悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

父と母が一緒に暮らし始めたころ

父と母が一緒に暮らし始めたころ、若い二人は駅前にできたばかりの串焼き屋へ出かけた。行きつけにしうかな、なったらいいね、なんて話しながら。ところがその串焼き屋はあまり美味しくなく、さほど行かないまま、ほどなくして潰れた。

父だったか、母だったか、どちらに聞いたのか忘れてしまったけど、この話が好きだ。

行きつけにしようかな、というのが良い。
誰だって行きつけは欲しい。
思えば私も高校生のころ、下校途中に新しくできた喫茶店を見つけて友だちと行きつけにしようと目論んだことがあった。行ってみるとコーヒーしか頼んでないのにケーキも出してくれてサイコーだなと思った。母にその話をしたら、その喫茶店はもともと夜に居酒屋をやっていて、母も会社の飲み会で使ったことがあると言われてなんだか興醒めしてしまいそれっきり行かなくなってしまった。

行きつけにしようかな、という心はかわいい。
あまり人に言わないことだ。
「ここ行きつけなんですよ」というほど「ここ行きつけにしようと思ってるんですよ」とは言わない。
ベケットを好きになろうかな、とたぶん同じだ。ベケットを好きになろうかなとはあまり言わない。読もうかなとは言うかもしれないけど。
あなたのことを好きになろうかなとも言わない。なんとなくそんなつもりでいたとしても。

現に今ある行きつけの店や好きな本について、振り返ってみても「行きつけにしようかな」とか「好きになろうかな」という気持ちは、もしあったのだとしても、見えにくくなってしまう。

行きつけになったり好きになったりすることが叶わなかった出会いを振り返ったとき、「行きつけにしようかな」と再会することができる。

だから「行きつけにしようかな」には、かつて描かれた、そして叶わなかった、未来への懐かしさが含まれている。

そして父と母がかつて叶わなかった行きつけの店について話すとき、私は私のいなかった未来も懐かしく思い浮かべることができるだろう。