悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

骨のかなしみ

先日の投稿で、私の身体が曖昧だと書いたけれど、それは嘘だ。むしろそうなりたいという願望であったような気がする。だって、不安でたまらない夜を過ごしているけれど、こんなに暑いというのに溶けさえしないのだ。

どろどろに溶けてしまいそう。溶けてしまいたい。
冷房をつけずに窓を閉め切ったまま寝たら、私は死んで溶けてしまうかもしれない。死んだら溶けるだろう。
実際にとけかかったものをみたことがある。掴めば滑り落ちる皮膚と血流が滞りふくらんだ柔らかい肉に触れたことさえある。

ずいぶん前に、フランシス・ベーコンの絵をみたとき、人の身体は肉なのだと思った。同じころによく聴いていたトモフスキーは、〈心と身体はつながってるらしい〉と「脳」のなかで歌っていた。同じアルバムにに収録されている「骨」では〈脳よりか骨だろ〉と歌っていた。〈燃やしたって燃えないんだ〉とも歌っていた。私は骨でいこうと思った。そうだ、以来私は骨である。

骨は暑くても溶けない。
私はけっして溶けない。それでも、あなた方と溶け合ってしまいたいと思うから言葉を発するだろう。
言葉は私とあなた方の共有物であり、言葉であろうとすることは私とあなたが同じものになってしまうことなのでないか。
あるいはひらがなにひらきたくてしかたないのもどろどろに溶けあってしまいたいからかもしれない。
しかし、スマホで入力された文字の明瞭な輪郭は、たとえどんなにひらがなへとひらいていったとしてもそれらはひとつひとつの文字として崩れることはない。手書きだったらわたしもあなたもきっとすでにひとつの線だ。
これは骨のかなしみに似ている。ある晩、灼熱のアパートで死んだ私の身体が確固とした骨としてとり残されているそのかなしみに。表面はかわいている。世界のすべての表面がうっすらと湿り気をおびている夜なのに、私の骨は乾き、溶けることがないままそこにある。

道具に馴染む

道具に馴染む
昨年末、パイロットの万年筆をもらった。
金ペンの入門的な一本だという。入門といっても、自分ではなかなか手がでない。
それはMニブで、同じMでもステンレスのものとは書き味がまったくちがう。どちらが良いというわけではないのだけど、まったくちがっている。
嬉しくて、くれた人の前で、さそっくインクをいれて書いてみた。ところが慣れない書き味のため緊張した字になってしまい、私たちは戸惑った。たまたま広げたノートの6mm罫線は小さすぎたし、なんだか気詰まりな雰囲気になってしまった。

万年筆の世界には、使えば使うほど手に馴染むというある種の信仰のようなものがあるらしい。手ぐせで、ペン先が変化するということのようなのだけど、実際のところはよく知らない。
自分自身によく馴染んだ道具というものには憧れがある。
使い込んで、まるで身体の延長のようになるもの。
料理人の包丁とかミュージシャンの楽器とか。
費やした時間と情熱に、ものそのものが応えてくれるという。
いぜんバイトをしていた植木屋で、はさみの研ぎ方を教えてもらったので、実践して見てもらったところ、最終的には使う人の好みだからとつっけんどんに言われて感動したことがある。

とはいえ、日々ささやかな不安に苛まれる私にとっては、そもそも、道具がよく馴染むというその身体そのものが曖昧だ。
だから、道具とはむしろ私に身体を与えてくれるものなのではないかと、もらった万年筆で書きながら、しだいにその書き味が楽しくなりながら、思った。

道具が私に馴染むのではなく、私が道具に馴染んでいる。
きっとどんな道具であれ、使っていれば私の身体は馴染んでいく。
精巧な工業製品よりも、私の身体はやわらかい。

ところが、ほとんどの場合、私は最初に手にしたときの違和感で、それを手放してしまう。使いにくいな、と思ってしまう。
しかし、手放さずにしばらく付き合いたくなるモノもなかにはある。時間のなかでつくりあげられた価値だろうか。それは権威といってもいいかもしれない。

権威という言葉はネガティブなもののようで、どきどきしてしまう。
しかし、その胸の高鳴りが権威への嫌悪感なのか馴致されることへの悦びなのか、わからなくなり、私はますますあいまいになっていくようである。

様子を見る


会社ではめんどうなことを「様子を見る」という場所に押し込んでいる。会社だけではない。いろんなことを「様子を見る」にしている。

様子を見つつ、サボって野球の動画を見る。
マリーンズの佐々木投手。あまりにもよくわからないので笑ってしまう。すごくダイナミックなフォームですごく速い球を投げる。バッターはびっくりしているようですらある。

少年野球でいちばんダメ出しされるのは見逃し三振だと以前に聞いたことがある。「様子を見る」とは来た球を見逃すことかもしれない、とふと思った。

人生で何度かバッターボックスに立ったことがある。比喩ではない。来た球を見るなんてことはまったく困難なことに思えた。
野球には「外角」とか「内角」とか、バッターの立ち位置から投げられたボールのコースを表現する言葉がある。
ピッチャーはその外角とか内角を一球ごとに微調整して投げてきて、バッターは来るたびに微妙にコースが変わるボールを見極めてバットを振るわけだけど、こうして言葉にしてみたときの、なんとなくそういうものだろうという感覚と、実際にバッターボックスに立ったときの感覚はまったくかけ離れている。

とにかく来た球を引っ叩こうとバットを振ると「ボール球に手を出すな」などと言われてしまう。
野球には「ストライク」と「ボール」という言葉がある。ピッチャーの投げた球があらかじめ定められたコースを通過すれば「ストライク」、そこから外れれば「ボール」となる。「ボール」が4回続くと一塁に進める。それはつまりヒットを打ったのと同じになる。だから「ボール」は振らないほうがいい。それに、「ボール」は比較的打ちづらいところのコースにたいして与えられた名前だから、いずれにしろ「ボール」を振ることは野球の基礎的にNGなのだ。「ボール球に手を出すな」とはそこから生じる。

ところが、この「ストライク」と「ボール」もまったく見分けがつかない。すべては「来た球」として一様であり、それらに違いがあることなど素人にはまったくわからない。

だからこそ、来た球に戸惑い、ただ見逃すより他ない。

つまり、私にとって「様子を見る」とは会社においてもこのような意味だということだ。
しばらく様子を見ます、などと何かを理解したような顔で同僚や上司に言っているけど、実はなにが起きてるかよくわかっていない。

この茫然とした様子見こそが、私が多くのことを眺めるときの基本的なスタンスなのでないか。
観察ではなく、動き出せないからただ見逃すしかない。そのような「見る」。
ただ、バッターボックスと違い、見逃しても誰もストライクやボールの判定をしてはくれない。ある日突然「アウト」と告げられるという説もある。

そういえば、レイモンド・カーヴァーに親しみを感じるのは、彼の文章からはこうした戸惑いを感じるからかもしれない。レイモンド ・カーヴァーの描写には呆然とした「見る」が含まれていると感じる。
チェーホフは呆然とした人々を描いたが、カーヴァーは視点そのものが呆然としている。なんていうふうに、言うことができるだろうか。

youtubeで素晴らしい投手の素晴らしいシーンを繰り返し閲覧し、そこに映るなにも理解していないかのようにボールを見送る、本人もまた一流の選手であるにもかかわらずそうしたことは結局相対的であり超一流と対峙したときにはそれなりに私とも似たような戸惑いをみせる、バッターたちに親しみを感じながら。

たどたどしく読む

つかれている。
そんなこともないかもしれない。
2年くらい、あまり本が読めていない。そのことにも慣れてきてしまった。
少し前まで読みたい気分はあったけれど、それさえも次第に薄れてきているようである。
それでも、惜しいというか残念な気持ちもあり、なんというかもやもやしている。

リハビリ、というと変だけど、この頃は英語の本を読んでいる。
英語の本といっても、子供が読むようなものである。
それをたどたどしく読んでいる。2週間で一冊読めれば大満足という感じだ。
もともと英語はまるでできないので、文法や単語も並行して学ぶ。
まるでなにか意味のあるようなことをしている気になるので、気分が良い。

児童文学というのは、子供むけなのだろうと、なめていたけれど、ほとんど読めない。児童文学といっても難易度にはだんだんがある。学習者向けに、洋書のレベルの指標というのはいろいろあるようだけれど、完全にしっくりくるものはない。とにかくあれこれかじってみて、いけそうなものをいく、というふうにしている。

そして最近になってようやく、私が小学校高学年のころに読んでいたような本の原書にも手が届くようになってきた。
それでも、すらすらと読むわけにはいかない。とてもたどたどしい読み方をしている。はじめて、その本を読んだときよりもひょっとしたらたどたどしいかもしれない。
そのことが意外とたのしい。
このたどたどしさに懐かしさをかんじる。私が物語に親しみはじめたころの感覚に、触れているかのようである。

2023/01/12

印象的な出来事があった日を振り返るとき、その出来事以前の時間も、まるでその出来事に影響受けているかのように感じる。それは、振り返る私の視点がその出来事に影響を受けているからなのだろうけど、感覚としてとても不思議なものだと思う。

そのような印象は、日記をつけるならば毎日起きていることだろうか。
もちろん、日中あれこれと記したメモとそのメタ情報をジャーナル的にまとめあけだものは、仮にそれを日記と読んでいたとしても、出来事に出来事以前が影響を受けているという感覚は少ないかもしれない。

私は日記という言葉から、日記を書く時間を思い浮かべているのかもしれない。日記を書こうかな、と新しい習慣への期待をするとき、期待しているのは日記を書く時間の敬虔さなのだ。

犬のたのしみ

幼いころ、私は外野手だったことがある。
広々とした外野をたった三人で守ることの不安を知っているということだ。
後ろに逸らしてはいけないという緊張を抱きながら、右中間を抜けようとするボールを追いかける。
追いかける、という表現は内野手より、外野手にこそふさわしい。目でみて、推測し、微調整しつつ目線を切り、全力で走り、追いかける。
不安と共に、そのことには喜びもある。
広いグラウンドで、ボールを追いかけて走る。まるで犬のようだが、犬もこのように喜びを感じていたら、嬉しいと思った。あるいは、ボールを追いかける私は、野原を駆ける犬のように美しくあるだろうかと思った。
たしかに、グラウンドを駆ける外野手たちは美しい。
バッターの打ち上げたボールが、地面につくまえに捕球する。息をのんで見守る瞬間。錯覚の永遠。言葉では捉えることのできない永遠ではなく、外野手のお尻を描いた「ヤクルト・スワローズ詩集」はただしい。
数字と内面だけが支配しているかのようなプロ野球の世界もまた、それはただただテレビ中継のせいなのであり、球場で見る、フィールドに点在する野手たちの姿は、内面などないかのように、遠く小さい。その美しさとユーモアを、ほんのごくわずかであれ、幼いころの私もたたえていたかもしれないということは生きることの慰めのひとつになるだろうか。

2022/07/08

7時10に起きた。
目覚めが悪い。曇っていると、たいてい目覚めが悪い。ような気がするけど、本当のところはわからない。毎日目覚めが悪いのに、曇っている日だけ、ああ曇っているからだと思っている可能性もありそうだ。
曇っているといっても薄曇りで、暑くなりそうに感じた。
とはいえ日が出ていないので日傘は持たずに家を出た。
いつもより3分くらい家を出る時間が遅かったのですれ違う人の顔ぶれも少し違った。この人とここですれ違うなんてだいぶ遅いな、などと思い早歩きになった。
会社は冷房がついていなかった。職場環境として成立してないので帰宅してもいいんじゃないかと思った。
10時頃にパートの女性が事務長に「冷房入れましょう」と言い冷房がついた。私もびしっと言える人になりたいと思った。すべき要求をすること。冷房がついたので扉をしめる。扉のわきの温度計を見ると27.2度だった。
午前中はちっとも仕事をしなかった。
午後に会社を出る時間があるので、その時に何を読もうかなと考えているうちに時間が過ぎた。
お昼前に安倍晋三が襲撃されたというニュースをみる。
11時55分にSにLINEしていた。
Twitterは見ない。と思いつつもみてしまう。 しかし、一日45分に設定しているTwitterアプリの制限時間が来て、やはり見るまいとあらためる。
職場の人たちが話している。
話の内容を書いてみたがやはり消す。
14時頃に事務所の廊下から変なにおいがする。誰かのお弁当のにおいだ。

15時31分にdodaから電話がくる。
16時前にSから電車がとまっていると連絡がくる。冷房もとまってしまい暑くて敵わないという。京葉線らしい。
16時過ぎ。出先の待合にテレビがあった。病院を映していた。音はほとんど聞こえない。私以外に5人くらい椅子に座っている人がいた。テレビの画面を眺めている人もいた。テレビの画面を見ていない人もいた。私はテレビを見たり、kindleで『青天有月』を読んだりする。
17時55分にdodaから電話がくる。
定時10分過ぎに会社をでる。
帰り道に買い物をしようとしたけど、財布のなかに300円しかなく諦める。
オザムはクレジットカードが使えない。
駅前の交番の前に略帽の警察官が立っていた。いつも立っている。彼の目線を追うとロータリーの歩道橋の上にも警察官が立っていた。
帰宅すると水道代の請求に気づく。税込2743円。
ATMに寄るのを忘れたことに気づく。
ATMに寄る、とリマインダーに登録する。
冷凍にしていたおかずをあたためて食べる。
結局、パソコンでTwitterをみる。
先日購入したバルガス=リョサ『世界終末戦争』を読む。税込4180円。登場人物が多そうなので、メモをとりながら読むことを試みる。
ノートに書こうと思ったが、やっぱりipad miniapple pencilで書くことにする。ひさしぶりなので充電が切れていることに気づく。充電している間に私が持っているのより新しいipad miniapple pencileを検索して調べる。しかしappleストアがアップデート中とのことでわからない。そのままsafariでネットをみていると来週の井岡一翔対ドニー・ニエテスのボクシング興業がparaviで見れることを知る。月額1017円。safariの制限時間がくる。
結局ノートにメモをとる。kakunoの太字は良い。果物のように柔らかい。いろいろ書きたくなる。いろいろ書いてみる。一日のうちでいろいろ思っていたことに気づく。いろいろ思ったことをいろいろ書いてみる。
シャワーをあびる。ストレッチをする。シャワーをあびる前に冷房をつける。