。有名な橋から木を投げて遊ぶお話。イーヨーとトラーが仲違いしてしまうも、クリストファー・ロビンの機転で最後は良い感じで終わる。
そしてこの文章が出てくるのだけど、永遠の夏の川辺という感じでとても良い。


6/19

仕事。
今日は仕事終わりに、図書館へ行き、そのあとダイソークリーニング屋に行った。活動的で良い。
昨日から、明日は早く寝ようと思っていたけど、けっきょく十二時を過ぎている。ちかごろは朝起きたときに本当に眠たくてどうしようもない。

 

 6/25

仕事。
わりかし暇がある仕事だけど、空いた時間を無駄にしてしまっている気がする。

晴れ。昨日の天気もあまり覚えていない。なのでとうぜん、一昨日の天気も覚えていない。
天気がころころ変わって、寝る前に翌日の天気をチェックしても、朝起きたら変わっている気がする。
今日は良い天気だった。晴れいていた。雨が降った日を悪天候というのも変な気がする。良い悪いという話ではないのかも。

こんなに晴れているのに、なんで仕事をしているんだろうという気分になるので、そういう意味では悪い天気と言えるかもしれない。
帰宅後は、多和田葉子『聖女伝説』を少し読む。
ちかごろあんまり本を読めていない。気持ちが浮ついているのかも。

 

6/27

休み。
10時半ころまで寝てしまう。

父は仕事やめて半年くらい家でのんびりしている。気にしているようで、センシティブな雰囲気をときどき出すとか。

本日も多和田葉子の『聖女伝説』を読む。
足について、いろいろ書いてある。
歩くこと、足について。
「かかとを失くして」という小説も著者は書いている。
裸足とか、足をなくす、とか、歩けなくなることへの恐怖?

 

6/29

Sとクリスチャン・ボルタンスキー展を見にいく。
あんまりよくわからなかったけど、それなりに面白いような気もした。
帰りに、ナッツの専門店でくるみを買う。
買って電車に乗ろうとしたところで傘を忘れてきたことに気づき取りに戻る。朝からお腹の調子が悪くて、駅ビルのトイレに寄ったらくるみを置いてきてしまった。何マス戻る?

 

6/30

今日はあまり本を読まなかった。
それでもなんとなく充実した気分があって良かった。
『新作文宣言』を読んでいたら、もう自分の文章感みたいなのがすごく影響を受けていることに気づいて驚いた。

最近外をうろうろしていると、すぐに疲れてしまう。
以前からすぐに疲れてしまうほうではあったけど、疲れてからの粘りというか、そこからけっこうたくさん動き回れた#のに、最近はつかれてくるともうちっとも動きたくなくなるし、眠くなってしまう。
年齢のせいかなとか一瞬思いかけたけど、歳をとったふりをするにはまだ若いような気もする。歳をとったから、という若い人ってあんまり好ましくおもわないし。

カバンが重いというのはあるかもしれない。本というのはなかなか重い。出かけるときに本をたくさん持ち歩いてしまうというのは、エッセイとかを読んでいてもよく出てくるエピソードなので、よくある話なんだろうけど、みんな体力あるのね。

 

 7/2

仕事。
異様に体調が悪くてなにも手につかなかった。
体が火照って内側から発熱しているような感覚。
手足が、関節がだるい。
たぶん熱があったんだと思う。
熱中症かと思ってどきどきしたけど、たぶん違いそう。

近ごろあまり本を読めていない。
頭に入ってこない詩集を読んでいるというよりは眺めたりしている。
いろいろ雑事に追われているせい?
先月の後半から生活のリズムが悪くなって、なおせないまま半月くらい経ってしまったようだ。

 

 7/8

仕事。
先週くらいからずっと体調が悪い。
今週の平日休みの日にはさすがに病院に行こうと思っていたら今日はわりかし調子が良かった。休みまでに治ってしまうかもしれない。

安田峰俊『八九六四』という天安門事件についてのルポタージュの本がとても面白かった。事件に関わった人や事件から影響を受けた人にインタビューした本。

日記6/6~6/9

6/6

休み。
暑い1日。明日からは梅雨に入るとか入らないとか。
外に出かけて、新しい発見をしたいとか、そんなことを思ったりして過ごした。
疲れているのか、昼近くまで寝てしまったのだけど。

ブッツァーティタタール人の砂漠』などを読む。

将校に任官したジョヴァンニ・ドローゴは、九月のある朝、最初の任地バスティアーニ砦に赴くべく、町を出立した。

 とはじまる。 
ドローゴは赴任早々、何もないバスティアーニ砦から出たいとのぞみ、上官にもそう伝える。しかし、そこで働く他の人たちと同じように、不思議と居着いてしまうようだ。

緊張感のある状況のなかで、間延びする時間。どうしようもなく美しい瞬間への期待。

 

6/7

仕事。
梅雨になる。
仕事中、雨に濡れる。
雨に濡れると、室内に入って、湿った服を払ったり拭いたりしても、いつまでも雨がまとわりついているみたいで嫌だ。

ブッツァーティタタール人の砂漠』を少し読む。
おもしろい。
退屈のなかで、期待が緊張感のある状況をうむ。
夏は、期待と退屈の季節だと、遠い青春を思い浮かべて思ったりしながら、ちかごろを過ごしていたのだけど、退屈が期待をうむということもあるのかもしれない、などと思ったりする。
期待しているから、退屈するのだと思っていた。
あるいはそういうこともあるのかもしれない。
わたしは今でもいろんなことを期待していて、それはつまり「訪れる」ということを待っていたりする。
癖と言えばいいのか、悪癖。

 

6/8

仕事。
今日も1日雨だろうか、と憂鬱な気分で出勤。
ところがさほど雨は降らなかった。なんならちょっと晴れていた。
なんで雨が降ると憂鬱になるのか。憂鬱になりたいのかも。
憂鬱の甘さはどんな味だろうか、とときどき考える。
喉にはりつく甘さ、と書いてみるとしっくりくるような気もする。
喉にはりつく甘さがどういうのかはわからない。

薄荷の匂いがする夜、ということもときどき考える。
薄荷の匂いがする夜に遭遇したことはないけれど、わたしの鼻が悪くて感じ取ることができないだけなんじゃないだろうか、と思うときはあって、そんな日は晴れていて夜が青い。
これは稲垣足穂から来たイメージかも。
読んだのはずいぶん前だから定かでないし違うかもだけど、読んだ時の印象の残り滓が時間を経て形をかえたのだろうか。

ブッツァーティタタール人の砂漠』を読む。
とても苦い。この小説で描かれるような悔恨をとても恐れている。


6/9

Sと池袋で中華を食べる。
中華は、いろんなメニューを食べたくなるので、なるべく一人よりも二人、二人よりも三人で行ったほうがきっと楽しい。

雨が降っていたので、いつまでも外にいる気にはなれず。
三時前くらいまでは曇りで西武の屋上へ行ったりした。

池袋はいま公園の改修を行っている。
綺麗になるらしい。
世の中はどんどん清潔になっていくみたい。

清潔といえば内臓があんまり清潔なものに思えなくて、
TOMOVSKYが「骨」という曲で〈脳よりか骨だ そう骨だ 燃やしたって燃えないんだ〉と歌っていたけど、内臓より骨のほうが好き。
たぶん人によって、骨なのか内臓なのか肉なのか、自分の体のイメージの拠点をどこに置くかというのは異なっているのだと思うけど、わたしはたぶん骨で、骨はまったく動かないし、清潔な感じがする。
骨派にとって内臓はまったく汚らわしく、皮膚の内側に内臓をくっつけてるわたしたちはどうころんでも清潔になどなれるはずもなく、無菌状態の街から排除されるのはわたしたちだって例外ではないのでは、などと思ったりする。

TOMOVSKYを思い出したのは、The ピーズを聴いてたから。
やっぱりピーズはかっこいい。
昔、The ピーズ中島らもで毎晩泣いてる知り合いがいたけど、今はもう子供がいるとかいないとか、風の噂を思い出したり。

ああどこの誰が
本当に幸せなんだろうか
冷たいヤなやつも
体だけはあったかいだろうや

The ピーズ/日が暮れても彼女と歩いてた

 

日記5/28~6/3

5/28

仕事。
あんまりにもやる気がでない。
文章を書くのも気が乗らない。
何日か前にTwitterで溶けているドラえもんの画像が話題になっているのを見たけど、溶けてしまうのは良い、溶けてしまいたい。
溶けてしまうというは、境界がなくなってしまうということで、境界はわたしと世界との境界だったりするわけだけど、つまりわたしは世界に対して明確に境界を持つわたしであるとわたし自身を認めているということなのだろうか。

自分で自分を何者かであると、名乗るような人にたいして懐疑的な気持ちを持っていて、何者かであるということは常に他人からそう呼ばれるものでしかないのではないかと思っていたのだけど、もしかしたらそれだって、他人から何者かであることを強いられてきた人たちのことを忘れてしまっているわけではないにしろわたし自身そのような立場ではないことに無自覚なのでだけなのかもしれない。

今日はあまり陽が出ていなかったから、終日、嫌な気分だったのかも。
「もうすっかり毎日暑いですね。いやになっちゃいますよ。でも今日は陽が出てないから、その分まだ過ごしやすいですね。」などと話したりもしたわけだけど。

5/30

昨晩はひさしぶりに立川で飲む。
帰りの電車で松浦理英子『セバスチャン』を読み始めたら、なかなか夢中になって読み終えてしまった。

ふと、工也が小児麻痺で跛である、などということはすべてでっち上げではないか、あの歩き方も演技ではないか、という疑惑が頭に浮かんだ。そして自分の心の動きが不快になりドアを閉めた。跛の者は自分の跛について、貧しい者は自分の貧しさについて語ることができるからいい。麻希子は工也の不具に嫉妬していたのである。

わたしはわたしが抱く多くの感情にやましさをおぼえる。
やまさしさは人に極端な言動を起こさせるのではないか、とちかごろよく思う。
もはや知らん顔はできないやまさしさには、どのように触れて解剖すれば良いのだろうか。


5/31

もう5月が終わってしまう。
仕事。

 

6/2

休み。
曇っていた?
ちょっと寒かったかもしれない。暑くはなかった。半袖に着替えたら寒いような気がしてシャツを着て、外に出たら暑いような気もしたけど、すぐに家に戻ったらちょうど良かった。家の中のほうが涼しかったのかもしれない。
しれないしれない、と書いているのは、ぼんやり過ごしすぎてしまってあんまり覚えていないせい。
ソファに寝転んで本を読むことが多いのだけど、ちかごろソファで昼寝をすることが多くソファに寝転ぶと自動的に眠たくなってしまう。
多和田葉子『球形時間』を読む。
ナミコという登場人物が出てくる。主人公らの同級生。近傍でちょこちょこ出てきては不穏な雰囲気を醸しているのだけど、とてもおそろしい。ナミコは潔癖症かつ誇大妄想気味で、不潔と思う人にたいして異様な攻撃性をみせる。
ナミコは鼻が良い。鼻が良いからくさいものに耐えられない。


6/3

仕事。
テニスを観ていてあまり本は読まなかった。
テニスは長い試合だと4時間も5時間もやるスポーツで、しかも試合中にコーチからアドバイスをもらったりすることができないらしい。とてもハードだ。
〈コートでは誰でもひとりひとりきり〉というのは本当なのだ。

本日は、パスカルキニャールの『辺境の館』というのを少し読んだ。仕事中は『球形時間』をもう一度読もうかと思っていたけど、なんとなく読み始めてしまった。
〈また、グルゼット氏は酒を好み、釣りを好んでいた。こうして齢を重ね、何人かの貴族に音楽を教えるかたわら、テージョ川で投網を楽しんだ。そして、陽を浴びながら酒を飲むのだった。〉
こういう書き方は好き。
なにが、どういう風に、というのはよくわからない。この一文の置かれ方にも好む理由があるかもしれない。

日記5/20~27

5/20

夜中にたくさん雨が降ると、目が覚めてしまうことが多い。目が覚めてしまったら睡眠不足のまま仕事へ行かなくてはならなくて、そうなるといつもの倍は疲れてしまうし家に帰ったら眠気でぼんやりしてしまうだろうから、本も読めずに一日の余暇を無駄にしてしまうのではないかと不安になって眠れなくなってきたので、今日はなにも書かずに寝てしまおうと思ったけれど、その気分だけ書いておく。
よく眠れますように、と願掛け。

 

5/22

仕事の一日。
先月末あたりから読書メーターを再開して、昔の感想などを見返していたらあまりに恥ずかしくなってたくさん削除してしまった。
そういう自意識って嫌よねーと思う。

 

5/23

休み。
良い天気。
ソファで昼寝。目が覚めたら肌寒くて上着を羽織り外に出てみるとちっとも涼しくなかった。
ちかごろ、休みの日に昼寝をするのがすっかり習慣になってしまっている。
それだけ外に出かけていないということでもある。
出かけていないので今月はいろいろ 
本を読んだりしている。
本当は人と遊んだりしたいのだけどあまり遊んだりしないので、本を読んでいるというところがあるかもしれない。

 

5/25

仕事。
ほんとうに暑い。
職場では昨日から冷房がつきはじめた。
夏バテ?
まだ夏ではないけど、ぐったりする。
フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』を読む。
すごく良い。ただ一回通読しただけではわけがわからない。

 

5/27

ブログを書く気にならない。
暑いせいかもしれない。
仕事中にいろいろと他人のブログを読んだりした。やっぱりブログを読むのは好きだと思う。

『ペドロ・パラモ』を読む。やっぱり良い。
〈おれ〉と名乗る語り手が父を探しにいく。会話や不意に差し込まれる別人物の語りが繰り返され、〈おれ〉から離れていく。
わたしはわたしがいなくなってしまいえばいいと思っているからなのか、〈おれはもやもやとしたものの中に溶け込んでいった〉というような方向に惹かれる。その一方で断片によって成り立っているこの小説は、時系列が複雑に入り組んでおり、そのことは構成する主体を意識させるものでもあるかもしれないなどとも思う。断片集という形式が孕んでいる矛盾が好きかもしれない。