悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2022/07/02

字が読みにくい気がする、と思ったらチカチカと視界がぼやけるというか、妙な感じがした。

先日、会社の健康診断のさいにレントゲンでひっかかり、大きい病院へ行ったところ、ナントカという聞きなれない肺のリンパが腫れる病気かもしれないと言われた。難病です、などと言うので不安に思ったけど、たいていの場合は自然に治るので経過観察するという。かもしれない、というのは病名をはっきりするためには入院して検査しなければわからないと言われたからだ。ただ、病名がはっきりしたところで現在の症状だといずれにしろ経過観察らしい。病名がはっきりすると、難病なので国から治療費の補助が出るという。ひとまずこのまま3ヶ月に一回くらいのペースで病院に通い様子を見ることにした。
帰り際、先生から何か異変があったら3ヶ月経つ前に来てください、例えば目が変とかなどと言われた。
帰り道に、病名を検索すると不安になってきた。自然に治るというものの、そうでなかったらどうするんだろうか、とまるで明日にでも死ぬのではないかという気分になってしまった。とはいえ、今現在は特に症状などなく処置もただ様子を見るだけなので、周囲の人から同情をかって慰めてもらおうにも迫力にかける気がしてもやもやしていた。

そういうことがあったので、視界がチカチカしてると気づくと途端にすごい不安におそわれた。
目が見えなくなったらどうしようと思った。本を読むことはできなくなってしまう。そのかわりに落語をきいたりすればいいのではないか。ああ、しばらく前にApple Musicに落語があるのをみたけど、いまもあるだろうか増えていたりするだろうか、ところで目が見えるって変な言い方ではないだろうか、まるで目が「見える」の目的語みたいではないか、落語といえばサンキュータツオの書評で知った汀日記という落語家の人が書いたエッセイ集を買った。変な書き方をしている。面白くて、好きな文章の書き方をしているけど、この「誠実さ」あるいは「真摯さ」を表しつづけなくてはならないような息苦しさはなんなのだろうかとも思う。『ほんのこども』にも似たようなことを思った。いろんな人が『ほんのこども』について書いてる。すごく意欲的な作品で、例えば大江健三郎の『同時代ゲーム』かもしれないし、高橋源一郎の『ゴーストバスターズ』かもしれない。

しばらくすると、少し冷静になり視界がチカチカするのははじめてのことではないことを思い出した。咄嗟に直近に告げられた病名と結びつけてしまったものの、それは中学生くらいのころ頻繁に起きていたことだった。チカチカするのは1時間もしないうちにおさまる。しかし安心するのも束の間で、次は頭痛が起こる。この頭痛がつらかった。というか、チカチカがおさまり頭痛を待ち受けなくてはならない時間がつらかった。
多いときは2週間に一回くらいの頻度で起きていたと思う。
高校生になったあたりから、その症状はあまり発生しなくなった。何年かに一度忘れた頃にやってきて、3年くらいまえに福生のタイ料理屋で起き以来このところは平穏だった。

ところが久しぶりにそれがやってきた。
この3年間で、ひとつ変わったことがある。これがどうやら閃輝暗点というものらしいということがわかった。それなりに苦しんでいたはずなのに、なぜか病院へ行こうともせず、特に調べもせず、ときおりあの頭痛はなんだったのだろうと思うばかりだった。
閃輝暗点は、1年くらい前にたまたまTwitterであの症状について書かれた文章か、漫画だったかをみて知った。すごくすっきりした気持ちになった。今まで生きてきて、いちばんすっきりしたと思う。
もちろん、病院へ行ったわけではないのではっきりしたことはわからない。私は、ちょっと痛みに弱いというか大袈裟なところがあるので単なる勘違いかもしれない。逆に脳の血管が詰まったりしてる前兆かもしれない。急に死ぬかもしれない。その方が良いかもしれない。

芥川龍之介の「歯車」も閃輝暗点だったという説があるらしいということも知った。それまでみんなが芥川を誉めるのは短いから手に取りやすいだけだろうと侮っていたけれど、とつぜん親しみを感じた。
良い機会だからと買ってもみた。
実際のところ、頭痛がおきたのは6月の中頃で、そのときに前の段落まで書き、「歯車」の感想も付け加えてから公開しようと思ったのだけど、このごろは『街と犬たち』が楽しいし、薄い岩波文庫版のそれは開きさえすればいつでも読めそうな気がしていつまでも読まないでいる。さいわい、それいらい頭痛はおきず、急に倒れたりもしていない。
心配性だね、などと言われて照れ笑いをしたい。

2022/06/18

大江健三郎『美しいアナベル・リイ』で、登場人物のサクラさんは「私」の書いた新潮文庫版『ロリータ』の解説を契機のひとつとする。
大江健三郎は実際に『ロリータ』の解説を書いていて、私はそのことを知らなかったので、つまり『美しいアナベル・リイ』をいままで読んでいなかったということなのだけど、読むことにした。ただ解説だけを読むのはもったいないので、『ロリータ』本編も読むことにした。
一通り読み終えてみると、面白く感じた。
ハンバート・ハンバートに先行してロリータを誘惑していた人物が明らかになったとき、なるほどと思った。これは20世紀の小説の悲哀なのだと理解した。堅牢で隅々まで神経の行き渡った堂々たる『ロリータ』の宮殿は、とたんにツルツルとして作り物めいて見えた。それはたいへん切実なことであり、感動的なことに思えた。友人に電話して(その人はロリータを最初の100ページくらい読んでよむのをやめてしまったらしいが)、感動したという話を一方的に話していたら、たしかにその感動は間違いのないものに思えてきた。
ところが、「あとがき」でナボコフは象徴的な意味を取り出すようなやつは馬鹿だというような書きぶりで(それにしても、少し前に『ロシア文学講義』を読んでいた時も思ったけど、ナボコフハンバート・ハンバートなみにいかがわしいと思う。ナボコフの文章を偉そうと思うか、大変勉強になると思うか、いかがしいと思うか。)、そういわれると、なんだか恥ずかしい気がしてきたので、読み返そうかどうか迷った。でも長いしなみたいな。

大江健三郎の解説は「野心的で勤勉な小説家志望の若者に」というタイトルで書かれている。たいへん良かった。ロリータからの突然の来信で急な旅に出るハンバートが、まだ眠っているリタの臍にセロテープで別れのメモを留めるという部分を取り出して、これが良いという。ナボコフが『ロリータ』を再読はしないが懐かしみながら思い出すと書くのを受けてである。
やっぱりもう一回読みたいような気がしてくる。読んでる最中にとったいくつかのメモをみながらぱらぱらと読み返し迷う。
迷いながら、『美しいアナベル・リイ』を読み始めたら、それほど長くないので、ひとまずこちらを読むようにした。
ハンバート・ハンバートの声がまだ反響しているので、冒頭のカッコ書きも不整脈と言う心臓に関わる不調もまるで『ロリータ』との関わりとしてあるかのように思ってしまう過敏さもしだいに薄れつつおもしろく読む。

2022/06/15

尾崎一雄「赤城行」を読む。
会社の昼休みのこと。なにか読もうとkindleアプリで本を開いたり閉じたりしていたら、先日車で群馬へ出かけたからか、赤城という字が目にとまった。
私は群馬といっても伊香保に出かけた。だから赤城とは別になんの関係もないといえば関係ない。伊香保へも、別に泊まりで行ったわけではない。温泉にも入っていない。ただ、なんとなく出かけていき、階段を上り、そしておりた。
「赤城行」で「私」は「ただ何もせずぼんやりしている、何も考えず静かなものたちの中でうつらうつらと──何時間経ったか何日そうしていたかも判らぬような時が過ごしたい、そんなことが切に望まれるのだ。」と語っているが、私もそんな気持ちででかけたのかもしれない。私はあてもなく出かけたが、「私」は違う。赤城を選んだのには理由がある。
行くのなら先ず赤城へ──これは前から思っていたことだ。それに、志賀直哉先生に赤城を場面とした作品があり、赤城の風物はこんな私にとってこの上ない休み所と思われたからであるが、先生が親しまれた地へ自分も行くと云うことが第一に私を惹きつけたのである。  

聖地巡礼みたいなものだろうか。志賀直哉と赤城と言われてもピンとこないくらい、私はものを知らないのだが、「私」は志賀で赤城といえば「焚火」だという。あれは赤城山の大沼が舞台になっている。

「赤城行」は前橋のバス停からはじまる。バスの発車を待っていると雨が降ってきて、「私」と案内役の酒井は赤城の天気を案じる。「焚火」も「その日は朝から雨だった」というようにはじまる。
「私」は翌朝に山をのぼっていく。しかし大雨になり同行者がやめようというので途中であきらめる。やがて雨があがると、「私」は焚火をやりたいという。「焚火」の真似をしたいのだ。雨が降ったあとなので木が湿って焚火はできないのではないかと言われると、「私」は白樺は濡れていても火がこたえる。「私」はこの知識を「焚火」から得た。
しかし、火はまったくつかず、けっきょく焚火はあきらめることになる。
結局焚火は出来なかった。四十分以上もかかり、マッチ一箱を空にしたが不成功だった。二三日続いた雨空で、枯枝は手に重い程濡れ浸っているのだ。しきりと工夫している私を、酒井はにやにや眺めていたが、しまいには気の毒にでもなったか身を入れて手つだってくれた。が、ついに駄目だった。  

「焚火」にはたしかに白樺は濡れてても燃えると書かれており、実際〈白樺の皮へ火をつけると濡れたまま、カンテラの油煙のような真黒な煙を立てて、ボウボウ燃えた〉とあるので不憫だ。

「焚火」は幽玄と言ってもいいような、怪談めいた話が焚火の場面で披露されるが、帰り際に「赤城行」の「私」が聞かされるもっと生々しい話だ。

「ときに、あれは警察自動車じゃないか。うん、心中未遂の検証だな」中爺さんが、道の向う側に置いてある車を顎でしゃくった。  
「そうだよ、大分前に登ってったからね、今に帰ってくるだろう。警察も楽じゃないね」亭主が引取った。  
「するてえと、御両人を拝めるわけだね、こいつは見ものだ」皆は面白そうに笑った。  
「私」の側で交わされる心中の話は盛り上がり、「私」はうんざりしてしまう。
私はだんだんと気がふさいで来た。こんなところへ、昨日の未遂者たちが降って来たらたまらぬと思った。  

とても期待して出かけていき、なんか思っていたのと違うというのはよくある。その上手くいかなさがユーモラスで良い短篇だと思った。

なにごとも期待しすぎずにいたほうがよいのかもしれない。
とはいえ、あてもなく伊香保へ出かけた私は私で、もう少し下調べしてきたほうが楽しめたかなと思ったりもしたのだけど。
ところで伊香保方面から前橋方面へと車を走らせていると、降っていった遠い先のほうがなだらかな傾斜になっており山の形をしているのが見えた。
私の育った町では山は遠くのものを遮るものだったが、そこでは遠くにあるものこそが山であり、なんの隔たりもなく眺めることができるのが印象深かった。あれが赤城山だったのだろうか。

2022/06/09

病院へ行く。
歩いて行こうと思ったが、家から出て歩き始めたら突然面倒に思えてきたので、電車で行く。
途中で図書館により、借りていた本を返す。
堀江敏幸村田沙耶香のエッセイを借りる。新刊コーナーにフリオ・リャマサーレスの短編集があったのでパラパラとみる。面白そうだと思ったが、どうせ読みきれないのでやめる。
病院は予約していたので待たずに済む。CT撮影をする。CT撮影は初めてだったので緊張した。その後診察までに2時間くらい間が空くといわれる。一度病院を出て、マクドナルドへ行く。朝食を抜いていたのでたくさん食べてしまった。診察の時間までそこで本を読んで過ごそうと思ったが、もし予定より早めに順番が回ってきて、飛ばされてしまったらどうしようと心配で仕方なくなり、結局1時間前には病院へ戻る。
待っている間、『ロリータ』を読む。注釈を眺めていると、私には楽しめないかもしれないと不安になる。でも、面白いような気もする。人をくったような語り方なのかもしれない。そんなような気がする。
病院が済んだら、Sと会う。
立川のスシローへいく。16時前のひっそりとしたスシローは味わい深いものがある。人がたくさん並んで子供たちの騒がしい声がする国道沿いの回転寿司しか知らなかったので新鮮。
そのまま銀だこへいく。軽く飲める銀だこはとても良い。
銀だこはたこ焼きを軽く開いて上に乗ってるものを押し込んで食べる。
大根おろしを詰め込むと、猫舌にもちょうどいい温度になるし、持ち上げた時に上に乗っているものがボロボロこぼれないですむ。
決定的に正しい食べ方だと思っているけど、そんなことはないのかもしれない。
Sはあっけにとられていたようだ。とても品のない食べ方なのかもしれないと思い、途端に恥ずかしくなった。
そういえば、人に言えないご飯の食べ方というのはある。
他人に見られたらちょっと恥ずかしいかも、などと考えて人前ではきちんと食べるが本当は別の食べ方をしたいというか。指を舐めたくて仕方がないというか。
例えばカップのワンタンスープ。私はお湯を入れる前にまだ乾燥した状態のワンタンを一つ食べる。
これはちょっとあまり人に見られたくないと思っている。恥ずかしい。それほどではないかもしれないが、それほどかもしれない。
パリパリしていて意外と美味しい。
パリパリしているものが好きなのだ。
食感人間と自称している。
銀だこもパリパリしている。

2022/06/07

風呂からでると暑く感じる。この熱を冷まさないととてもじゃないが寝られる気がしない。
暑くなってくるとそういう日が増える。
真夏というような時期になると冷房をつけることにためらいがなくなるから、梅雨前くらいがもっともそのような日が多い。今からエアコンをつけていて夏を乗り切れるだろうかと、変な気持ちがエアコンをつけることをためらわせる。
梅雨に入ったらしいのでそのような日は減るかもしれない。昨日今日などは涼しい。

窓をあけておくと虫が心配でいてもたってもいられず、あまり開けない。とくに夜は外より部屋が明るいので不安が大きい。部屋の灯に吸い寄せられて虫が集まってくるのではないかと思ってしまう。網戸に虫よけのスプレーをかけ、さらに虫が寄り付かなくなるという板チョコみたいな形をしたモノを網戸につけている。その上で窓は閉めている。
しかたがないで、なにがしかたがないのかわからない気もするが、外へ出てみる。そういう日はたいてい外のほうが涼しい。
コンビにでアイスを買って駅前をうろうろする。外で歩きながら食べるアイスはおいしい。
駅前はかつてはそれなりに賑わいがあったらしい。いまはすこし寂しい。
明るくて屋根があって座れるところがあれば良いのにと思う。そうしたら夜の時間をそこで本を読んで過ごすかもしれない。

ちょっとやんちゃそうな男の子が女の子と連れ添って駅前の雑居ビルの階段をのぼっていく。ビルにはバーの看板が出ていた。どんなバーなんだろうと想像する。彼らの仲間が集まっているバーなのかもしれない。
先輩が経営しているとか。東京の極西の少年たちは夜な夜な駅前のバーでなにをしているのか。好奇心のままに私も階段をのぼりバーの扉を開けることができたら、私も多少はおもしろい話のできる人間になれるのかもしれない。しかしそうはなれない。勝手に書いてしまうというのもある。

だいたい私はブログには嘘ばかり書いているような気がする。
ときどき読み返してみると、書いた出来事より書かなかったことが思い浮かぶ。ああ、あのことやあの感情は書かなかったなと。しかし書いていないことなのでそれらは不安定だ。今の時点になって、そのように感じるだけなのかもしれないという不安はぬぐい切れない。
書かなかったことはひどく不安定だが、書いたからといてなにか確かなものになるわけではない。
世の中には、自分はこうだと書けばそのようなものになると思っている人もいる。もしかしたらその人はそうなのかもしれない。私は違う。だから書いてみて少しずつ私を修正する。
この試みは不毛だ。いかなる書かれた私も私自身と重なりあうことなどないことを知っているからだ。
だとすれば、もっとなんでも書いてみればいいと思うわけだ。
例えば雑居ビルの階段をのぼっていくやんちゃそうな少年の向かったさきとか、そんなことも勝手に書いてしまえば良い。

プールの裏側通信

みなさんこんにちは。
お元気ですか。
私はあまり元気ではありません。
3ヶ月に一度くらいのペースで、郵便受けにガス料金値上げのお知らせが入っています。
暑くなってきて、お湯を使う機会が減ったのでよかったですが、冬になったらどうなってしまうんだろうと考えると、それだけで眠れなくなってしまいます。

最近は小川洋子『密やかな結晶』を読んでいます。
小川洋子は中学生くらいのときから読んでいて、当時は特に好きでした。でもこの本は読んだことがありませんでした。読み始めてそのことに気づきました。読んだことはないのに、不思議と私の小川洋子の好きさみたいなものがよく思い出されました。静けさと生々しさのようなものです。この小説は世界についてあまり語られないことによる空白感と設定上語り手の内面に生じている空白感がうまく噛み合っていると判断できるならば、良い小説のような気がします。
私はささいな場面から10年以上昔に読んだ小川洋子の小説の、感触だけは思い出せるけど、具体的な場面などは思い出せない感じが、この小説の中で登場人物たちが消滅してしまったものに触れながらぼんやりとそれについて思い出すような思い出さないような感じと重なるような気がして、面白く感じました。

ところであまり馴染みのない書き方をするといつも以上に自分の文章が下手に感じます。
歩くとき手足の動きを過剰に意識すると歩行がぎこちなく感じるのと似ています。
私は映画やドラマをみると、すぐに影響されてしまい所作を真似したくなるのですが、そういう時にぎこちなさを感じます。
文章も同じかもしれません。誰かの文章を真似ようとするとギクシャクを感じます。一度そうなると、元に戻そうとしても上手くいきません。それはつまり自分自身が変化してしまったということなのでしょうか。よくわりませんが。

さて、今回は以上です。
それではさようなら。お元気で。
また次回。

2022/06/02

少し前のこと。最強どん兵衛というのがあるらしいときいてコンビニへ行ったが売っていなかった。
私はカップ麺のなかでは、どん兵衛のそばがいちばん好きだ。いや、緑のたぬきかもしれない。
中学生のころ、部活を引退して早く家に帰るようになるとなんだか空腹でたまらずカップ麺のそばを毎日のように食べていた。すると高校に入学してすぐのクラス写真に、ふくふくとしてあまりにかわいらしい自分が写っていたのでショックを受けたのを覚えている。その時、これ以上ふくふくしたら私がたぬきになっちゃうなと思った気がするので、私が好きなのは緑のたぬきだと思うけど、実際は両者の違いがわからない。わからないというか、食べ比べたりしない。比べることの厳密さに恐れをなして、違いに気付かないふりをする。

野比のび太は、たまたま手にした1000円でカップラーメンを10個買って一気に食べるという夢を叶えていた。私はそういう愚かな夢を実現せずに来てしまった。そのせいで退屈な大人になったのかもしれない、などと思いつき嫌な気持ちになる。

ここしばらくはコンビニへ行くたびに、カップ麺コーナーをのぞいている。しかし最強どん兵衛はどこにも置いていなかった。スーパーにもない。帰り道に、わざわざすこし遠いコンビニへ行ってもなかった。

このあたりでは、売ってないのかもしれないとなかば諦めつつ、それでもスーパーやコンビニへ行くたび律儀にあるかどうかチェックをしていた。

一週間くらい経ち、これはもはや趣味だなと思った。
私は最強どん兵衛を探すことを楽しんでいる。没頭している。
あるかなという期待感を持ちつつ、あまり立ち寄らないコンビニへ行く。しだいにコンビニのささやかな違いにも目がいくようになる。

発売したばかりのゲームをもとめて、親と一緒にゲーム屋やおもちゃ屋をはしごしたことを思い出す。

学生時代にコンビニでバイトをしていたとき、一番くじの発売日に日付が変わるとともに現れた客が全部買い占めていって、その後夜中の2時頃に小さな子どもとその親がとぼとぼとやってきて「一番くじはありますか」などときかれたので、私はなんてひどいことをしてしまったのだろうあんな転売屋に売ってしまうなんてとひどく後悔をしたのだけど、あの子もいずれ、その夜のことをふとしたきっかけで思い出すのかもしれない。

そして今日。私はとうとう最強どん兵衛をみつけた。県をまたいだローソンにあった。そばとうどんがあり、それらのパッケージは光っていた。本当にキラキラと輝いていたのだ。私は手にとり、どちらを買うか悩んだ。ひとつ300円くらいした。両方とも買うのは高いような気がした。悩んでいると、なんだか悩んでいることがめんどうに思えてきてどちらも買うのをやめてしまった。ヤクルト1000が2本売っていたので1本買った。