悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記4/4

4/4

暖かい1日。
「人生なにがあるかわからない」という言葉をちかごろどこかで聞いて、たしか偶然の出会いが思わぬ方向に転んでいったという話をしていて出てきたのだと思うけど、休みの日に家にばかりいてはそんなことも起こらないままだと夕方ころにとつぜん不安になってきて、家を飛び出しあたりをうろうろした。
あたりをうろうろする、というのはなんだか怪しい感じがする。
コートの襟を立て肩をいからせ歩く様がよく似合う。
きょろきょろと家々を見回しながらだとなお良い。
しかしそのばあい、「あの人はあたりをうろうろしている」と周りの人から言われるのであって、自分から「あたりをうろうろしました」というのは間違っている言い方かもしれない。

夕方にうろついた以外はソファに寝転んで小島信夫『黄金の女達 私の作家遍歴1』を読んだりした。
図書館で借りてぱらぱらみるくらいのつもりだったけど、思いのほか面白かった。

浩二(宇野浩二のこと)は退院後ぽつぽつ仕事をはじめるが、昭和十二年に、作家論『ゴオゴリ』を発表した。ゴオゴリのことを語るに当たって、浩二はロシアの歴史と文学との関係を辿っている。その中で、「アレクサンドル一世やニコライ一世のきびしい統制や流刑の不幸が幸福なことにロシア文学を生み出していた」と事情をのべる。もっとも幸福と書いたが、これは私がそう書いたが、これは私がそう書いただけであって、浩二自身がいっていたかどうかは疑問である。たとえ浩二がそう書いていなくとも、結果としてそうなるということを私は書いたのである。けっきょく浩二もまた私と同意見だったに違いないのである。そればかりか、八雲もまたほとんど同じ意見だったと思う。

 

こういう書き方は他のところでもしていて、可笑しいのだけど、どういうふうに理解したら良いのかはよくわからない。
後半になるにつれて、連載という形式が内容に影響を与えてくるようで、それもおもしろい。

昨日、明るいことをもっと書こうと思ったけど、明るいことがちっともわからない。
大きい窓があって陽のあたる食卓で、休みなのに早起きしたから手の込んだ朝食をゆっくりと食べるのは明るい。ひとりよりふたり、あるいはそれ以上のほうが良い。喧騒に疲れたわたしたちは会話をしない。それでも、例えば塩の瓶をとったり、コーヒーをカップに注いだりし合う動作は滑らかでコミュニケーションが成り立っていることがわかる。滑らかでかつゆっくり。休みなので急いだりする必要はないのだ。テレビを消してしまうほど厳かではなく、「情報バラエティ」が流れているけど音はとても小さく誰も観てはいない。
10時すぎに目覚めて、一日が始まった時点から敗北の気分のままそんなことを考えたり。

日記4/3

4/3

今週はなかなか忙しい。
それでも、たいした残業があるわけでもないし、はたから見ればとても楽な職場だろうと思う。
こんなんでいっぱいいっぱいになっているようでは、本当にポンコツなんじゃないかと思わずにはいられない。

岩本巌『現代アメリカ文学講義』という本のなかのレイモンド・カーヴァーについて〈誰しもが気がついてるように、カーヴァーの書く小さな物語は一見どこにでもあるアメリカの生活の断片を語っているようでありながら、奇妙なほどに〈不気味な驚き〉を読む者に与えます。つまり、ごく日常的でありながら異常な感覚(非日常性)をかもしだしているのです。〉と書いている。
それは作者による〈作られた狂気〉があるかなのだという。
わたしはカーヴァーの小説を読んでいるとき、会話の成り立たないような、言うなれば頭の悪そうな登場人物が出てくるたびに、もっと素朴にこういう人いるなと思ってしまう。

仕事中、わたしの話していることがまったく理解されないことがある。瞬発的に、相手のことをまったくばかなんじゃないかと思ってしまうのだけど、相手も同じようなことを思っているからお互いの言っていることが理解できないのだという可能性はとても高い。
相手のことをばかだと思っているわたしの方がばかで相手は実はばかじゃないとか、わたしが正しくて本当に相手がばかなのだとか、そういうことではなくて、お互いにほどほどにばかというのが真相なのではないかと思う。

重要なのは、そうは言ってもきっと根っこのところでわたしは自分のことをそれほどばかではないと思っているし相手もきっとそうなのだということで、だからこそ歩み寄りは困難だし、この絶望は深い。

カーヴァーの小説を読んでいるときに感じるやりきれなさはこの絶望に近いように思う。

ふだん小説を読んでいると、こんな賢しい会話があるもんかと思うことが多いのだけど、じっさいに世の中には非常に高度な会話をしている人も少なからずいるのでけっこう驚く。

 

ちかごろ暗いことばかり書いている気がするのでもっと明るく前向きなことを書いたりしたい。
日記などといいつつも、人前に晒しているこの文章の装いは日記風なのだし、わざわざ暗いことばかり装っていても辛くなるだけかもと思う。春だし明るい色の服を着よう。

日記4/2

4/2

すべての空き巣は固有の方法を持ち、一度捕まれば痕跡はたちまち辿られてしまう悲しい技術。
空き巣の悲しさはあまり儲からないということもある。

本日は仕事が忙しかった。忙しいのに、あくびがしょっちゅう出てしかたがなかった。昼過ぎからしゃっくりが止まらなくなり、あくびをしている最中にしゃっくりをすると、ヒャっと音が出てしまう。しゃっくりは夜になってもとまらず。今までもしょっちゅうしゃっくりが出るし出ると止まらなくなると思っているけど、他の人のしゃっくり事情については知らないのであんがい他の人も同じくらいしゃっくりが出ているのかもしれないし、そうだとすればわたしは他の人のしゃっくりにほとんど気がついていないので他の人もわたしのしゃっくりには気づいていない可能性がある。あるいは死ぬのかもしれないとも思う。しゃっくりが止まらなくなると、これはなにかのっぴきならない病気の前兆で、そのために死ぬかもしれないと思い不安になる。しゃっくりが原因で死ぬと死んでもしゃっくりをしていそうだ。
みんながお焼香をしているさいちゅうにもヒャッ、ヒャッとなるのはちょっとおかしい。
棺桶もその度に揺れたりするかもしれない。

しゃっくりが止まらなくても幸いにして不幸にして死ななかったので帰宅後は「私の作家遍歴」などを読んだりした。

ゴーガン(ゴーギャンのこと)はタヒチへいく。ゴーガンはヘルン(小泉八雲のこと)と同時代人で「私の作家遍歴」の著者は通底するものをみる。

海の上にある時は人は、目ざす陸地に辿りつけるということを、本当は考えないものだ、という。暴風雨や難破という事故のために、辿りつくことが僥倖だというのではない。陸地のまわりに海があるというのではなくて、海を進んで行くと、偶然のように陸があった、ということだからだ、という。陸地はそれほど心細い存在なのだ。実は海が主であるのだ。そうなると、どの陸も、海から見れば同じものともいえる。近づくと、木が茂り人が動いている、そしてそれがやがて街なのだ。 

 

という文章に続いて、

最初に見たところ、この小さな島には、何のふしぎなところもなかった。例えば、リオ・デジャネイロのすばらしい港に比ぶべくもない。目を皿にして、私は比較しようなどとは考えずに、この島を見つめていた。

 

というゴーガンの文章を引用する。作者は目をさらにしてというところに注目する。
さらに続けて、

ヘルンが初めてみる西インド諸島をえがいたり、日本の横浜をえがいたりする筆致と似ている。わたしはそういう文章を、とりたててくわしく紹介しようとしなかったけれども、ここで読者に想像していただければありがたい。 

 

と書き、ヘルンの話に戻るのだろうかと思わせつつ、ヘルンについて〈やはり次のような性質のものを、皿のような眼は見ていたのである。〉としたうえでやはりゴーガンの文章を引用する。

これは太古ノアの洪水に沈められてた山の頂きで、わずかにその頂きの先端だけが水面に出ているのだ。そこへある家族が脱れて来て(これは疑うべくもない)生活の根をおろした。珊瑚もまた、その新しい島をとりまき被うてはびこった。次第にその家族はふえて行った。しかし、それは、祖先からの孤独と淘汰の性格を保っていて、海がその偉大さを強調して鳴っている。

見ていたというより、どのように見ようとしていた、といった方がよかろう、と私には思える、見ようとしていたものが、ヘルンとよく似ているということである。

 

ヘルンについて語るのかと思いきやゴーガンばかり引用するのがちょっとおもしろい。

ヘルンが話の中心なのではなくて、あるいはヘルンとゴーガンを強引に結びつけようとしているわけでもなくて、ゴーガンについて語ることがそのままヘルンを語ることになっており、しかもそのヘルン像はほとんどゴーガン(なにしろ語られているのはゴーガンなのだから)に思える。なので「ヘルンの話に戻る」という言い方は間違っているかもしれない。
この両者の距離、さらには両者を対象としたときの作者との距離に独特のものがあるのかもしれないと思う。
面白く読んでいるような気もするけれど、論旨のようなものはちっとも理解していないような気もする。

日記4/1

4/1

〈そして、僕が十六年前と同様、自己弁明のためにルソーと彼の『告白』という先例を引くのも、以前ほどの自信があってのことではないことを断っておかなければならない。なぜならば、不正をきわめてはいるが−−少なくとももっとも醜悪ないくつかの面においては−−間違いなく修正可能なこの世界、つまり僕たちが生きているこの世界に生きる人間は、誰一人として、逃亡や告白という手段を用いることで責任を果たしたと称するわけにはゆかない、現在の僕はこう確信しているからである。〉ミシェル・レリス『幻のアフリカ』

ちょろちょろと『幻のアフリカ』を寝る前なんかに読んでいる。いまだその分厚さに慣れずどういうふうに持ったらいいのかわからなくて途方にくれている。

それでも引用した序文がよく、期待がある。〈逃亡や告白という手段を用いることで責任を果たしたと称するわけにはゆかない〉。

『幻のアフリカ』を読んでいこうと思いつつもなぜか小島信夫『私の作家遍歴』も読み始めてしまい、こういうのはあまりよくない。

経験的に、興味があっちこっちに行ってしまい、しかもそれを動かすのが謎の焦燥感であるとき、精神状態はあまり良くない場合が多い。
比較的、余暇は本を読んで過ごすことが多く、読書の仕方で体調というか気分を知るきっかけになっているかもしれない。こういう気分のときに読む本はたいていちっとも頭に入らないし、面白く感じないことが多い。いっそのこと本を読んだりするのはやめて違うことをするほうが良いのかもしれない。だいいち読書はそれほど好きではない。好きだと思うこともあるけれど、やっぱりさほど好きではないような気がする。習慣であり、なにもそうしようと思ってしていることではない。

バーベキューがしたい。上流の、涼しい木陰があって、ちょうど川がカーブになっているところがいい。緩やかな流れで少し深い。気の合う仲間と集まって楽しむ。
しかし、この場合、楽しむというのはどうしたらいいのだろう。そもそも気の合う仲間とは。緊張して呼吸が浅くならない関係とは。まったく想像ができず途方にくれてしまう。一度ならずバーベキューに行ったこともあるけれど、ものすごく苦痛に感じた。

したいことができるとは限らない。選択肢というのはさほど多くない気もする。なにかを選び取ることは難しいし、ほとんどの場合できない。
なので、選ばされたことをしなくてはならない、ならないというか他にすることはないし、義務や強制ではなく、ただそうなってしまっている。

とかなんとか言ってみても、『私の作家遍歴』は面白いのでそちらへ気が向いていきそう。まだはじめのほう。語り手は進んでいく方向を示唆しつつも、あまり強く舵をとらない。話は小泉八雲を中心に進んでいく。
〈今回は、腹をきめて、どうせのこと、ヘルン先生にしばらく控えて貰うことにしてもう少し羽根をのばしてみることにする。こうした迂路はやがて裏からヘルン先生に迫る路でもあるのだから、しばらく御許し願いたい。〉(日本のもう一つの顔)
などと横道にそれることを宣言したりする箇所があるけれど、このあたりはまだ装いとして安心して読んでいられる。あまり切迫するようなものはない。
語り手と語る対象との距離が縮こまっていくようなところのほうがスリリングな感じがして面白い。どこか良い箇所がないかと思ったけれどすぐに見つからなかったので引用なし。

明日もどうせ辛いけど乗り切りましょう。そのためには良い睡眠を。

日記3/31

3/31

土曜日、日曜日と久しぶりの連休で街へ出かける。
よく歩く。
本日の夕方に歩いていたら、陽はすっかり沈んでいるのに西のほうはまだ明るく東のほうはすでに暗くなっていた。ちょうど間にいるようでいつまでも間を歩いていたいと思う。
たしかに休日の日は暮れないほうが良い。


本日の夕方はひとりで歩いていた。昨日はSと歩いた。何件か古本屋へ行き、三鷹にできた新しいお店へも足を運ぶ。よく吟味して四冊買ったものの、家に帰ってみたら二冊は持っていることに気づいた。
古本屋へ行く予定ではなかったため、買おうか迷ったなかで安いものを買ったのだけど、そういう買い方はよくない気もする。ある程度予算を決めて気合を入れてそれで行ったほうが良い。とはいえそれはいつも思うことだし、計画的に本を買うような生活はしていないのでそういうものなのだろう。


最近はあまり街へ行かないのでたまに行くと人がたくさんいて驚く。
わたしは人ばかりみてしまうたちで、勝手になにか読み取ったりする。生活とか人生とか。べつにそういうことをするのが好きなわけではない。むしろ別のものに目をむけてなにかを感じ取ったり考えたりするほうが豊かなような気がする。

なんというか、例えば汚れた靴を履いて出かけてしまったとき、靴が汚れていることがとても気になってしまい、人から、あの人は汚れた靴を履いているねなどと思われたらどうしようと考えてしまう。そんなとき、通りすがる人々の靴に目をやって、ああ他の人も自分と同じくらい汚れているんだな、とか、やはり自分だけ汚れているどうしようとなったりする。このことは靴に限らず、わたしは自分の気にしている部分をつい見てしまうのだろうなとなんとなく思っている。

日記3/27

3/27

一週間くらい前に調子を崩してから生活のテンポもおかしくなってしまったよう。
レイモンド・カーヴァーの「書くことについて」というエッセイのなか、〈アイザック・ディネーセンはこう言った。私は、希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます、と。〉という一文があり良いと思う。
生活をしていくためには毎日なにかをちょっとずつするのが大事なんじゃないかしら。あまり気負ったりせずに。

カーヴァーは良いと思った言葉について〈いつか私はその言葉を小さなカードに書いて、机の横の壁に貼っておこうと思う。〉と書く。
このエッセイでは他にもいくつか壁に貼っておくべき言葉が紹介される。

カーヴァーといえば村上春樹で、このエッセイも訳している。わたしはあまり村上春樹の良い読者ではないのだけど、〈スタイルという言葉が、私の言っていることに近いかもしれない。でもただスタイルという一言で括ってしまえるものではない。それはその作家自身の手による、紛れもない署名なのだ。その署名は彼の書くすべての文章に含まれている。そこは彼の世界であり、他の誰の世界でもない。それは、一人の作家を他の作家から区別する物事のひとつである。〉とかはまるで村上春樹自身の文章みたいと思う。

どちらかといえば引き出しの中に閉まっておきたいような文章のほうが惹かれるかもしれない。
思いつくものはないのだけどブログへの引用もそういうものばかりにしようか。ここは引き出しではないはずなのに、実はのび太の部屋の引き出し的な、隠したつもりが実は繋がっているというふうな、そういう素ぶり。


ちかごろぽろぽろ読んでいた松浦理英子『優しい去勢のために』を読み終える。
〈今となってはわれわれは欲望の生成に関して言を弄することができる。〈個〉というかたちで在らしめられていることへの異議申し立てとして〈欲望〉が発生する。そのようにして発生した〈欲望〉は〈個〉から〈全〉に向かう架空の道を切り拓く役割を負わされている。したがって〈欲望〉は〈個〉において生じた途端に〈個〉のスケールを遥かに越えて拡がり出て行く。そうしたものである〈欲望〉を完全に引き受ける〈個〉が存在する道理はない。〉
欲望の処方箋/松浦理英子


本日は、仕事終わりに図書館へ寄り読まない本を何冊か借りる。
ミステリーが読みたい気分で、陳浩基『13・67』(天野健太郎訳)を借りる。読み始めたら面白そうなので良かった。
とはいえ、やっぱりあまり体調がよくないせいなのか、ここ何日か朝起きるたびに一体何曜日なのかわからなくて軽くパニックな感じになるので、ちょこっと日記を書いて早く寝ること。

日記3/24

3/24

体調が悪いと弱気になる。
弱気なときのほうがまわりにやさしくなれるというか、怒ったりいらだったりすることにも体力がいるのだなと思う。自分のことで手一杯でまわりにたいする反応が鈍くなっているということか。でもそれではわたしがいだく反応の多くがいやりいらだちばかりのようにもきこえる。
弱気なときは繋げる必要のない関係を繋げようとしたりしてしまい、良くない。


笙野頼子『レストレス・ドリーム』を読んだ。
なにかわけのわからないものについて書かれているけど、概念や抽象的なものではない空想やそれこそ夢についての文書をぼんやりした頭で読むことは嫌いではない。
悪夢のなかで戦い続けるという変な話。主人公を攻撃してくる相手らは言葉を用いてくる。主人公はその言葉をずらしたりすることで応戦する。そのとき用いられる言葉は男や女に関わることだったりする。
ちょうど読んでいた千田有紀『女性学/男性学』のなかに出てきた〈わたしたちは言語の世界に生まれ落ちるという意味では、社会に決定されているのですが、言葉を引用して使う際に、意味をずらしたり、撹乱したりすることができます。まったく既存の社会(=言語)から自由にではありませんが、言葉を使う行為者となることによって、言葉の意味を少しづつ変えたり、亀裂を入れたりすることができます。〉という一節を思い起こしたりした。

上記の部分や〈私〉と〈跳蛇〉の関係(〈私〉はワープロの内部で文書を書いたりしており、書かれたものの内側にいる〈私〉ということなのかもしれない)などは、ちょっと判別のつかない部分もあって、一番印象に残ったのは主人公の見る夢は共有される夢だということ。
〈そしてまたその夢は共同夢である。私ひとりだけで見ているわけではない。パソコン通信を利用して多人数で行うゲームのように、そこへ何人もの人間が出入りしている。彼らもそれぞれにその夢に影響を与える。夢への働き掛けは同時に複数の人間によって行われて、それぞれが他人のした事に足をすくわれたり助けられたりする。相互作用で悪夢に影響も与える。だが、だからといって夢に客観性があるかというとそうでもない。〉「レストレス・ドリーム」

彼ら〈夢見人〉は作中には姿をみせない。話は主人公である〈私〉と夢のなかでの名前である〈跳蛇〉だけの孤独な戦いのようである。というか読んでいる最中、共同夢ということや他の夢見人のことをわたしは忘れていて(まったく言及されないわけではない)連作短編の最終作である四作目の「レストレス・エンド」の一節を読んで思い出したのだ。

〈少しずつ戦って夢を変えて来た。武器を買い、ゾンビとの路上戦を重ね、大寺院を探索し、行動範囲を拡げ‥‥それに呼応してスプラッタシティも少しづつだが、変わったのだ。無論、他の夢人達もこの悪意にダメージを与え続けたはずだ。が、結局彼とは少しも関わりあいになれなかった。〉

同じ境遇に置かれた者たちが、手を差し伸べあって助け合うことができるとは限らないけど、その存在を信じることによって感じ合うようなことはあるかもしれない。小説を読んだり書いたりすることはそのようなものに近いかもしれないとも思う。
この小説の中で他の夢見人たちは現れないわけだけど、小説というものがそもそもそのようなものであるならば、登場する必要はないわけだとも言える。