悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

3/6

朝、妹から「生きてる?」とLINEが来る。週末に顔を合わせたばかりだというのに数年ぶりの友人にメッセージを送ってみたという感じで、変だと思い無視しているとその後もスタンプやら送ってくるので、もしかしたら家の近くでなにか事故だか事件だかが起こってニュースやなにかになっているのではないだろうかと妙な不安が沸いてきたので返信するとわたしが死んだ夢を見たという。

先日美容室へ行ったさいに、テレビの占いをみてあなたは今日運勢が良かったよとか悪かったよとか言ってくる人がいて、そのせいで逆に意識してしまうという話をしたのを思いだした。

では死んだかというと妹の第六感(?)に忠実な心配は幸か不幸かあたらず、しかしほんとうにに死んでしまえば良かったと思いながら嫌な仕事をどうにかしのいで1日が過ぎた。


あまり本は読めず、笙野頼子の「大地の黴」という坂を登って降りる短い話を読む。
適当に読んでいると時系列がちょっと不思議な感じでおもしろかった。

〈私〉は十歳くらいの頃に竜の骨の入った壺を拾ったことが、きっかけなのか、不思議なものを知覚するようになる。

それとは正体のわからないもの、骨自体ではない。ただ、骨達を歌わせた力である。例えば地霊、いや、そんな大層なものではない。もっと人間に近い感じだ。が、幽霊と呼べるような個別の自我も持たない、そもそもはっきりした形のないものだと思う。妖怪、と呼べばたまたまその土地にいるか、土地に帰属するだけだ。が、彼らは土地と一続きになった、土地の分身である。

それはヤチノさんのという父の知人と一緒に〈私〉の家にやってくる。ただ〈それよりも私はヤチノさんが来たという事にだけ心を奪われていた〉という。ヤチノさんは話し方が変わっていたりしておかしい。よく来るようだが、〈ヤチノさんの来訪にはただ繰り返しがあるだけで進展がなかった。〉
ヤチノさんはやがて来なくなり、しばらくすると〈三歳になるという整い過ぎた顔形の、長女の手を引いて〉やってくる。
しかし娘は来ても帰りたがってしまう。
〈私は既にヤチノさんに興味をなくしていた。ヒカルが現れてからというもの、大地の黴はヤチノさんに付いて来なくなった。〉
ヒカルは娘である。
それ=大地の黴よりもヤチノさんのほうに心を奪われていた〈私〉なのだけど、大地の黴がついて来なくなってしまったからヤチノさんに興味がなくなってしまったかのようでもある。

それでもヤチノさんはやって来る。娘はとても美人であるということがたくさん書かれていたかと思うと〈私はヒカルが少しでもいてくれればいいとそれだけを念じていた。〉と娘へ関心が移る。
やがて娘はヤチノさんから離れていき、ヤチノさんも来なくなって小説は終わる。
ヤチノさんはあまり変化しない。周りは変化している。〈私〉も年をとっていく。
ヤチノさんが訪れることが書かれる一方で、並行して〈私〉の嫌な学生生活も描かれるのだけど、こちらのほうはリアルな感じで辛い。

人が訪れる小説が好きだ。変わった人がやってくる小説。この小説では訪問者はどちらかといえば歓迎されていると言えるだろうけれど訪問者の多くはあまり歓迎されない。歓迎されないというか、唖然としているうちに訪問者のペースになってしまうパターンがわたしの好きなものでは多いように思う。

しかしわたし自身に照らして考えてみると、わたしはどちらかといえば他人が自分のテリトリーにずかずかと入りこんでくることに困惑したりすることは稀で、もっともそもそもそういう機会がほとんど無いからなのだけど、むしろ自分が他人の家だったり内面だったりに歓迎もされずにずかずか入りこんでいるのではないかと不安になることのほうが多い。実際はそちらにしてもほとんどそんなことはなく、入りこんでいるどころか玄関から遠く離れたところからよく聞こえない小さな声で呼びかけているくらいのことしかしておらず、他人からは呼びかけていることすら気づいてもらえないの場合のほうが多くていったいなんでそんなに不安がっているのだろうかと冷静になれば思えるのだけれど、いざ他人と接すると上手にやりとりできなくて困ってしまう。

仕事中に『凪のお暇』という漫画の一巻を読んでいて、主人公は空気を読み過ぎてしまうアラサーの女性である出来事がきっかけで変わろうと思い、これまでだったら色々気にしすぎて自分の意見を言えなかった場面で勇気をだし、それが一巻では良い方向へ転がっていくのだけど、これじゃあ逆にずうずうしいのではないかと思ってしまいまったく自分がどうかしてるんじゃないかと嫌な気分になる。では人に気をつかえているのかといえばぜんぜんそんなことはなく、自分が気にしていることはむしろ見当違いなことが多く、常識的な範囲ではまったく気をつかえていなかったりするものだからかなしい。

とはいえ「凪のお暇」は絵がかわいく良かった。漫画は絵が好みだとだいたい好きになる。小説も文体の好みで読めてしまうし、最近、まんじゅう帝国という漫才師が面白いと思っているのだけど、これなんかも話している内容というよりは話し方がなんだかおかしくて、わたしはジャンルは違えど面白がり方にはわりと傾向があるのかもしれない、などと思った。

日記

3/5

いい天気だった。暖かくて、今日のような日にはそのたびに逃避行の夢をみる。

夢といっていいのか、白昼夢というほど体験的なものではなくてほんのちょっと隅のほうをかすめるのは断片で画なのか観念なのか区別がつかないから、思い出そうとしてもただいい天気だとか言うことしかできずもどかしくてそのような時にはいつも「今日は死ぬのにもってこいの日」というナンシー・ウッドの本のタイトルが浮かぶ。これは読んだことのない本なのでおかしな話なのだけど今日のような日が「今日は死ぬのにもってこいの日」に違いないと思うのはきっとタイトルしか知らないからなのだろう。

本日は引き続き漱石の猫を読む。

終盤の登場人物一同が集結しておしゃべりするシーンはたのしい。そういえば大勢の登場人物が出てくる小説、というのは同じ場面にということなのだけど、が好きなことを思いだす。大勢の人物がおしゃべりするのを書くのは難しいだろう。この後にわざわざ二人の会話で進んでいく小説である「二百日」をわざわざ書いたのは不思議。

たのしいおしゃべりもいずれは終わってしまうのはわかりきったことで、それまで大勢の人がいたのにみんな去ってしまった後の空間のさびしさをともなって小説は終わる。
〈無理を通そうとするから苦しいのだ。〉という猫の独白にしんみるする。

お見舞い

お見舞

Sのお見舞いへ行く。盲腸の手術のためで、数日もすれば退院できるらしい。
行かなくても良いような気もしたけど、休みだったので行くことにした。
なにか持っていこうと思った。盲腸の人に食べ物は持っていかないだろう。他には本くらいしか思い浮かばなかった。もしかしたらもっとふさわしい常識的なものがあるかもしれない。あんがいこういったお見舞いの振る舞いなどで人の評価というのは決まってしまうものかもとも思ったけど、考えだすとなにもできなくなってしまうので悪く思われてしまったらそれはそれで仕方がない、と決心したわけでもなくなんとなく考えることを放棄してしまった。

S は本をあまり読まない。ただ関心はあるようだった。本を読む習慣があったらいいなとは思うけど、いざ読みはじめると飽きてしまうのだとか。日頃忙しそうなSも入院中に暇な時間もできるだろうから本を読むいい機会だろうと思った。
Sは元気そうだった。

 

コーヒー

今朝、コーヒーを飲んでいて思いついたことがある。
コーヒーを毎朝飲む男がいるとする。
あるころからの習慣で朝起きてコーヒーを飲まなければ一日が始まった気にならない。好きかと言われれば毎日飲んでいるのだから好きなのだろう。しかしどちらかといえば習慣なのであって、好きだとか嫌いだとかということはあまり考えたことがない。

一方でこの男と似て非なる別の男もいる。
この男はあるとき自分はコーヒーが好きらしいと気がつく。それからというものさまざまなコーヒーを飲み比べていく。意識的に飲む。すなわち、違いのわかる男。そのうち自分で作ったりし始める。好きかと言われればとうぜん好きだと答える。この二人はコーヒーにが好きな部類である。

さらにもう一人べつの男もいる。
テレビや映画、あるいは本など読んで、コーヒーっていうのはなんだかカッコいいななどと漠然としたあこがれを抱いている。ときおり渋い顔をして飲んだりしてみるけれど、実はあまり口に合わない。

つまりあなたはこの例でいえば三番目でわたしは一番目でともに二番目に憧れているのだ、といった内容のことをSにたいしてえんえんと偉そうに話しているうちにドクターがやってきて手術の説明がありますなどと言い二人してどこかへ行ってしまった。
待つことして、買ってきた高橋久美子の『いっぴき』というエッセイ集をぱらぱらと眺めた。チャットモンチーのドラムを叩いていた人だ。今は作詞をしたり本を書いたりしているらしい。解説をボーカルの人が書いていて、そこを読んでいたら感動して泣いてしまった。
「どうしたの。ただの盲腸の手術だよ」
とひとりで戻ってきたSは驚いたようだった。

 

御茶ノ水

なぜかわたしのほうが励まされたうえに玄関まで見送られ、なんだか申し訳ない気分のまま病院を出て、駅のほうへ向かう。
赤信号で待っていると、ひとつさきの交差点に見知った影をみたような気がした。
そもそも知りあいが少ないので外で人とばったり会うことなどなく、気のせいだと思いつつも誰だったろうかと考えていると、懐かしい気分になった。
駅を通りすぎてそのまま靖国通りまで坂を下っていくと、有名なレンタルCDの店がある。ちょっと前に閉店してしまったらしい。

いっとき熱心に通っていた時期がある。
たくさんCDを借りた。いったいどれほど聴いたか。
集めることに執着していたように思う。
名前だけたくさん覚えてなにかを得たような気になっていた自分をいまはとても恥ずかしく思っている。
恥ずかしいというか、不憫?
きっともっと良い楽しみかたがあっただろうに。

あんまり自分を卑下したり人前で卑屈な態度をとることはあんまり良くない。それはそれで気取った態度だと思っていても、ふとかつてのわたしが通りがかった街でその影とばったり出くわしてしまうとギョッとするし自己嫌悪がわいてくる。
いつのわたしも過去のわたしを恥ずかしく思っている。こんなことではきっといまのわたしもいずれわたしは恥ずかしいと思うかもしれない。ほんの10分前のことですらもっとうまくやれただろうにと思ったりしているのだし。

暗い顔をして、いやうつむき加減でじっさい顔はよく見えなかったけど、立ち並ぶ楽器屋をとおりすぎていくわたしを追いかけた。途中で左へ折り曲がり私大の喫煙所でタバコを吸っていた。ipodをとりだしてなにやらぐりぐり操作していた。なにを聴いていたんだろうか、と思う。話しかけようかと思ったけど、話しかけなかった。大学の学生たちが何人かわらわらと喫煙所に入ってくるとまだいくらか残っていたタバコを消してわたしは靖国通りの方面へと姿を消した。

家から御茶ノ水は近いところではないし、よくもまあわざわざひとりで来ていたものだとは思う。映画館へもよくわからない映画を観にきていた。
よっぽどひまだったんじゃないかしら。
ちょっと同情してしまった。そういうの、当時の自分はすごくムカつくと思うけど。
まあ、いまもあんまり状況は変わりないですよ。

日記

レイモンド・カーヴァー『頼むから静かにしてくれ〈1〉』を読む。

「寡黙な」というのはひとつの積極的な態度だ。全く動かないのに能動的であることはよくある。この短編集に出てくる寡黙な人たちはみんなそういった選び取った態度としての寡黙ではなくて投げやりな感じ。ちゃんと話し合ったり考えたりしなくてはいけないのに放棄するような態度にみえる。
疲れているんじゃないかと思う。あんまりにも疲れているから、話し合ったり考えたりしたくなくなる。
いや、それはわたしの話。

 

わたしは疲れていて、話をしたり考えたりする気分にならない。

「学生の妻」という作品が収録されていて、これは男が眠る話。男は眠るんだけど、妻である女は眠れない。女は男に話しかけたりするのだけど男は眠いからといって寝てしまう。女は眠れず不眠の苦しみが描かれる。
最近みたポン・ジュノの「ほえる犬は噛まない」という映画にも学生とその妻が出てきた。大学院生の男は妻に養ってもらっている。妻は妊娠していて出来ないことが多いため男にあれをしろこれをしろと高圧的な感じで言う。
女が男に命じて寝ている女の背中を男が掻く場面がとても良い。同じ方向を向いて横になった二人を真上からのアングルで撮っている。
この映画での二人の関係も話合うことが出来ずに起こるすれ違いが描かれる。
たしかにわたしたちは話し合ったほうが良いように思う。
話し合ったとして、理解し合えるかどうかとか他者とかそんなことはまだ先の話。

 

まず話し合わなくてはならないのに、

なにもしゃべることができないまま時間だけが過ぎていく。
その日の出来事を話すためには職場での人間関係を把握している必要があるような気がして、しかしそのことはこれまでにまったく話したことがなかったし、話せばややこしくなるから、話さなくて良いだろうと思った。
「今日さ」と口にしてから、そのようなことを思ったので不意に黙りこんだわたしに相手は「今日、どうしたの」とたずねる。
わたしはすっかり話すことがめんどうに感じていたので「なんでもない」といった。

「なんでもないってどういうこと」
「いや、ほんとになんでもない」
「じゃあ、なんで言ったの」
「え?」
「今日さ、ってなんで言ったの」

説明しないことを説明することもめんどうだったのでわたしは黙ってしまった。
相手はしばらくのあいだなんだかんだと言っていたけどなにも言わずにいるとそのうち相手も黙ってしまった。
「どうしたの」とわたし。
「無視するから」と相手。

日記

2019/02/14

仕事。
午後は車のなかで人を待っているだけで過ぎた。
車は駅前の通りに止めていて、下校途中の高校生がおおぜい通り過ぎていった。
女子生徒たちがみんな手頃な大きさの紙袋を持っていて今日がバレンタインデーだということ思い出す。ちかごろ、高校生はみんな「高校生」という存在であるかのように見えてきてしまうのだけど実はみんな別人なのだというあまりにあたりまえのことに気がついて少し驚く。
みんな別人なのにみんな紙袋を持っていた。
女子生徒だけではなくて男子生徒もおなじくらい歩いていた。
多くの男子生徒は紙袋を持っていなかったなか、ひとりだけ明らかにチョコレートが入っていそうな紙袋を手にぶらせげて歩いていた。
 
少し前に千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』を読んだ。
学校を舞台にした短歌がある。固有名などが出てくるので実体験のようだ。語れるエピソードには共感からくる可笑しみがあった。
視点は先生にあって、先生の視点からみる学校ってあんまり考えたことないなと思った。
というのも、例えば金八先生が卒業式のシーンで生徒一人一人に向けて語るとき生徒たちがそれぞれに個性を兼ね備えた個人であり金八先生がそれぞれのことをきちんと見ていたことが感動的なような感じで進んで行く。
『海、悲歌、夏の雫など』の登場人物に名前はついているのだけど、個々のエピソードは特別なものというよりは(いや特別なはずのものなのだけど)、こういうことあったなと思うようなものでふと何年も先生をやっていれば個々の生徒の行動というのは重なるものもあるのではないかと思ったのだ。
 
わたしはあんまり愉快な学校生活を過ごせなかったせいか、どこか青春コンプレックスがあるみたいで、自分の学校生活が特別なものでなかったことをとても残念に思っている。
その残念さのなかに高校生だった自分を誰も記憶していないのではないかと思う感情がある。
だけども、先生の視点からみるこすりたおされたようなエピソードのなかで、顔が薄くなった生徒たちに、同じようなことを体験したおぼえのあるわたしの影も混ざっているんじゃないだろうか、と思うとなんだかそういうのもアリかもという気分にもなる。
わたしが高校生のわたしと遠ざかっているからそのように思うのだろうか。
わたしが高校生を「高校生」というひとかたまりとしてみていたことと、高校生のわたしが他人から「高校生」のひとかたまりのなかに混じって判別のつかない存在として見られることを良いと思うことの関わりはどういうことなのかと、思うけど、疲れているので寝る。

日記

2019/02/12

仕事。
仕事中に西村賢太「春は青いバスに乗って」を読んだ。バイト先での暴行事件で留置所に入ったことを書いている。
同部屋の留置人との友情というほどでもないような関係で、主人公の「私」は彼らからの恩を返そうとおもうのだけど思うようにいかず結果裏切ってしまったような心持ちになる。「私」は二度、そのような思いにかられる。
これはバイト先の人とうまくやっていると思っていたら、逮捕後によく思われていなかったということを聞かされたことが伏線になっており、とても切ない。裏切られた側も、きっと裏切られたなどとさほど思っていないだろうことが察せられるのだけど、だからこそ報いることに意味があるのだろう。この短編の良いところは(良くないところなのかもしれないけど)、嫌なやつのことは次第に遠ざかっていき、よくしてくれた人と満開の桜の思い出が最後まで描かれることだ。
留置所に入るという体験はショッキングだし、それに類するような体験はたぶん持っていないけど、それにしたって寒さのせいなのか気は塞ぐし勝手に人のやさしさをくみとって泣きそうになる。

2019/02/13

仕事。
眠たい。
注釈ということばが思い浮かんで、天沢退二郎が『作品行為論を求めて』で深沢七郎とか入沢康夫について注釈ということでなにか言っていた気がする。しばらく前から読み返したい気分が続いていてときおりぱらぱらしているのだけどちっとも読んじゃいない。裏表紙にある金井美恵子の文章が好きでそこばかり何度も読み返している。

彼の作品行為を支持しつづけることはいわば書きつづけることを決意した者たちの運命的な出会いに身をまかせることにも似る。わたしたちは果てしない決意の中で詩人を見つめるだろう。


本日は夏目漱石『道草』を読む。 主人公の健三と妻との会話。

「御前は役に立ちさえすれば、人間はそれで好いと思っているんだろう」/「だって役に立たなくちゃ何にもならないじゃありませんか」

日記

2019/02/11

休み。
昨日と、今日と休み。
昨晩は八王子へいった。ひさしぶり。古本屋で散財したあと、沖縄料理のお店へ行く。
となりでおじいさんが飲んでいて、常連らしく沖縄が郷里のようだった。寺山修司を読んでいたので変な想像がふくらんだ。郷里から遠く離れたところで暮らす男‥‥‥。

 

 

ひとりで飲むことはやってみたいことだ。やったことがない。
ひとりで飲むというのはどういう感じなのだろうか。黙って、だらだらと飲んでいる人を見ることがあるけれど、自分にはできないといつも思う。

ひとりでお店に入るとどこを見ていたらいいのかわからなくなってしまう。食べ物を注文して待っているあいだなんかでもつらい。あんまり周りをきょろきょろ見ていると間抜けだと思われてしまうんではないだろうかと不安になって、目の前から視点をうごかせなくなってしまう。

テーブルの一点をみつめてそこがぐわーっと大きくなって視界のすべてになってしまって周囲はみれないし、逆に見られているんじゃないかという気分になってくる。ちょっと異常である。たいていは本を読んだり音楽を聴いたりして気を紛らわせるので気にはならないのだけど、ひとりで飲むとなると本を読んだり音楽を聴いたりするのはおかしい気がする。となるとひとりで飲んでいると一点を見つめることになる。ぐわーっでだ。おそろしい。おそろしいのでできない。

ひとりで飲んでいて、知らない人と話したりする人もいるらしいけど、これもどういうことなのか。まず百パーセント、わたしからは話しかけないだろうから、もし誰かと話すとしたら相手から話しかけてくることになる。相手からすれば、たのしいお酒の時間をよりたのしくするために話かけてくるはずだから、これはたいへんなプレッシャーである。


思い出したこと。
むかし、わたしが12歳のころ。親戚から野球のチケットをもらって、6つくらい年上の親戚のお兄さんと一緒に観に行くことになった。ところがお兄さんはなぜか行けなくなってしまってひとりで行くことになった。なんだかよくわからないまま内野自由席でおばあちゃんが持たせてくれたおにぎりを食べながら試合前の練習をみていた。すると、後ろから声をかけられたので、みると年上らしき男の子が4人くらいいた。どうもわたしが一人で来ているのを見て一緒に見ようじゃないかと声をかけてくれたらしい。妙にやさしい感じで、なんというか、猫とか赤ん坊にたいして接するような感じに違和感をおぼえつつもいくつなのかと問われたから11歳だとこたえた。


ーー5年生?
ーー6年です。


あれあんまり変わらないね、などという。彼らは中一で13歳だといった。戸惑っているようだったので、わたしはふと気がついた。
当時のわたしはとても背が小さかったので、彼らはわたしをもっとずっと年下だと思ったのだ。彼らのひとりで野球を観ているこどもへのやさしさにたいしてなんだか申し訳ない気持ちになったわたしは彼らへの返答がしどろもどろになってしまい彼らは彼らで一つしか変わらないわたしを妙にこどもあつかいしてしまったがために気まずいようで、わたしは席を離れた。幸い自由席だったのでどこへ座ってもよかったのだけど少し離れたところに座ったのではわたしが彼らから逃げたみたいで申し訳がなく、仕方がないのでフードコートへいった。フードコートへ行ったからにはなにか食べないわけにもいかず、さきほどおにぎりを食べてお腹はちっとも減っていなかったけれどラーメンを注文した。はじめてひとりで一人前のラーメンを食べたと思う。