悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

百年後

日々のこと

最近は美容室へ出かけるときくらいしか、ひとりで出かけない。
なのですこし遠い美容室へ行っている。
「休みの日ってなにしてるんですか」などときかれる。
「ええ」とか「まあ」とか「はあ」とか答えたと思う。
休みの日になにをしていたら良いのだろうかと考える。

百年後

ロシアの革命史について書かれた文章を読んでいたら、革命へと努力した人たちの望んだとおりに事は進んでいかないし、革命はものすごく時間がかかることなのだと思った。
出来事はある瞬間に訪れるとしても、そこまでの道のりは長い。
特殊な一個人や集団の世間をあっと言わせるような「ちょっとした」思いつきのようなものと革命とはまったく違うものなのか。

チェーホフの戯曲のなかで登場人物が百年たったらいま私たちの悩んでいることなんてきっとすごくどうでも良い事になってしまっているだろう、と切ない希望を語る場面があったかと思う。
チェーホフのおよそ百年後に生きるわたしたちが今なおチェーホフを読んで感動したりしていることを思うとなお切ない。
あるいは逆で、悩み事というのはそれが書かれてしまったばっかりに呪いのようにして遠くまで受け継がれてしまったりするのだろうか。
たとえば今わたしが悩んでいることを百年後の人は思いもよらないとしてもチェーホフの登場人物達の悩みは身に染みて共感したりするのかもしれない。 だとすれば、ここでわたしたちは書くことをやめ、悩み事共々どこかへ消えてしまおうか。

暗転

ひそひそ話がきこえるので、耳を澄ますが、良く聞こえない。 盗み聞きすることをあきらめて、再びを本を開く。開く前に時間を見ようとちょこっとスマホをみる。
ニュースアプリから通知が届いている。面白そうだと思い、タップするとニュースアプリの画面へと切り替わるが、面白そうだと思ったニュースが見つからない。もう一度通知を確かめてみようと思うが、通知もすでに無くなっている。キーワードは覚えていたから、Googleで検索してみようかと思ったが、本を読もうと思ったことを思い出し、本を開く。
いや違う、時間をみようと思ったのだ。
再度スマホを開くと15時40分。
なんで時間を調べようと思ったのかわからないので、本を開く。
バスの時間まであとどのくらいあるのか気になったのだったと思い出すが、さっきみた時間を忘れてしまいもう一度スマホを開くと15時41分。バスが何時にくるか、わからないので、バスのサイトを開くがバスのサイトはとても見にくいのでもうどうでもいい気分になる。別に急いでいるわけではないのだから。
本を開く。
やはりさきほどのひそひそ話が気になる。「葬式」とか「株券」とか、「義理の姉」とかちょっと興味を惹かれるワードが耳に入る。
本を閉じて耳をすます。
耳をすますと何故かよくききとれない。こういう下世話な趣味はやめて、高尚な本を読んで見識を広めようと本をひらく。100年以上前のドイツの人が書いた文章は、彼と比べればわたしとそう年齢が変わるわけではない日本人が翻訳しているにもかかわらずまったく頭に入ってこない。
するとひそひそ話が聞こえる。ぽんぽんと耳を目がけて面白そうなフレーズばかりがとんでくる。
もしかしてわたしの耳は本の開閉と連動しているのかもしれない、と何度か本を閉じたら開いたらしてみるが、周囲の音が大きくなったり小さくなったりはしない。
本をひらく。ひらいてじっと見つめるとなぜだかバスの時間が気になってくる。