悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

川原で映画を観るのはどう?

大学を卒業してアパートに引っ越したら壁が良い感じに白かったので、ボーナスが出るとプロジェクターを買った。
いざ買ってみるとスクリーンも欲しくなったが、探し出すと面倒に思えてきて寝る前は白い壁に映して映画をみた。
実際には映画をみたというかただ映していただけで、なんというか、さっそうと映し出されたバスター・キートンが画面のなかのスクリーンに入り込んでいくよりも先に私のほうが夢のなかへ行ってしまっていたし、スカイクロラというアニメの映画を観ようとして映したときは一週間毎日見終わるまえに寝てしまい、なるほどキルドレの生とはこういうものかと思ったりなどした。
それでも良い買い物をしたと思った。

ほどなくして仕事をやめ実家にもどった。
実家に戻ってしばらくは厭世的な気分にさいなまれぼけっとしていたが、生存の危機を感じしゃきっとしてきたころ、プロジェクターの存在を思い出した。しかし実家の壁は不運なことにいつの間にか両親がせっせと珪藻土を塗っておしゃれ感じにしてしまっていたので、でこぼこしておりとてもじゃないが映画を観る気になる壁ではなかった。

「だから良かったらもらってほしんだけど」とFに電話した。
Fは映画が好きだった。どうせ使わないなら良い感じに使ってくれそうな人にあげるのが良いのではないかと思ったのだ。
「いらないかな」とFはいった。
「でも」とF。
「川原にプロジェクターを持っていって映画を観るっていうのはどう?」
提案を断られ、落ち込みかけたが、なるほどそれは良いアイデアだと思った。
森のなかで映画を観たりするイベントをまえに雑誌でみたことがあった。
似たようなものだろう。
ぜひそれをしたいと思った。
「スクリーンが必要だね。スクリーンを持っていないから」
「白いシーツで良いんじゃないかな。それならうちにあるかもしれない」
「二人でみる?」
「多いほうが楽しそうだけど」
残念ながら私たちには他に誘えそうな友人はいなかった。
「でもほら、川原で映画を観ていたら、歩いている人が気がついて近寄ってくるかも」とF。
「それは面白そう」
私が仮に歩いている人だったら、すごくラッキーな場面に出会したと思うじゃないだろうか。
外でプロジェクターを観るなら、夜でなくてはならない。夜の川原を歩いている人なんてきっとすごく悲しい人に違いない。
悲しい人なら大歓迎。だって私もすごく悲しい気分なのだ。新卒ではいった会社をやめて、素敵な白い壁も失ってしまったんだから。
多摩川が良いかな」
「秋川でもいいよ」
「秋川と多摩川って同じ?」
「どうだろう」
多摩川が良いよ。多摩っていうのは魂のことで、ほら、詩人の魂は多摩川へむくんだよ」
「多摩市?」
「うん」
Fは「うん」とよくいう。ここでおしまい、次へ行きますの「うん」。
句読点みたいな「うん」。
「、」なら一呼吸置きましょう。「。」なら二呼吸。
でもFは句点は「うん」。読点はない。

私の父や母は車に乗って、大きい駐車場で映画を観たらしいけど、私がそのことをイメージとして思い浮かべることができるのは唯一『平成たぬき合戦ぽんぽこ』のワンシーンとしてだけだ。

「じゃあ、近いうちに」

「そうだね。もう少し暖かくなったら」
「じゃあ、また」
「じゃあ、また」
私は電話を切って、布団にもぐる。
そういえば、世の中には権利とかそういったものがあるから、川原で映画を見ていたら、逮捕されちゃうんじゃないだろうかなどと思ったけど、それなら自分で撮ってちゃえば良いんじゃない、と思えるくらい前向きでのんきな気分のまま眠った。
夜の川原を歩く魂が吸い寄せられる誘蛾灯みたいに優しい映画。

ところで、そんな素敵な計画はいまどこにいってしまったんだろうか。頓挫してしまった数々の素敵な計画の一つとして、永遠の川原に似たどこかに積み上げられてしまったことは間違いないのだとして。

百年後

日々のこと

最近は美容室へ出かけるときくらいしか、ひとりで出かけない。
なのですこし遠い美容室へ行っている。
「休みの日ってなにしてるんですか」などときかれる。
「ええ」とか「まあ」とか「はあ」とか答えたと思う。
休みの日になにをしていたら良いのだろうかと考える。

百年後

ロシアの革命史について書かれた文章を読んでいたら、革命へと努力した人たちの望んだとおりに事は進んでいかないし、革命はものすごく時間がかかることなのだと思った。
出来事はある瞬間に訪れるとしても、そこまでの道のりは長い。
特殊な一個人や集団の世間をあっと言わせるような「ちょっとした」思いつきのようなものと革命とはまったく違うものなのか。

チェーホフの戯曲のなかで登場人物が百年たったらいま私たちの悩んでいることなんてきっとすごくどうでも良い事になってしまっているだろう、と切ない希望を語る場面があったかと思う。
チェーホフのおよそ百年後に生きるわたしたちが今なおチェーホフを読んで感動したりしていることを思うとなお切ない。
あるいは逆で、悩み事というのはそれが書かれてしまったばっかりに呪いのようにして遠くまで受け継がれてしまったりするのだろうか。
たとえば今わたしが悩んでいることを百年後の人は思いもよらないとしてもチェーホフの登場人物達の悩みは身に染みて共感したりするのかもしれない。 だとすれば、ここでわたしたちは書くことをやめ、悩み事共々どこかへ消えてしまおうか。

暗転

ひそひそ話がきこえるので、耳を澄ますが、良く聞こえない。 盗み聞きすることをあきらめて、再びを本を開く。開く前に時間を見ようとちょこっとスマホをみる。
ニュースアプリから通知が届いている。面白そうだと思い、タップするとニュースアプリの画面へと切り替わるが、面白そうだと思ったニュースが見つからない。もう一度通知を確かめてみようと思うが、通知もすでに無くなっている。キーワードは覚えていたから、Googleで検索してみようかと思ったが、本を読もうと思ったことを思い出し、本を開く。
いや違う、時間をみようと思ったのだ。
再度スマホを開くと15時40分。
なんで時間を調べようと思ったのかわからないので、本を開く。
バスの時間まであとどのくらいあるのか気になったのだったと思い出すが、さっきみた時間を忘れてしまいもう一度スマホを開くと15時41分。バスが何時にくるか、わからないので、バスのサイトを開くがバスのサイトはとても見にくいのでもうどうでもいい気分になる。別に急いでいるわけではないのだから。
本を開く。
やはりさきほどのひそひそ話が気になる。「葬式」とか「株券」とか、「義理の姉」とかちょっと興味を惹かれるワードが耳に入る。
本を閉じて耳をすます。
耳をすますと何故かよくききとれない。こういう下世話な趣味はやめて、高尚な本を読んで見識を広めようと本をひらく。100年以上前のドイツの人が書いた文章は、彼と比べればわたしとそう年齢が変わるわけではない日本人が翻訳しているにもかかわらずまったく頭に入ってこない。
するとひそひそ話が聞こえる。ぽんぽんと耳を目がけて面白そうなフレーズばかりがとんでくる。
もしかしてわたしの耳は本の開閉と連動しているのかもしれない、と何度か本を閉じたら開いたらしてみるが、周囲の音が大きくなったり小さくなったりはしない。
本をひらく。ひらいてじっと見つめるとなぜだかバスの時間が気になってくる。

2019/10/24

 

この頃のわたし(たち)

 
今日は仕事が大変だったというか、残業代の出ない居残りをしてせいか気持ちが荒んでいて、明日の出勤がとてもしんどく思える。
しんどいのはいつだって同じだけど、今日はとくにしんどい感じがある。毎日天気が悪いせいだろうか。
人に見せることを意識した文章ばかりを書いていた時期は比較的ネガティブなことは書かないようになった。人に見せない文章はもっと、もっと、陰鬱なものになる。
しばらくブログを更新しなくなって、それでも更新していたころと同じくらいかあるいはそれ以上の分量の日記、というか文章は書いていて、ここ数日人に見せるということが身体的にも意識しなくてすむようになったせいか、書いてあることがとても暗い。
 

死んでも生きていない

ゆっくりと日はのぼり、そのことを受け入れられないまま起床しなくてはならない時間となる。
給料日が近づくとほっとするというか、なんとか今月もどうにか生き延びることが出来たと思えるけど、はたしてあっという間といえばあっという間でこんなに早く月日が過ぎてしまって大丈夫なのだろうかとも思う。
早く死にたいといえば早く死にたい。楽しみですらある。
vamapire weekendが今年出したアルバムの曲の歌詞にこんなのがある。
 
I don't wanna live like this
But I don't wanna die
 
曲調は明るくて、それがまた切ないよう。
何のように生きたくないかは人によって違ったりするだろうけど、そうよねっていう気分。
 
死にたくないといえば死にたくない。死にたくないというか、死ぬというがどういうことかはわからないので、死ぬことに伴う苦痛を想像するとげんなりしちゃうしそれは大変おそろしいということだろうか。
 
石井桃子の『幻の朱い実』をちかごろ読んでいる。
著者の自伝的な作品だとのこと。
やっぱりやっぱり石井桃子はとてもえらい作家だと思う。
主人公の明子と大学の先輩である蕗子との交流が描かれる。まだ途中だけど蕗子は結核を患っており徐々に弱っていくさまが大変つらい。
 
死にたいとか生きたいとかそんなことばかり書いているようだけど、まあそれは夜の気分というやつで、つまり午後三時の陽の下では溶けてしまったり透けてしまったりするので存在しないものかもしれず、ただ夜が暗いばかりにふとそんな考えをうっかり見た気になってしまうだけなのだからさほど深刻なものでもないとはいえ、嘘ではないのだから、自分の真摯さが可哀想に思えるくらい降らないといえばくだらない。
 
 
さて、どんなに長い夜であっても本を読んでしまえばやり過ごせてしまうわたしたちではありますが、なにより大事なのは休息なのですから、寝なくてはならないのですね。
あー、やだやだ。

これはさみしい!

08/05

休み。
起きたとき、仕事だと思い慌てて起きようとして、
ああ休みなんだった、
と安堵する。この二度寝は一番気持ちの良い二度寝だと思う。
気持ちが良くても二度寝をしてしまったので、休日の出鼻をくじかれて しまいけっきょくだらだら過ごす。
『掃除婦のための手引き書』などを少し読む。

08/07

仕事。
とても疲れている。
カフェインを摂りすぎなんじゃないかと思い、四日くらい前から摂らないようにしていたらやたらと調子が悪く、調べると離脱症状というのがあるらしいことを知る。
そういう症状があると知ると、仕事中にイライラしてしかたがないことも、頭が痛いような気がすることも、みな離脱症状とやらのせいに思えてくる。
こうなると、カフェインを摂りたくなる。カフェイン、カフェイン。頭の中がカフェインだらけ。
カフェインのことを考えるのをやめようと考えるのもカフェインのことを考えているのだから。
この思考のサイクル自体が何かをやめようとすることにまとわりつくものなのか、自分の考え方のせいなのか、わからない。
たとえばいろいろ同時にやめてみるのはどうだろう。
たばこもカフェインも、他にもいろいろ依存的なものものをせーのでみんなやめてしまえば、たとえ体の調子が悪くなったとしても、いったい何をやめたことによる禁断症状的なものなのかわからないので、良いのではないか。
などとヨタを思いつくけど、ぜったいにうまくいかないので、文章にしてくだらない思いつきにも花を添えてあげる。ことになるだろうか。

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』、
藤森かよこ他『クィア批評』を少しづつ読む。
『掃除婦のための手引き書』は、カーヴァーとデイヴィスが褒めていたという文句に惹かれて手に取った。
表題作は、バスにのって掃除の仕事をするために家をめぐる話。バスにのればいやおうなく移動するので、いろいろなものが眼にうつる。その描写も良い。途中途中でうしなってしまった恋人への思いが挟まれるけど、やはりバスはすすむし、日は過ぎるし、仕事はしなくてはならない、とうぜん文章もすすむ。とても切ない。明るさが切ない。

08/08

夏らしいことがしたいな、と思い、
植物に水をあげるついでにジョウロに水を汲んで、流してみる。
石畳をつたっていくようすを観察する。平らなようでいて、地面は平らではなく流した水は忠実に流れるべき方向へ流れていく。
石畳の上に散っていた花びらが水に流され、同じ方向へ進んでいくといずれどこかでひっかかりかたまり溜まる。水もまた進行方向を花びらに塞がれてしまい溜まる。
もう一度水を汲んで勢いをつけて流すと花びらは流れていく。流れていくというか、石畳の上に散った。
見ているといつまでも見ていられるような気もしたけれど、これはさみしい! とも思った。

8/11

仕事。
明日から夏休み。 開放感からか、だらだら、なにもせず夜更かしをしてしまうといういつものパターン。 『クィア批評』を読む。

梅雨があけるまで

7/19

図書館で借りてきた「レイ、ぼくらと話そう レイモンド・カーヴァー論集」を途中まで読む。
体調もよくなってきたので良かった。
本日は天気も良かった。
暑かった。
  

7/23

仕事。
転職のこともぼんやりと考えながら過ごす。
Sは「転職する」と断固とした決意をあらわにしていた。
近ごろ(ずっと?)悩ましいのは、自分には体力がないのではないかということで、たとえばSなんかはフルパワーで一日遊んで、次の日に丸一日寝ている、みたいなことができる。妹もできる。こういうのを体力がある、と思っている。わたしはできない。
どうしたらいいのだろう。いろいろ。  

多和田葉子「ペルソナ」を読む。 顔は人から見られる。
  

7/24

ダダシェフというロシア人のボクサーが試合後に亡くなった。

7/25

休み。
急に夏が来たようだった。
とたんにどこかへ行かなくては、と焦燥感にかられる。
かられるだけでとくには何もしなかった。
江國香織『犬とハモニカ』を読み終える。
短編集でどれも良かった。描写がよくて、明るい昼間の場面の穏やかな雰囲気のまま終わってしまえばいいのに、と思う作品もただそれだけでは終わらなかったりもする。そういう味わいもあるのだと思う。 理解し合うことだけが他人と理解し合うことではないのだと明るくもなる。
多和田葉子犬婿入り』も読む。表題作の冒頭の夏の団地を切り取ったところがすごく良かった。多和田葉子の小説には期待していなかった良さだった。

7/26

仕事。
夏っぽくなってきたね、と上司に言われて、
ちょっと嬉しそうな顔で言うものだから、
わたしもちょっと嬉しそうな感じで、そうですね、と言ってみたら、嫌んなっちゃうよなどと言うものだからどう返ていいのかわからず、へへへ、と例の嫌な笑い方をしたら、すたすたどこかへ行ってしまった。

梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』を少し読む。
中国における低賃金労働の問題について解説し〈グローバル運動の圧力は、それ自体は状況を変化させる力をほとんど持ち得なかったことは明らかだろう。〉と述べる。勉強になる。

そういえば、王兵という映画監督が好きでちょっと前に見た「苦い銭」という映画の中、登場人物がみんなスマホを持ってるのが印象的だったのを思い出した。それは同じ監督のもっと前の「鉄西区」という映画が2000年くらいの映像だったのと比べて思ったのだと思う。
  

7/28

Sと遊びにいく。
吉祥寺の時計屋さんで、時計のベルトを買う。
二年前に同じお店で買ったベルトがだいぶ傷んでしまっていた。

暑い日だった。
お店は駅から少し離れていたので、歩くのがたいへん。
日陰を探して
歩いてみるも
それほど多くない。
道路の両端を他のところより濃い色にしておけば、脳が日陰と勘違いして多少涼しく感じるのではないだろうか、などとよくわからないことを思ってしまうほど暑かった。

時計屋の帰りに古本屋によりまったく読む予定のない本を買ってしまう。
「最近は、読んだことのない本は買わないようにしていたのに」 と誰に言うでもなく、言い訳してみたけど、よく考えたら先日も新刊本を買ってしまったので、「ようにしていたのに」というのはまったく間違っている。

意思が弱いのかもしれない。
タバコもやめられないし。

以前考えた古本屋で本を買わない方法。
欲しい本を見つけたら棚から抜き取る前に、値段を予想する。上下200円以内なら買っていい。
結果。まったく効果なし。
果はなかったのに、「こうしたら、無駄遣いしませんよ」と何度か嘘をついてしまったことを思い出す。
  

7/29

仕事。
「桃があるから取りに来てください」と内線電話があった。
別の部署からで、わざわざ電話でこそこそ言ってくる場合は、わたしの上司やその上司の分はなくその部署で分配するには中途半端だったために余った分を適当に押し付けようという魂胆の場合が多い。
などと嫌なことを考えがちなのだけど、そういうのはよくないと気をとりなおして、桃を楽しみして帰るときに頂いて帰った。 袋に入っていた桃をあけてみると、すももで、すももの方が好きなので良かった。


08/02

仕事が忙しくなっている。
嫌んなっちゃう。
と言ってみても、どうにもならず。
暑すぎる。これもどうにならない。
あまりにも明確に夏が訪れたので、梅雨が明けたというニュースに気づかないまま数日が過ぎていた。
蓄積されるダメージというのはあるだろうから、毎年おとずれる猛暑は、きっとわたしをじわじわと衰えさせているに違いない。

約一ヶ月間の日記

6/10

雨にうんざり。
雨が好きだったときもあったと思う。

 

6/11

 仕事。
有給をとったら、と勧められたものの、有給を取るために業務を調整しなければならないのが異様に面倒に思えてから空返事ばかりしてしまう。
この調子では、休みを取りたくない変なやつだと思われかねない。もちろん、休みはほしい。何日休んでも多すぎるなんてことは絶対にない。

 

6/12

仕事。
日中は雨はあまり降らなかった。
今は雨音がしている。

的場昭弘カール・マルクス入門』を少し読む。
マルクスの著作の解説というよりは、伝記色つよめ。

 

6/13

休み。
通っている美容室の美容師が店を変えるかもしれないとのこと。
考えなければならないことが増える気がして面倒な気分になる。

尾崎翠第七官界彷徨」を読む。
穏やかな気分になる。
会話はチャーミングだし、登場人物たちが暮らす建物の感じもとても良い。

 

6/16

休み。
暖かい一日だった。
家のなかで過ごすのにはちょうど良かったと思う。暑いくらいだったかも。
新しい部屋着を着て過ごしたら気分が良かった。そんなことで気分が良くなるのだ。

日記以前の、或いは決して日記に書かれていない筈の、おぼろな、しかし色彩にあふれた閃きのような存在感だけが、私の憶い出せるすべてであった。意識の記憶より感覚の記憶のほうがはるかにつよいことに私は驚いた。道の、家のたたずまい。陽ざしと暗がり。音のきこえ方。匂い。ーーそれらを手がかりに、私はいつの間にか、数年がかりで私の幼時を再体験していた。そうしながら眺めてみると、それは実在の記録より以上に親しみ深く、生き生きと〈ほんとうの幼年〉として私の眼に映ったのだった。

 私の中の幼年/吉原幸子

という文章をメモした。
手書きの良いところはめんどくさいことかもしれない、と思う。

余華『ほんとうの中国の話をしよう』を読み始める。
タイトルから想像していたのは違う感じ。
私小説のような、幼い頃の記憶などが書かれる。
〈憶い出せるすべて〉のような。
微妙な心情が述べられているけど、過去の自分自身の心情にあまり深入りはしない。

 

6/17

宇宙にただよう微かなささやき。暗く、誰もいない場所、振動はわかりやすい線を描き、安心に伝わる。
はっきりと喋ること。

 

 6/18

今日は良い天気だった。
暑かった。いろいろと面倒な仕事が舞い込み、嫌な気分にもなる。
不安なことも多い。大丈夫かしら。

プー横丁にたった家』を読む。
岩波から出ているaniversary edition(挿絵がカラー!)を図書館で借りてきた。
そのうち買えればいいな、といつも思う。

そういえば中学生とか高校生くらいのときあるいはもっと前のころは、買った本より借りて読んだ本のほうが断然多くて、そのくらいの時期に読んだ本は自分にすごく影響を与えているはずだけど、手元にないのはちょっと惜しいような気もする。

さて、そのあとで、橋の上にのこったのは、クストファー・ロビンとプーとコブタでした。
ながいあいだ、三人はだまって、下を流れてゆく川をながめていました。すると、川もまただまって流れてゆきました。川は、このあたたかい夏の午後、たいへんしずかな、のんびりした気分になっていたのです。

「プーがあたらしい遊戯を発明して、イーヨーが仲間にはいるお話」のラスト。有名な橋から木を投げて遊ぶお話。イーヨーとトラーが仲違いしてしまうも、クリストファー・ロビンの機転で最後は良い感じで終わる。
そしてこの文章が出てくるのだけど、永遠の夏の川辺という感じでとても良い。


6/19

仕事。
今日は仕事終わりに、図書館へ行き、そのあとダイソークリーニング屋に行った。活動的で良い。
昨日から、明日は早く寝ようと思っていたけど、けっきょく十二時を過ぎている。ちかごろは朝起きたときに本当に眠たくてどうしようもない。

 

 6/25

仕事。
わりかし暇がある仕事だけど、空いた時間を無駄にしてしまっている気がする。

晴れ。昨日の天気もあまり覚えていない。なのでとうぜん、一昨日の天気も覚えていない。
天気がころころ変わって、寝る前に翌日の天気をチェックしても、朝起きたら変わっている気がする。
今日は良い天気だった。晴れいていた。雨が降った日を悪天候というのも変な気がする。良い悪いという話ではないのかも。

こんなに晴れているのに、なんで仕事をしているんだろうという気分になるので、そういう意味では悪い天気と言えるかもしれない。
帰宅後は、多和田葉子『聖女伝説』を少し読む。
ちかごろあんまり本を読めていない。気持ちが浮ついているのかも。

 

6/27

休み。
10時半ころまで寝てしまう。

父は仕事やめて半年くらい家でのんびりしている。気にしているようで、センシティブな雰囲気をときどき出すとか。

本日も多和田葉子の『聖女伝説』を読む。
足について、いろいろ書いてある。
歩くこと、足について。
「かかとを失くして」という小説も著者は書いている。
裸足とか、足をなくす、とか、歩けなくなることへの恐怖?

 

6/29

Sとクリスチャン・ボルタンスキー展を見にいく。
あんまりよくわからなかったけど、それなりに面白いような気もした。
帰りに、ナッツの専門店でくるみを買う。
買って電車に乗ろうとしたところで傘を忘れてきたことに気づき取りに戻る。朝からお腹の調子が悪くて、駅ビルのトイレに寄ったらくるみを置いてきてしまった。何マス戻る?

 

6/30

今日はあまり本を読まなかった。
それでもなんとなく充実した気分があって良かった。
『新作文宣言』を読んでいたら、もう自分の文章感みたいなのがすごく影響を受けていることに気づいて驚いた。

最近外をうろうろしていると、すぐに疲れてしまう。
以前からすぐに疲れてしまうほうではあったけど、疲れてからの粘りというか、そこからけっこうたくさん動き回れた#のに、最近はつかれてくるともうちっとも動きたくなくなるし、眠くなってしまう。
年齢のせいかなとか一瞬思いかけたけど、歳をとったふりをするにはまだ若いような気もする。歳をとったから、という若い人ってあんまり好ましくおもわないし。

カバンが重いというのはあるかもしれない。本というのはなかなか重い。出かけるときに本をたくさん持ち歩いてしまうというのは、エッセイとかを読んでいてもよく出てくるエピソードなので、よくある話なんだろうけど、みんな体力あるのね。

 

 7/2

仕事。
異様に体調が悪くてなにも手につかなかった。
体が火照って内側から発熱しているような感覚。
手足が、関節がだるい。
たぶん熱があったんだと思う。
熱中症かと思ってどきどきしたけど、たぶん違いそう。

近ごろあまり本を読めていない。
頭に入ってこない詩集を読んでいるというよりは眺めたりしている。
いろいろ雑事に追われているせい?
先月の後半から生活のリズムが悪くなって、なおせないまま半月くらい経ってしまったようだ。

 

 7/8

仕事。
先週くらいからずっと体調が悪い。
今週の平日休みの日にはさすがに病院に行こうと思っていたら今日はわりかし調子が良かった。休みまでに治ってしまうかもしれない。

安田峰俊『八九六四』という天安門事件についてのルポタージュの本がとても面白かった。事件に関わった人や事件から影響を受けた人にインタビューした本。

日記6/6~6/9

6/6

休み。
暑い1日。明日からは梅雨に入るとか入らないとか。
外に出かけて、新しい発見をしたいとか、そんなことを思ったりして過ごした。
疲れているのか、昼近くまで寝てしまったのだけど。

ブッツァーティタタール人の砂漠』などを読む。

将校に任官したジョヴァンニ・ドローゴは、九月のある朝、最初の任地バスティアーニ砦に赴くべく、町を出立した。

 とはじまる。 
ドローゴは赴任早々、何もないバスティアーニ砦から出たいとのぞみ、上官にもそう伝える。しかし、そこで働く他の人たちと同じように、不思議と居着いてしまうようだ。

緊張感のある状況のなかで、間延びする時間。どうしようもなく美しい瞬間への期待。

 

6/7

仕事。
梅雨になる。
仕事中、雨に濡れる。
雨に濡れると、室内に入って、湿った服を払ったり拭いたりしても、いつまでも雨がまとわりついているみたいで嫌だ。

ブッツァーティタタール人の砂漠』を少し読む。
おもしろい。
退屈のなかで、期待が緊張感のある状況をうむ。
夏は、期待と退屈の季節だと、遠い青春を思い浮かべて思ったりしながら、ちかごろを過ごしていたのだけど、退屈が期待をうむということもあるのかもしれない、などと思ったりする。
期待しているから、退屈するのだと思っていた。
あるいはそういうこともあるのかもしれない。
わたしは今でもいろんなことを期待していて、それはつまり「訪れる」ということを待っていたりする。
癖と言えばいいのか、悪癖。

 

6/8

仕事。
今日も1日雨だろうか、と憂鬱な気分で出勤。
ところがさほど雨は降らなかった。なんならちょっと晴れていた。
なんで雨が降ると憂鬱になるのか。憂鬱になりたいのかも。
憂鬱の甘さはどんな味だろうか、とときどき考える。
喉にはりつく甘さ、と書いてみるとしっくりくるような気もする。
喉にはりつく甘さがどういうのかはわからない。

薄荷の匂いがする夜、ということもときどき考える。
薄荷の匂いがする夜に遭遇したことはないけれど、わたしの鼻が悪くて感じ取ることができないだけなんじゃないだろうか、と思うときはあって、そんな日は晴れていて夜が青い。
これは稲垣足穂から来たイメージかも。
読んだのはずいぶん前だから定かでないし違うかもだけど、読んだ時の印象の残り滓が時間を経て形をかえたのだろうか。

ブッツァーティタタール人の砂漠』を読む。
とても苦い。この小説で描かれるような悔恨をとても恐れている。


6/9

Sと池袋で中華を食べる。
中華は、いろんなメニューを食べたくなるので、なるべく一人よりも二人、二人よりも三人で行ったほうがきっと楽しい。

雨が降っていたので、いつまでも外にいる気にはなれず。
三時前くらいまでは曇りで西武の屋上へ行ったりした。

池袋はいま公園の改修を行っている。
綺麗になるらしい。
世の中はどんどん清潔になっていくみたい。

清潔といえば内臓があんまり清潔なものに思えなくて、
TOMOVSKYが「骨」という曲で〈脳よりか骨だ そう骨だ 燃やしたって燃えないんだ〉と歌っていたけど、内臓より骨のほうが好き。
たぶん人によって、骨なのか内臓なのか肉なのか、自分の体のイメージの拠点をどこに置くかというのは異なっているのだと思うけど、わたしはたぶん骨で、骨はまったく動かないし、清潔な感じがする。
骨派にとって内臓はまったく汚らわしく、皮膚の内側に内臓をくっつけてるわたしたちはどうころんでも清潔になどなれるはずもなく、無菌状態の街から排除されるのはわたしたちだって例外ではないのでは、などと思ったりする。

TOMOVSKYを思い出したのは、The ピーズを聴いてたから。
やっぱりピーズはかっこいい。
昔、The ピーズ中島らもで毎晩泣いてる知り合いがいたけど、今はもう子供がいるとかいないとか、風の噂を思い出したり。

ああどこの誰が
本当に幸せなんだろうか
冷たいヤなやつも
体だけはあったかいだろうや

The ピーズ/日が暮れても彼女と歩いてた