悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

野村の舌

この前の休日のこと。ふいに牛丼を食べたくなった。
めったにないことだ。
歩いていける距離に松屋があったことを思い出し、昼食は松屋にした。
松屋はまったくなじみのない注文システムになっていた。
店内に入ると席につき、タッチパネルで注文する。しばらくすると番号を呼ばれるので受け取りに行き食べ終わると自分で食器を戻し、精算機にお金を払う。
ビビン丼というビビンバ風の牛丼を食べた。牛丼を食べたくて松屋へ行ったのに、松屋へ行くといつもビビン丼を食べてしまう。
ビビン丼はあったりなかったりする。一年に一度いくかどうかなので、ビビン丼がどういう扱いになっているのか知らない。行っても、メニューにないときもある。今回にしても、名前がちょっと変わっていた。
ビビン丼を食べるたび、野村を思い出す。野村は高校時代の同級生だ。
野村は「松屋と言ったらビビン丼でしょ」と言っていた。
私に言ったのではないかもしれないが、とにかく野村はそのように発言した。
私は野村のその発言をきいてからほどなくして、松屋へ行き、ビビン丼というメニューがたしかにあることを知り、はじめて食べた。野村の言うとおり美味しいなと思った。
野村とはその後とくにビビン丼の話をすることはなかった。それでも私はときおりビビン丼を食べ、野村が「松屋と言ったらビビン丼でしょ」と言ったことを思い出す。
ビビン丼を食べているとき、私は野村の舌になっているのかもしれない。
ビビン丼についての私の価値判断は野村の「松屋と言ったらビビン丼でしょ」しかない。なんというか、野村の発言に支えられながら私はビビン丼を食べている。
私も誰かに「松屋と言ったらビビン丼でしょ」と言ったことがあるが、これも私が本当にそう思っているというよりは、野村の受け売りだ。
私がビビン丼を食べているとき、野村にすべてをゆだねており、それはつまり野村になっている。少なくとも舌は野村だ。高校時代の野村の舌だ。
当の野村はすでに「松屋と言ったらビビン丼でしょ」と言ったことなど忘れてしまっているかもしれない。
野村はすでに結婚して家庭があると聞く。ひさしぶりに訪ねてくる義母から電話があり、「お昼ご飯なにか買っていこうか」などと聞かれ、今度小学生になる子供が「牛丼が良い」と言ったりする家庭だろうか。
「牛丼か。たまにはいいかもな」と野村は言い、別に吉野家松屋すき家かなどとくに気にもせず、義母と電話中の妻が「豚汁とかいるの」と聞いてきても、ああとかうんとか生返事をする。
高校時代の野村の一部は、いまの野村とは縁が切れていて、にもかかわらず、私だけが保持している野村(の舌だけだが)があるというのは不思議なことだ。
もちろん、野村が今でもビビン丼を愛し、こだわっている可能性もある。
しかし、野村は野村として連続しているので、高校時代の野村の舌をそれそのものとして保持することは、私に比べて、難しいのではないか。
野村と私がばったり再会し、私がビビン丼の話をしたら、野村は高校時代の舌とも再会するだろうか。