悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2022/05/31

静かな午後には、水の中にいるようだと思うことがある。

古いビルの一室にある事務所はコンクリートがむき出しになっていて、私以外には誰もいなかった。
室内はほの暗いブルーの色合いを湛えていた。曇っているためか。窓は灰色だった。
ちらちらと窓を眩しく感じた。窓を開けたら雪が積もっていてもおかしくないと思った。それは室内は冷房がついていて暑く感じなかったからかもしれない。
室内は涼しかった。
私は水の中にいるような気がしていた。
この室内は水の中にあり、白っぽく光る窓が水面だと想像してみると、なんだか良い気分になる。
ああ、いまは水の中にいるようだと思う。
昼間の明かりが消えた室内で一人になるとき、私はなぜかそのように考える。
電気のついていない室内は、白と黒と灰色があり、それらはほんのり青色をおびている。その青色こそが水中らしさ、というか水そのものかもしれない。秘められた色合いが滲みだし、空間をおおう。
コピー機が小さいな明かりをともしている。
電子機器の微かな作動音は、水槽のポンプに似ている。
水中は静かでゆっくりとしている。
静かでゆっくりとした時間を私はたぶん良いものだと考えている。
なにか、不意にあらわれるそうした時間に与える名前のひとつとして水中にいるようだと思うのかもしれない。
なぜなら静かでゆっくりとした時間は重要なもので、決して取り逃がしたくはないからだ。
言葉があいまいなものであるのは、時間を先取りしないためかもしれない。
あらかじめ、水中を期待することなく日々を過ごすために、あいまいな言葉をひそめている。
全体がスローになるのを感じる。
私以外は限りなく静止しており、私もまたそれらのバランスを崩すことなく、ゆっくりと歩くことができる。

二人乗りの自転車に乗る、深刻な話をする

去年のいまごろのこと、私たちは昭和記念公園に遊びに行った。
休日だったのでたくさんの人がいた。
私たちは自転車で園内をまわることにした。普通のママチャリと二人乗りの自転車とを貸し出しており、私たちは二人乗りの自転車をレンタルした。
漕ぎ始めるとふらふらするので大人げなく騒いでしまったが、一生懸命漕いでいると次第にスピードが出て安定した。

園内には起伏があり、日頃ほとんど自転車に乗らない私たちにとってはよい運動だった。私たち以外にもたくさんの人たちが自転車を漕いでいて、坂をのぼったりくだったりしていた。
そして、私たちはたいへん深刻な話をすることになった。どういう流れであったのかは覚えていない。ちょっと視界に入ったものから連想して、ぽろっと口に出てしまったのだろう。迂闊になってしまう良い陽気だった。

深刻な話というのは、将来とか人生とか、考え出せばきりがないし満足する結果なんて決して出ないのにも関わらず、私たちが私たちであるためには話し合わなくてはいけないようなことだ。

しばらく漕ぎ続け、ときとぎ自転車を停めてあたりをぶらぶら歩く。ぶよぶとした大きなバルーンみたいな遊具の上にぎっしりと集まった子供たちが気ままにぴょんぴょんと飛び跳ねるのをみたり、小さい池でボートに乗ったりした。自転車を降りているとき、私たちは飛び跳ねる子供たち、ボートに乗る人たちの印象やお昼に食べたいものについて話した。
そして自転車に乗ると十分なスピードが出るまでは重たいペダルを漕ぎ、ふらふらとゆっくり、深刻な話を再開した。

私たちはこれまでよりもうまく話すことができた。
これまで深刻な話は深夜のダイニングテーブルで向かい合ってするものだと思っていた。まさか二人乗りの自転車ですることになるとは思わなかった。
なんというか、人と真剣に話すときはお互いの表情なんかをよく見て、テレビとかそういう気が散るようなものは消してしなくてはいけないと思い込んでいたのだ。
しかしどうだろう。その時私たちはひょっとしたら目を見ることによっては出ない言葉もあるのかもしれないと思ったのではないか。
言葉だけが存在しているかのような生硬さを自転車の漕ぐことでいくらかやわらかいものにかわるというか。

勢いよく下り坂をくだるとき相手の声は聴きとりづらくなり、必死に上り坂をのぼるとき荒くなった呼吸で言葉はうまく発せられない。それでもペダルを漕ぐ足の動きに励まされて会話は続き、互いがいまどんな顔をしているのかわからないまま、何かを感じ取るために耳をすませる。その時耳は体全体であり、私たちの声は肌が感じる温度、自転車の振動、木々のざわめきや人々の喧噪との混ざりあいのなかでむしろ鮮明にメッセージを届けているようだった。
たっぷりと自転車を漕ぎ、私たちはそれなりに満足した気分で帰路についた。しかし、なにかが解決したわけではなかった。

物事には解決する必要のないこともあるのかもしれない。私たちが深刻に話したことがそのようなことなのかはわからない。もしかしたら私たちは取返しのつかない判断ミスをおかしてしまった可能性だってある。
ただ、私たちはある晴れた五月の日に二人乗りの自転車に乗り深刻な話をしたのだ。

私にとって歩くこと

歩くことが好きだ。
ただ、それはすごく消極的な形での好きかもしれない。
積極的な、自らの未踏の地へと赴いて目を凝らしては街中を闊歩していくようなことは、べつに嫌いではないしむしろそれだって好きなのだとはいえ、頻繁にしていることではない。

散歩という言葉も苦手かもしれない。
自由という言葉が苦手なのと似ている。
それらの言葉に途方もない期待と羨望を負わせてしまっているために、口に出すことをためらってしまう。
都内を気ままに歩いてみようと思っても、休日の午後の短さを頭のすみにとどめたまま、山手線の引力からまったく抜け出せずに気付けば線路に沿って歩いてしまう。そのような自分にがっかりしてしまう。

それでも、歩くことは好きで、私にとって歩くことはしだいに散歩とは明瞭に乖離し、その輪郭をとらえはじめている。

思えば、中学生のころ、小学生まではあった通学班というのがなくなり、友達のいなかった私はひとりで歩いて学校へ通っていたのだけど、うっかり口にしたことで嫌われたのではないかと何をしても不安になっていた学校や、家にいる時間よりも、それは穏やかな時間だった。
自転車で通った高校時代も電車に乗った大学時代も同じで、通学する移動の時間は、傍目には「移動」でみたされており、その影に隠れた気ままな瞬間があったのだと思う。

いまはやはり徒歩で会社に向かっているわけだけど、あいかわらず仕事のことも家事のことも考えずに気ままな時間を過ごしている。宙ぶらりんな時間。周りの人たちよりもほんのわずかに遅いペースをきざむ歩き方で私は弛緩している。

しかし、こんなことは趣味とは言わないだろう。仕事や家事などに圧迫され撤退しつづけるなかで見出された、かろうじて一息つける時間だ。

そういえば、趣味というのは無限に凝っていってしまう側にあると思う。生活はそれを押しとどめる。決まりきった道を歩くことは生活の側にあるだろう。
では、決まりきった生活の中にある気ままな時間はなんと呼ぶのだろうか。私は、ためしに慰めと呼んでいる。しかし、あまりしっくりとはきていない。

小声で書く

細字のペンにはまっている。
手帳(というかメモというかノートというか)の紙面に神経質な字を書いている。
先日もsarasa nanoという0.3ミリのボールペンを買った。グレー色。
平日の昼間だというのにロフトが異様な数の中高生に埋め尽くされており、たまたま人がいない棚にあったのがサラサナノだった。何色か試してからグレーを一本買った。

グレーは見にくくて良いかもしれないと思った。
帰宅して普段使っている白いノートに書いてみると、たしかに見にくかった。
青白い昼光色の明かりに白いノートが反射して、首をひねって見る角度を変えたくなった。
会社にいるとき、ついつい仕事にぜんぜん関係ないことを手帳に書いてしまう。
見られたら嫌なので見にくいペンで書けば良いのではないかと思いついたのだ。
しばらく使っていると、そういうバカらしい動機とは違う良さもあるように感じた。

普段、手帳に使っているjuice up 0.3mmの鮮やかさの影に隠れるたグレーの文字は、静かなトーンで話しているように見えた。
同じ文字の大きさで書いているのに、控えめで奥まってみえる。
ああ、小声で書きたいことってあるよなと気がついた。
秘密にしたいこととは違う。小声で書きたい、考えたいこと。
私にたいして小声で話しかける。私は私に耳をそばだてる。その静かな時間。そうした兆しをグレーのペンを滑らすことで発見した。注視してこなかった感情が手の動きに導かれて浮かび上がる。最近の手を動かすことのたのしみのひとつ。

2022/02/24

先日のこと。ふらふら池袋駅あたりから新宿駅方面に歩いていた。
池袋駅を出て、ジュンク堂の方へ向かう。そのまま明治通りを下ると『往来座』という古本屋がある。ちょっと覗いて見ようかと思ったが、閉まっていた。入りかけて、入口に「準備中」とあり、さも入りかけてなどいないフリをして道なりに戻った。
ふと、滝口悠生が学生時代に池袋駅から歩いて大学まで行っていたと書いていたのを読んだ気がして、この道を通ったんではないかと思った。
適当に道を変えながら行くとコクーンタワーが見えた。新宿も近いなと思ったけどそれほど近くはなかった。
高田馬場駅から新大久保方面に坂を上っていくとビルの地下にとんかつ屋がある。休日の朝に美味しいから食べに行こうと友人から電話がきて出かけていくと店の前には行列が出来ており、すでに友人は行列の中ほどにいて、お前も早く並べと列の後方を指さすので私はなぜ呼ばれたんだろうかと思った記憶があったが、その日はぜんぜん並んでいなかった。休みだったのかもしれない。
結局山手線に沿って歩いているだけではないかと、自分の退屈さに落胆しながら公園の前を通りがかると、野球をやっている人たちがいた。よく見るとクリケットだった。とっさに「クリケット」が出てくるなんて、自分は物知りだと思った。誰かと歩いていたら「クリケットをやってる人がいるね」と言えただろう。
投げ手の人は、長い助走をつけてボールを投げていた。本格的なフォームに見えたが、クリケットを愛する国では誰でも出来ることなんだろうか。

13時を過ぎても行列が出来ている店はどこもかしこもラーメン屋のようだった。
『龍の家』というラーメン屋の前を通りかかったときのことだ。
やはり行列が出来ていて、前に来たことがあるような気がした。めったに歩かない道を歩いてきたので、どの辺にいるのかよくわからなかった。周囲を気にしながら歩いていると、もう新宿駅のすぐ近くだとわかった。場所がどこだかわかった瞬間になじみが出てきた。一時期よく来た場所だとわかった。麵通団に行ったり、公園で漫才の練習をしてる人を横目にタバコを吸ったり、一人でヤングインに泊まったりしたのではなかったか。
いつかの思い出とともに、すべての路地が明確になる。不意にやってきた懐かしさほど良いものはないと思った。

2022/02/18

ドナルド・クローヴァー主演のドラマ『アトランタ』の新シリーズがはじまるらしい。
huluで配信されるのだろうか。まだ詳しいことはよく知らないけど。huluは未加入なので、だとすれば余計な出費が増えてしまう。
アトランタ』はすごく良いドラマだ。とても好き。
理不尽な出来事にたいする登場人物たちの反応が良い。不機嫌よりの戸惑い、みたいな表情をする。出来事にたいする戸惑いに、カーヴァーの小説を思い出したりする。もっとも、私はなんでもかんでもカーヴァーの小説を思い出してしまうのだけど。
BADHOPのYZERRが自分たちの音楽に対して「あれに似てるこれに似てる」とばかり言ってくる人たちはあんまり音楽をたくさん聴いていないから、なんでもかんでも自分の聴いてるものに似て聞こえてしまうんだと言っていて、そういうことはあるかもしれない。
アトランタ』は時間が30分なのも良い。ドラマはたいてい1時間くらいで、映画の2時間よりは短く、仕事で疲れて帰ってきた日でも1話くらいなら観ることができる。私は映画を日常のなかにうまく組み込めない。2時間にすこし身構えてしまう。1時間なら、まあ良い。30分だとなお良い。ちょうど良い。『愛の不時着』を今日まで見逃しているのもたぶん長さのせいだ。
ただ、『アトランタ』は意味がわからない部分も多い。理解できていない文脈がたくさんある気がする。
コメディは難しい。教室でみんなが笑っているのに自分だけがピンときていなかった時を思い出す。

昨年出た『フライデー・ブラック』という素晴らしい短篇集の帯には、ケンドリック・ラマーの『To Pimp a Butterfly』と『アトランタ』の名前が並んでいた。
『フライデー・ブラック』は恐ろしい理不尽さを想像力を駆使してというか寓話的にというか、描いた短篇集でユーモアもある。やはり、文脈がよくわからなかったりするけど、いちおう註釈がついていて、註釈はありがたいなと思った。ちなみにこちらは、カーヴァーを連想しなかった。
ドラマにも、註釈がついていたら良いのにと思った。

2022/02/14

昨晩雪が降った。
お昼くらいから雨が降りはじめ、ずっと雨だったけど寝る前にカーテンを開けてみると、いつの間にか雪になっていた。
朝起きるとすでに止んでいて積もるほどではなかった。道の端、車や屋根の上などにはわずかに残っていた。
すでに溶け始めているそれらが、したたり落ちて音をたてていた。その名残の音が好きだ。

会社へ行くために歩いていると電線から溶けた雪が落ちて来る。曇っていて、まだ小雨が降っているのかと思ったけど、そうではなかった。目の前で、それが落ちてくると、道路にあたって音がする。別のところでも同じように滴っているので、目の前のそれと音とがずれて感じるときがあり、繊細なふりをすれば面白がれそうだと思った。

濡れるのは嫌なので、できればその滴りには当たりたくない。
しかし歩道のない道で、通勤車の抜け道のようになってもいるので、道路の脇にのびている電線の下を歩くよりなかった。
高校生のとき、自転車で通学途中に鳥のフンが腕の上に落ちてきたことを思い出した。
止まっているときに落ちて来るならまだしも、走ってるときにこんな目に会うなんてあんまりだと落ち込んで、そのまま帰宅したのだった。
鳥のフンに比べれば、溶けた雪などなんでもないようだけど、それでも避けようとしてジグザグに歩いてみた。そんなことをしても避けれるはずはないのに、いくらかマシな気がした。
朝なので、避けれるわけないとわかっていながらもジグザグに歩いてしまうくらいに頭がぼんやりしていたのだ。朝なので、と付ける必要はあるのか。いつもではないか。

上を向いて、落ちて来るところを見ながらであれば上手に避けれるのだろうかと考えた。
しかしすぐに、不衛生な水が目に入ったら失明などするかもしれないと思い、ぞっとした。そんなことあるのだろうか。ぞっとしたら急に眼が覚めた気がした。周囲の風景から逸れ始めた思考が、突然もとに戻るような感覚。

小さい頃は雪を食べたりしていなかったか。
食べたかもしれないけど、あまり記憶にはない。かわりに、小学生の頃ころ下校途中に同級生と二人で川の水を飲んだことを思い出した。
別に綺麗な川ではない。数日して、その同級生の親から、私の発案でウチの子が汚い川の水を飲んだ、みたいな苦情が私の親の元に来た。
私が同級生と川の水を飲む数日前、私と母が川沿いを歩いていて、母が日に当たってキラキラした川面を「綺麗だね」と言ったから、私が川の水を綺麗だと思い、飲んでしまったのだと、母は私に謝ってきたのだった。