悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記

2019/02/14

仕事。
午後は車のなかで人を待っているだけで過ぎた。
車は駅前の通りに止めていて、下校途中の高校生がおおぜい通り過ぎていった。
女子生徒たちがみんな手頃な大きさの紙袋を持っていて今日がバレンタインデーだということ思い出す。ちかごろ、高校生はみんな「高校生」という存在であるかのように見えてきてしまうのだけど実はみんな別人なのだというあまりにあたりまえのことに気がついて少し驚く。
みんな別人なのにみんな紙袋を持っていた。
女子生徒だけではなくて男子生徒もおなじくらい歩いていた。
多くの男子生徒は紙袋を持っていなかったなか、ひとりだけ明らかにチョコレートが入っていそうな紙袋を手にぶらせげて歩いていた。
 
少し前に千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』を読んだ。
学校を舞台にした短歌がある。固有名などが出てくるので実体験のようだ。語れるエピソードには共感からくる可笑しみがあった。
視点は先生にあって、先生の視点からみる学校ってあんまり考えたことないなと思った。
というのも、例えば金八先生が卒業式のシーンで生徒一人一人に向けて語るとき生徒たちがそれぞれに個性を兼ね備えた個人であり金八先生がそれぞれのことをきちんと見ていたことが感動的なような感じで進んで行く。
『海、悲歌、夏の雫など』の登場人物に名前はついているのだけど、個々のエピソードは特別なものというよりは(いや特別なはずのものなのだけど)、こういうことあったなと思うようなものでふと何年も先生をやっていれば個々の生徒の行動というのは重なるものもあるのではないかと思ったのだ。
 
わたしはあんまり愉快な学校生活を過ごせなかったせいか、どこか青春コンプレックスがあるみたいで、自分の学校生活が特別なものでなかったことをとても残念に思っている。
その残念さのなかに高校生だった自分を誰も記憶していないのではないかと思う感情がある。
だけども、先生の視点からみるこすりたおされたようなエピソードのなかで、顔が薄くなった生徒たちに、同じようなことを体験したおぼえのあるわたしの影も混ざっているんじゃないだろうか、と思うとなんだかそういうのもアリかもという気分にもなる。
わたしが高校生のわたしと遠ざかっているからそのように思うのだろうか。
わたしが高校生を「高校生」というひとかたまりとしてみていたことと、高校生のわたしが他人から「高校生」のひとかたまりのなかに混じって判別のつかない存在として見られることを良いと思うことの関わりはどういうことなのかと、思うけど、疲れているので寝る。